間違ってもいいから思いっきり(和太鼓に狂った数学教師の週末ブロガー活動) -13ページ目

間違ってもいいから思いっきり(和太鼓に狂った数学教師の週末ブロガー活動)

私たち人間は、
言葉で物事を考えている限り、
あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。
当ブログでは、
万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、
言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

 2001年の夏、大学院生だった私は「原子力発電は必要か否か」というテーマのディベートに参加していました。

 このディベートはある面接の試験として行われたもの。
 受験者はまず割り振られたチームごとに集められ、仲間同士で作戦を立てた上で本番に望むことになります。
 私は「必要である」とする立場に振り分けられ、チームの先頭に立って「必要でない」とする相手チームに論戦を挑んでいました。

 相手チームは、過去の原発事故の例を挙げて原発の運転に関わる安全性に警鐘を鳴らし、処理しきれない核廃棄物の問題を追及し、住民の反対を押しきって建設に踏み切る原発行政の横暴を批難し、代替エネルギーの可能性を提案するなどして、「必要でない」とする論を固めてきました。
 チームとしてそれらに一つ一つ反論する準備はしていましたが、相手の論調に応える形で勝負をしてしまえば、以後の議論は互いの粗探しや「できる」「いやできない」といった水掛け論の応酬だけで終わってしまう危険があります。

 ディベートという勝敗を競うゲームでは、「相手の主張に対して根拠のある反論をいかに素早く切り返すか」に特化した弁論術が重要になると言われます。
 ディベートに不馴れな私としては、声の大きさと口数の多さと切り返しの早さだけが問われるようなパワーゲームに、いそいそと精を出す気にはなれませんでした。

 そういった泥仕合的な展開を避けるため、私は作戦会議の時点で全く別のアプローチを立案していました。
 それは、勝負する土俵を替えること。

 私はまず、事故やテロ攻撃の危険性もなく、廃棄物の処理も安全に行えて、地域住民との意思確認もスムーズに進めることができる「理想の原子力発電所」が存在すれば、それは認められるのかという架空の想定についての質問を相手チームにぶつけました。
 それに対して相手チームは、もし本当に「理想の原子力発電所」なんてものが実現可能ならば認めても良いが、現実問題としてそんなものは不可能だと切り返してきました。

 こうなればこっちのもの。
 私は以下のような反撃を加えました。

今回のディベートのテーマは「原子力発電は必要か否か」であって、「現時点で原子力発電を推進すべきか否か」ではない。
だから、今現在の原子力発電に問題があるからといって、「原子力発電は必要ない」と結論付ける理由にはならない。

このディベートのテーマは「原子力発電は必要か」であるから、私たちは原子力発電の目指す理念に関して議論すべきである。
あなた方は「理想の原子力発電所ならば認めても良い」と同意したのだから、それは「原子力発電は必要」と認めているのと一緒ではないのか。

 こうして当時の私はこのディベートを優位に進めていったのですが、今の時代だったらこんな詭弁はとても通用しないでしょう。
 そもそも「原子力発電が必要か」という問い自体が、原発という現実とどう向き合っていくかを検討するために生まれたもの。
 「理想の原子力発電」なんて言葉遊びを持ち出したところで、これからの現実を検討する材料としては全く無価値なものでしかありません。

 こんな陳腐な空論でもディベートを優位に進められたのは、原発推進が国の規定路線としてまかり通っていた時代背景のおかげです。
 誰が何を言おうと原子力発電は国策として推し進められていくという現実の中で、「原子力発電は必要か否か」なんて議論はそもそも、実際の原発行政には影響しない机上の言葉遊びでしかありませんでした。

 面接試験の受験者だった私の個人的な目的は、原発行政の是非に言葉の上での決着を付けることではなく、その試験を突破すること。
 当事の私は試験官に向けて、設定されたテーマの枠内で議論をする能力さえ示せれば良かったのです。

 福島第一原発の事故によって原発の安全神話が崩壊し、原子力ムラによる世論形成のための情報工作が頻繁に取り沙汰されるようになった今、ディベートの中で反対派を論破していた当事の私は原子力ムラの手の平の上で良いように踊らされていた人物として評価されるでしょう。
 この個人的な恥部を敢えて持ち出したのは、「話題の前提を疑う」という習慣の重要性を改めて訴えるためです。

 今回の記事で疑われた前提は、4つほど挙げられるでしょうか。
 まず一つ目は、「原子力発電は必要か」というディベートは現実の原発行政を問題にしているのかということ。
 二つ目は、試験の受験者にとって、原子力発電についての信条的決着をつけることと試験をパスすることのどちらが重要かということ。
 三つ目は、「原子力発電は必要か」という議論は原発行政の参考にするために行われていたのか、それとも原発推進のためのただの証拠作りとして行われていたのかということ。
 そして四つ目は、私は何のためにこの記事を書いているのかということ。

 インターネットが普及した現代、世の中には膨大な量の情報が溢れています。
 こうした情報の氾濫の中では、一つ一つの情報を見極める情報リテラシーが必要だと言われています。

 この「見極める」という言葉に、私は危険な響きを感じます。
 情報リテラシーのことを単純に「どれが本当でどれが嘘かを見極める力」だと思っている人は、インターネット上の掲示板やつぶやきやブログなどで見極めたつもりになった「本当の情報」に振り回されることになります。

 私が広まって欲しいと願う情報リテラシーとは「本当の情報を見極める力」とやらではなく、それぞれの情報がどんな意図で発せられたものかという「話題の前提を疑う」習慣のこと。
 ですから私は、この記事をアップする私の意図が疑われることを、切に願っています。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html


 高校で受験数学を教えながらプライベートでは和太鼓や民舞の普及に努める私にとっての心の師は、思想家にして武術家でもある神戸女学院大学の内田樹です。
 彼はその著書『邪悪なものの鎮め方』の中で、技芸における停滞について次のように語っています。

自分の無知や無能を認めることは、「よくある向上心」にすぎない。
「ブレイクスルー」は「向上心」とは次元が違う。
自分自身が良否の判定基準としている原則そのものの妥当性が信じられなくなるというのが「ブレイクスルー」である。

ところが、「原則的な人」はこのような経験を受け入れることができない。
自分が立てた原則に基づいて自分自身を鞭打ち、罵倒し、冷酷に断罪することにはずいぶん熱心だか、その強権的な原則そのものの妥当性については検証しようとしない。

原則の妥当性を検証する次元があるのではないかということに思い及ばない。
それが「原則的な人」の陥るピットフォールである。
そのようにして「原則的な人」はしばしば全力を尽くして自分自身を「幼児」段階に釘付けにしてしまう。

小成は大成を妨げるというのは甲野先生のよく言われることであるが、それはほんとうで、局所的に機能する方法の凡通性を私たちは過大評価する傾向にある。
「原則的に生きる人」はある段階までは順調に自己教化・自己啓発に成功するが、ある段階を過ぎると必ず自閉的になる。
そして、どうしてそうなるのか、その理路が本人にはわからない。

これだけ努力して、これだけ知識や技能を身につけ、これだけ禁欲的に自己制御しているのに、どうして成長が止まってしまったのか。
それがわからない。
だから、ますます努力し、ますます多くの知識や技能を身につけ、ますます自己制御の度合いを強めてゆく。
そして、知識があり、技能があり、言うことがつねに理路整然とした「幼児」が出来上がる。

若い頃にはなかなか練れた人だったのだが、中年過ぎになると、手の付けられないほど狭量な人になったという事例を私たちは山のように知っている。
彼らは怠慢ゆえにそうなったのではなく、青年期の努力の仕方をひたすら延長することによってそうなったのである。

 ここで紹介されている甲野善紀の『小成は大成を妨げる』という言葉は、彼の長年に渡る古武術研究の中で生まれた実感。
 重量や回数をただ増やすだけでは動作の質的な革新など望めないのに、現代のスポーツトレーニングの多くは目先の数値ばかりに気を取られており、人体の持つ豊かな可能性を活かしきれていないと問題提起したものです。

 この問題意識に通じる格言として、武術家であり哲学者でもあったブルース・リーの『考えるな、感じるんだ』が挙げられます。
 私がこれまで数学や和太鼓を指導してきた経験を元に、内田樹や甲野善紀の言を借りてブルース・リーの言葉を解釈するとこういうことになるでしょう。

今のあなたのものの見方では、それ以上次元の高い事柄は理解できない。
より次元の高いものの捉え方を獲得して一皮向けるためには、あなたがまだ知らない価値判断の基準に対してチャンネルを閉ざしてしまわないことが肝心である。

現状の凝り固まった頭の使い方で脳みそを稼働し続ける限り、いつまでも同じレベルの小成を重ねるだけ。
未知の判断基準へのチャンネルは閉ざされたままで、あなたのものの捉え方は現状から決して成長することはない。

今以上の水準に「ブレイクスルー」したいのであれば、「何を目指せば良いか」を今のあなたの「原則」で考えるのは止めにして、未知の判断基準へのチャンネルを解放せよ。
考えるな、感じるんだ。

 ゆとり教育の影響なのか「未熟な学習者にはそのレベルで理解できる説明をせよ。高いレベルの者にしか通じない説明を初学者にはするな」というニーズは未だに根強いようです。
 書店にはそんな「幼児」たちのレベルに合わせた、分かりやすく薄っぺらなビジネス書が溢れています。
 ですが、いつまでも「分かりやすい易しい説明」ばかりを繰り返していれば、その学習者のものの捉え方は初学の段階でストップしたままになってしまいます。

 ですから、和太鼓の打ち方などを教えるときも、状況に応じて「分かりやすい表面的な説明」の中に「動作の質に関する深層的な説明」を紛れ込ませるよう心がけています。
 そうすれば初学でまだ慣れない人はそれぞれの許容量の範囲で「分かりやすい説明」だけを受け取っていくし、それだけでは飽き足らない中級者は「1ランク上の説明」の方も受け取ることができます。

 そのため、全く同じことを2回以上説明したとしても「初めからそう言ってくれれば良かったのに」ということがよく起こります。
 これは、最初学んだときには受け取る余裕がなくて無意識のうちにスルーしてしまっていたことも、回数を重ねているうちに受け取るだけの素地が出来上がって理解できるようになったということ。
 変わったのは説明の内容ではなく、受け取る側の姿勢だったというわけです。

 ですから「己の学ぶ姿勢を全く変えずに、自分の持っている考え方だけで全てを理解しようとする人」というのが一番の厄介者です。
 現時点での己の方法論に自信を持っている人ほどその傾向が強いので、そんな学習者に対しては「今のあなたの学習法では決して到達することのできない境地がある」という事例を実際に見せることでその限界を思い知らせることにしています。

 小成は大成を妨げる。
 自分もそんな厄介者になってしまわないよう、常にチャンネルを開いておきたいですね。
 考えるな、感じるんだ。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
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※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
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 私たち人類は、言葉や概念を獲得することでその行動様式を大幅に変化させていき、地球上における今日のような繁栄を実現しました。
 しかし、言葉や概念によるヒトへの矯正はパワフルかつストレスフルなもの。
 貨幣やモラルや学問といった社会的習慣の発明は、言葉の影響力を増大させて文明社会の発展に貢献しましたが、それらの強迫的な圧力は動物としての身体の可能性を殺す方向にも働いています。

 私が和太鼓の指導などを通じて日々感じているのは、大人の都合による「行儀よくあれ」「じっとしていろ」「やたらと動き回るな」といった数々の刷り込みがヒト本来の運動性能を阻害しているということ。
 むやみに暴れまわらない行儀のよさを前提として成り立っている近代社会において、一人前の成員として認められるためにはその社会の文化的奇習を身に付ける必要があります。
 ですが、長年に渡って「動くな」という禁止令に従い続けていると、体を動かすべき場面にまで「体を固定する」という余計な刷り込みが邪魔してしまい、運動能力の劣化という望ましくない副作用を招くハメになります。

 こうした問題意識を元に、和太鼓指導の場面において私がこだわっている視点は次の二つです。
 まず一つ目は、近代的な文明社会の抑えつけによるストレスを発散するための機会として、全力で暴れ回ることが許される和太鼓演奏の場を活用すること。 
 そして二つ目は、「体をむやみに固定しない方が動物本来の柔らかくてキレのある動作を引き出せる」という武術やスポーツの世界での常識を、お行儀よく姿勢を固めてしまいがちな和太鼓の世界にも浸透させていくこと。

 「大人しくしていろ」という社会圧によって被ったストレスの発散を目指す一つ目の目的意識から、私は「バチコーン道場」という初心者向けの気楽な体験会を毎年福岡で主催しています。
 そこでのモットーは「間違ってもいいから思いっきり」という、私の和太鼓の師匠である歌舞劇団「田楽座」の方々からいただいたアドバイスを受け継いだものです。

 この格言を特に強調するのは、大多数の日本人が家庭や学校や職場において周囲からの逸脱を怖がるように刷り込みを受けてきており、習い事などの場でもついついその習性が出てきてしまうから。
 そういった社会における普段のストレスを発散する機会として主催した場所にまで、ちまちまと神経質な強迫観念を持ち込んで欲しくはないのです。

 また、運動時の「姿勢を固定してしまう癖」を断ち切るという二つ目の目的意識から、和太鼓や民舞における合理的でキレのある自然な身体操作を追求し続けています。
 野生動物のようななめらかでシャープな動作のポイントは、全身を筋肉の力みだけでコントロールしてしまわずに慣性や重力など自然の物理法則に身を委ねてしまうこと。 
 特に和太鼓の場面では、田楽座から教わった打法にオリジナルのアレンジを取り入れることで、「バチコーン打法」という野生と慣性と重力の活用にこだわった打法を考案しています。

 下半身の位置を固定させず、バネのように柔らかく使う。
 体や顔の向きも固定させず、自在に動くように開放させる。
 バチの挙動も逐一制御してしまわず、バチの行きたいところへ行かせてあげる。
 そういったブレーキをかけない体の使い方の中で、「重力に身を任せて重心を落下させる」「太鼓の皮の跳ね返りに任せて重心をバウンドさせる」「体の各部を慣性に任せて放り投げる」などのノウハウを体に染み込ませてあげれば、重くて深くて柔らかくて勢いのある一打一打が仕上がっていきます。

 こうしたアグレッシブな打法の狙いは野生の解放による迫力や爽快さの追求であり、「行儀よくあれ」という社会圧から解放される場としての和太鼓の活用。
 しかし現代の日本では、同じ和太鼓をやるにしても「行儀よくあれ」という日本的な刷り込みの枠内でしか取り組まれていないことの方が多いようです。
 20世紀後半から普及し始めた舞台演奏としての和太鼓の世界では「分かりやすく整えられた様式美」が目標とされてしまうことが多く、そういった環境ではマスゲームにおける一斉行進のように画一化された身体操作が蔓延しやすくなっています。

 そうした諸々の刷り込みによって抑えつけられてきた可能性を引き出していきたいというのが、バチコーン打法を考案し、バチコーン道場を運営してきた目的です。
 お行儀よく振る舞うことが必要になる場面も社会生活には多々ありますが、周囲にお伺いを立てることなくのびのびと自分を解放できる場所も確保していきたいものですね。


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 井上雄彦の描く歴史漫画『バガボンド』にて、宮本武蔵が村のお母さん達に請われて剣を教える場面があります。
 このときの逸話が、和太鼓を打つときの心構え、ひいては運動全般のコツにも通じていたので紹介してみたいと思います。
 ここで奨励されていたのは、ヒト本来の運動性能を阻害してしまうような、余計な固定観念からの脱出です。

 初めて持つ木刀をどう振り回していいか分からないお母さん達に対し、武蔵は「腕はないと思って振れ」というアドバイスを与えます。
 武蔵のアドバイスを素直に受け取ったお母さんの一人は、手の内の握りをゆるくしすぎて木刀をあさっての方向にすっ飛ばしてしまいます。
 それを見た武蔵はこう言って褒めます。

大したものだ
なかなか剣は飛ばない
自分の体とは違うものを持ってるから
放しちゃいけないと力いっぱい握る
手にしたその得物で相手を斬る
余計に放すまいと力を入れる
でもその力は相手を斬るのには使われず
自分を縛るだけ

腕は真面目でがんばり屋
欠点は一人でがんばりすぎること
脚や腹や腰やヘソ
ほかの連中をすぐ忘れる
だから時々腕はないと思って振る
おっとその前に空を見る

 ここで言う剣は、太鼓のバチに置き換えても全く同じです。
 太鼓を打つときも、多くの初級者は生真面目に腕の力だけでがんばってしまいます。
 そのせいで、初級のうちは前腕や上腕のみに負担が集中してしまい、練習や演奏のたびに筋肉痛で腕がバキバキに固まってしまいます。

 ですが、脚や腹や腰やヘソなど全身が協力し合って一打一打を打てるようになれば、腕一点に固まりがちな負担が体全体に拡散されて薄まります。
 そうなると、肩甲骨回りや腰回りなど体幹の大きな筋肉の使われる頻度の方が高くなり、腕のような末端の筋肉が痛むことはそう多くなくなります。

 バチをしっかり握り過ぎている人に「打つ直前までは握らずにただ触れているだけで良い」と言っても、普通は「バチをすっ飛ばしてしまいそうで怖い」と勝手な思い込みの殻の中に閉じ籠ってしまうことが多いです。
 その殻を打ち破ってバチをすっ飛ばしてしまうほどのチャレンジができるような素直な人は、本当に大したものなのです。

 また、ガチガチの姿勢のままの狭い視野で動作に集中しているうちは、その狭いエリア内に動きが縮こまってしまい、身体がのびのびと躍動するのを邪魔してしまいます。
 空を見上げるくらいのおおらかな広い視野でのびのびと動けば、無理に意識しなくたって脚や腹や腰やヘソなど全身が自然と太鼓を打つ動作を手伝ってくれるようになります。

 この動作の食い違いの根本的な原因は、身体の主導権がどこにあるのかという基本認識にあります。
 いつも頭で物を考えている「この私の想い」こそが司令塔だと捉えて身体を従わせようとしている人の動きは、独り善がりに頑張ってみても大抵は空回りしてぎこちないものになります。
 ですが、この身体の主導権は「私など及びもつかない身体の理」にあると兜を脱ぎ、どのように動くかを身体に任せられるようになると、ある種のブレイクスルーが起きます。

 もともと人の考える理屈なんてものは、複雑な構造を持つこの人体の3次元における動きなんてほとんど把握しきれていません。
 それなのに分かったつもりになってつたない思い上がりで身体を支配しようとするから、道理に合わない薄っぺらな動作を身体は強いられることになります。

 その点ではむしろ、下手な考えなんてない赤ん坊の方が、落下の衝撃から柔軟に身を守ったり、骨格の固まりきらないアンバランスな身体で立ったりすることができ、自然の物理法則をちゃんと使いこなせています。
 「この私の考え」なんかよりも「自分のこの身体」の方が、動作や感覚についてはもともと桁違いに賢いのです。

 頭で解釈した動きに身体を従わせようといきり立つのではなく、肚の底から湧き上がる衝動に「この私」はただ乗っかっていて、些細な意図に応じてたまに微調整をしたりするだけ。
 その方が、遥かにレベルの高い伸びやかなパフォーマンスに到達することができます。

 考えるな、感じろ。

 縛り付けるな、身体に任せろ。

 太鼓を打つときも、スポーツをするときも、力を抜いて、空を見上げて、身体の奥底から湧き上がってくるワクワクを楽しんでいきたいものですね。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
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 『海馬』『高校生の勉強法』『進化しすぎた脳』などの著作で知られる池谷裕二の活動テーマは、脳科学の視点から見て「よりよく生きるとは何か」を考えること。
 楽しく、ごきげんに生きるために脳科学の成果を活かそうとうする彼の脳の捉え方が、『脳には妙なクセがある』という著書にまとめてあったのでここで紹介してみます。

「脳」が何のために存在するのか考えてみましょう。
現在では「脳」は高度な情報処理を実行する特殊な組織として機能しています。
だから、「脳は何のためにある?」と訊くと、たいていの人は「精神を司るため」とか「意識や心を産み出すため」と答えます。
しかし、こうした機能は脳の本質ではありません。

ごく初期の生物を見たほうが、脳の本来の役割がわかるというものです。
こうした生物では、脳は、外界の情報を処理して、適切な運動を起こす「入出力変換装置」です。
餌ならば近寄る、敵や毒ならば避けるといった、単純ですが生命にとって大切な反射行動を生み出す装置です。

つまり当時の脳は、とことん身体感覚(入力)と身体運動(出力)の処理に特化した組織だったはずです。
こうした経緯を、発展的に再考すれば、すべての高次脳機能が身体制御という原始機能がコオプトされたものであったとしても、もはや不思議ではないでしょう。

 ここで池谷氏が用いている「コオプト」という言葉は、本来は別の目的で機能していたツールを他の目的に転用することを表す用語です。
 本文では、身体制御のための原始的な機能が、感情や思考や計算などの高度な情報処理に使い回されている例が数多く紹介されています。

 トロント大学のアンダーソン博士は筋電図で顔面の筋収縮を測定し、人が道徳的な嫌悪感を感じるときに収縮する顔の筋肉と、苦味を感じるときに収縮する顔の筋肉が共通していることを発見しました。
 彼はこの実験結果から「道徳心は進化的に古くから存在している心理的反応を原型として派生した」と推測しています。
 古い生物は、苦味(毒)や悪臭(腐敗)などの生命にとって都合が悪いものを拒絶するシステムをすでに発見していて、のちに脳はこの効果的なシステムを転用することで、モラルという高度な社会的感情を創作したというわけです。

 カルフォルニア大学のアイゼンバーガー博士らは、心痛に関する実験を行っています。
 何も知らない被験者を集団遊びの中で仲間外れにし、そのときの脳の活動を検査したところ、疎外感を感じたときには手足などの身体の痛みに関係する前帯状皮質が活動することが分かりました。
 つまり、生存のために鋭敏になっている動物としての痛覚系が、ヒトとして社会的に孤立しないためのセンサーとして使い回されているわけです。

 パリ第11大学のノプス博士らは、足し算と引き算などの算術も身体感覚に関係していることを発見しました。
 彼らはまず、眼球を左右に動かすときの頭頂葉の活動を記録し、次に足し算と引き算をしたときの頭頂葉の活動を記録して、両者の比較を行いました。
 すると、実際に眼球を動かしていなくても、足し算をするときには眼球を右に動かすときの活動が、引き算をするときには眼球を左に動かすときの活動が頭頂葉から検知されました。
 ノプス博士らは「計算を行うとき、私たちは左右に伸びる数直線をイメージし、その空想上の数直線の目盛りを仮想的な視点移動で追いかけているのではないか」と推測しています。

 脳の構造は階層的になっており、その中心には脳幹や小脳、基底核といった進化的に古く、身体と深い関係をもった部分があります。
 こうした旧脳のうえには大脳新皮質がありますが、この大脳新皮質と身体との接点は、旧脳に比べてはるかに少ないです。
 つまり、身体感覚や身体運動の制御という面から見ると、大脳新皮質という新参者は必ずしも必要ではない補足品のようなものです。

 この身体性の希薄な大脳新皮質の発達により、ヒトの脳には実際の身体運動や身体感覚を省略する癖が生じます。
 ヒトの脳は、網膜が数直線を捉えていなくても空想上の数直線をイメージしますし、実際に眼球が動いていなくても無意識のうちに架空の眼球運動によって計算を行えてしまいます。
 計算力や同情心やモラルなどの高次な機能はこうした身体性の省略から生まれたのではないかというのが、池谷氏の提唱する仮説です。

 「考える」という行為は身体性から派生しており、純粋に独立した精神など存在しない。
 彼がこの仮説を通じて訴えようとしているのは、日頃の身体経験の重要性です。
 こうした論点を踏まえた上で、最後に『脳には妙なクセがある』に書かれている「楽しく、ごきげんに生きる」ための提言の数々を紹介したいと思います。

ヒトの脳は、身体の省略という美味しい「芸当」を覚えたがために、身体性を軽視しがちです。
身体を動かさずに、頭の中だけで済ませたほうが楽なのはよく理解できます。
しかし脳は、元来は身体とともに機能するように生まれたものです。

手で書く、声に出して読む、オモチャで遊ぶーー活き活きとした実体験が、その後の脳機能に強い影響を与えるだろうことを、私は日々の脳研究を通じて直感しています。
精神と身体は切り離して考えることはできません。
心は脳にあるのではありません。
心は身体や環境に散在するのです。

ローマの詩人ユウェリナスは「健全なる精神は健全なる身体に宿る」という名言を残しています。
この言葉が象徴するように、昔の人は身体を脳の上位においていたにちがいありません。

ところが、後年にデカルトやフロイトなどのように精神の重要性に気づく人が現れ(そして、精神を強調しすぎたがゆえに)、現在では脳を身体よりも上位においてしまう奇妙な錯覚に至ったのでしょう。
そんな今だからこそ、心は身体から派生することを、あえて念頭に入れておくことが大切だと私は思うのです。

「ヒトは自分自身に無自覚であるという事実に無自覚である」とは、ヴァージニア大学のウィルソン博士の言葉です。
私たちは自分の心がどう作動しているかを直接的に知ることはできません。
ヒトは自分自身に対して他人なのです。

こうした研究成果が明らかになればなるほど、意識上の自分をあまり過信せずに、謙虚にならねばと襟を正す思いがします。
と同時に、自分が今真剣に悩んでいることも、「どうせ無意識の自分では考えが決まっているんでしょ」と考えれば気が楽になります。
そう、そもそも私たちは、立派な自由など備わってはいません。
脳という自動判定装置に任せておけばよいのですから気楽なものです。

ヒトという生き物は自分のことを自分では決して知りえない作りになっているようです。
だからこそ私は、よい経験を積んで、よい「反射」をすることに専念する生き方を提案しているのです。
これが脳を最大限に活用するための一番の近道なのだと確信しているからです。
よい経験をしたら、あとは脳の自動的な反射に任せておくだけーーこれほど前向きで、健全な生き方が他にあるでしょうか。


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 世の中にはヨガや禅などをはじめとする数多くの瞑想法があり、適切な方法で瞑想すると自分と周りの世界との境がなくなって「宇宙と一体となったような感覚」が得られると言います。
 こうした神秘体験の存在は「大いなる存在に繋がっている」といった信心を生み、カルト集団における魅力の源泉にもなっています。

 この神秘体験の最中に体験者の脳内では何が起こっているのか。
 脳科学者のアンドリュー・ニューバーグとユージーン・ダキリはSPECTという撮影技術を用いて、瞑想する若いチベット僧の脳内血流の様子を観察しました。
 彼らの著書『脳はいかにして〈神〉を見るか』によると、宗教者達が瞑想に入るとまずはじめに左脳の言語中枢の血流が減少し、次に左脳の後部頭頂領域にある方向定位連合野の血流も減少したときに「大いなる一体感」への到達が申告されたそうです。

 方向定位連合野は空間の位置関係を統合する機能を持っており、その人の肉体の境界を判別することにも役立っています。
 瞑想による神秘体験では、この領域の機能が低下することによって自分の身体の位置の捉え方が明確ではなくなり、それによって普段の空間の感覚を見失っていたということが判明したわけです。

 では逆に、脳内血流の減少による同様の活動低下さえ起これば、瞑想でなくても宇宙と一体となったような感覚は得られるのか。 
 脳卒中による言語機能や運動機能の損傷から奇跡的な回復を果たした脳科学者のジル・ボルト・テイラーは、『奇跡の脳ー脳科学者の脳が壊れたときー』という著書にこの疑問に対する解答を記していました。
 彼女は脳卒中にみまわれて左脳に大出血を起こした結果、修行僧が瞑想時に感じられるような周りの空間との一体感を手に入れてしまったのです。
 そのときの様子を、彼女は次のように表現しています。

どこで自分が始まって終わっているのか、というからだの境界すらはっきりわからない。
なんとも奇妙な感覚。
からだが、個体ではなくて流体であるかのような感じ。
まわりの空間や空気の流れに溶け込んでしまい、もう、からだと他のものの区別がつかない。

この変容状態では、わたしの心はもはや、いつも脳が外の世界で人生というものを定義し、導いてくれていたことなんで、どうでもよくなってしまいました。
外の世界との折り合いをつけてくれていた、脳の中の小さなささやきも聞こえません。

傷ついた脳の中で広がる虚空に、うっとり魅せられてしまいました。
脳の中に静寂が訪れ、絶え間ないおしゃべりからひととき解放されたことがうれしかった。
あのおしゃべりは、今となっては騒がしい外界の些細なことでしかない。

わたしは生まれて初めて、生を謳歌する、複雑な有機体の構築物である自分のからだと、本当に一体になった気がしました。
知覚が遠ざかっていくのがうれしい。
意識が次第に平穏な状態へ向かうにつれ、わたしは、ふわふわと浮かんでいるような気分になりました。

 こうした神秘体験と脳内の生理現象との相関については、いくつかの解釈が考えられます。
 一つ目は、この神秘体験は脳神経が正常に作動しなくなった結果であり、信仰を持つ人々は脳の誤作動をありがたがっているだけだとするもの。
 二つ目は、神秘体験は脳の仕組みで説明がつくかもしれないが、そんな仕組みが人間の脳に備わっているのは大いなる意志が働いているからだとするもの。
 三つ目は、普段の我々の認知状態は言葉や概念によるストレスフルな矯正の産物であり、瞑想などによって「人間的な認知を築く」という苦役を中断することが偉大な体験として受け止められているというもの。
 私の支持する立場は、この三つ目の解釈になります。

 一つ目の解釈との違いは、私たちが生きていると思っているこの「目に見える世界」のことを、本来あるべき正常な姿だと捉えているかどうか。
 三つ目の解釈では、この「目に見える世界」は言葉や概念によって築き上げられてきた歴史的な構築物であり、この数千年間のような言葉や概念が流通していなかった時代には演出されていなかった一種の仮想現実だと捉えます。
 つまり、私たちが当たり前だと感じている「いわゆる人間的な認知」を、人間本来の正常な姿と捉えるのが一つ目の解釈で、言葉や概念によって変化していく過渡的な形態だと捉えるのが三つ目の解釈です。
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 神秘体験で味わえる「ひとつに繋がった世界」こそが個を超越した大いなる境地だとする二つ目の解釈は、私たち人間の「目に見える世界」は仮初めの姿だと見なす点で三つ目の解釈と共通点があります。
 ですが「ひとつに繋がった世界」をやたらと神聖視しない点で、三つ目の解釈は二つ目のスピリチュアルな解釈とは袂を別ちます。
 三つ目の解釈では、私たち人間の「目に見える世界」を築く脳内作業こそが生きるストレスの原因であり、作業中断によるストレスからの解放が神秘体験の幸福感に繋がっているのだと推測します。
 喩えて言うならば、長い間足を締め付けていたスキー靴を脱いだときの解放感のようなものに過ぎません。
 
 これまで当ブログで繰り返し述べてきたように、私たち人間は言葉で物事を考えている限りあらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。
 この○×ゲームのストレスがあったからこそ人類は現在のような文明社会を築くことができたのですが、野生の世界における喰うか喰われるかの生存競走から解放された替わりに、今度は「絶え間ない脳内のおしゃべり」に振り回されるハメになったわけです。
 私たちを取り巻くこうした言葉の荒波に溺れてしまわないよう、言葉の影響力とは上手い距離感で付き合っていきたいものですね。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html
 20世紀中盤に活躍したカナダ人医師のワイルダー・ペンフィールドは、30年間で750人ほどのてんかん手術を手がけました。
 数々の開頭手術の中で彼は、局部麻酔した患者の脳のさまざまな箇所に直接電極を当てて、その際の患者の様子や感想を克明に記録していきました。
 そのようにして彼は、運動、感覚、記憶など、脳のどの部分がどんな役割を果たしているのかを特定したペンフィールド地図を完成させ、後の脳科学の研究の在り方を方向付けました。

 前々回の記事では、「右側頭部のこめかみ辺りに微弱な電流を流すと、患者は神のような存在の声や姿をありありと感じた」というペンフィールドの報告を紹介しました。
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 後に、カナダのローレンシャン大学のマイケル・パージンガーらは開頭せずに磁気刺激する方法で同様の結果を導きだしています。
 この実験では、900人以上の側頭葉が刺激され、そのうち40%ほどの被験者がキリストやマリア、ムハンマド、祖父の亡霊や宇宙人など、それぞれの経験に応じた「大いなる何か」のイメージを知覚していました。

 電磁気による脳への刺激から神秘体験が生まれるという例は他にも報告されています。
 ジュネーブ大学病院のオルフ・ブランケは、右側の頭頂葉の角回と呼ばれる部位を刺激することで、幽体離脱現象が起きることを発見しました。
 この実験で被験者は、己の意識が2メートルほど舞い上がったように感じ、部屋の天井付近からベッドに寝ている自分が部分的に見えたと述べています。

 こういった様々な神秘体験を独自の視点で研究していた人物として、夢分析などで有名なユングが挙げられます。
 彼は古代から伝わる神話や伝説、芸術作品、夢などを研究し、世界中に共通して伝わっているイメージが数多くあることから、人類の心の奥深くには共通した何かがあると考えました。

 そこでユングが考案したのが「集合的無意識」という概念です。
 この集合的無意識は私たちの無意識の深層に存在するものと説明され、国や民族を超えて人類全体に共通するものだと言われています。

 フロイトの提唱した無意識と、ユングの言う集合的無意識を区別する際によく使われるのが、いくつもの突起を持つウニのようなモチーフです。
 ウニのトゲの一つ一つが各人の人格だとすると、トゲの先端は個人の意識に喩えられ、その深層にある個人的な無意識はトゲの幹として喩えられます。
 そしてそのトゲのさらに根元にあるウニの本体こそが集合的無意識だとみなされ、人類は皆その「大いなるウニ」を通じて繋がっていると説明されることが多いようです。

 臨床の現場でカウンセリングに携わっていたユングは、現代の心の問題の多くは神話を持たないことによって生じる虚無感や孤独感が一因となっているという問題意識を持っていました。
 「何のために生きているのか」という理由を神話の中に見出だすことができた時代は自分の存在意義について思い悩むことは少なかったが、科学によって神話が解体されてきた現代ではそうした確信を持つことが難しくなっているというわけです。
 「みんなが一つに繋がっている」とも解釈できる集合的無意識の概念は、悩める人々を救うための「失われた神話」の代替物とも呼べるでしょう。

 こうしたユングの理論は欧米では疑似科学とかオカルトなどと分類されていることがほとんど。
 この集合的無意識のアイデアを元に発展したトランスパーソナル心理学も臨床の場面では実際に使われているようですが、集合的無意識という仮説が正しいから成果が上がっているのか、その神話的な刷り込みが救いになっているだけなのかは判別しようがありません。

 前半に紹介した脳科学の研究は、こうした神秘現象の説明をオカルト的な信仰心に頼ることなく、物理的な生理機能の一部として解釈する試みでもあります。
 集合的無意識と呼ばれる「大いなるもの」も、脳の生理機能が見せている幻影に過ぎないのかもしれません。

 オカルト的な存在意義の説明には数千年からの歴史と伝統があり、生きる意味を「大いなる何か」に保証してもらおうとする根強いニーズは、多少の批判程度では揺らぎません。
 オーラ、風水、守護霊、前世、引き寄せの法則など、「知られざる真実」を語るオカルトチックな物言いはいつの世も大人気です。

 ですが私自身は、自分が生きていくのに「何のために生きているのか」という言い訳や「大いなる何か」といったバックボーンが必要不可欠だとは思いません。
 というか、「自分の生きる意味は何だろう」と思い悩むのは、「生きる意味は必要」と信じこませようとする世間の脅迫の声に屈した結果だとすら考えています。

 スピリチュアルだとか疑似科学におけるオカルト的な説明は、「生きる意味は必要」という刷り込みを真に受けて「生きる意味が見付からない」と深刻に悩んでいる人にとっては救いの方便になることもあるでしょう。
 しかし私は「生きることに意味はあるのか」という問いの前に、「その問いはどんな作為から生まれたものか」といったプロセスの方を疑いたくなります。

 集合的無意識とやらが本当に実在するのかどうかについて、白黒をきっぱりと断言できるだけの根拠を私は持っていませんが、それでも一つだけ分かっていることがあります。
 それは、己の生きる意味を知りたいと願ってしまった人にとって、導き手だと信じられる人は強大な影響力を持つということ。

 オカルトチックな分かりやすい説明の誘惑に身を委ねてしまえば何かが楽になれるのかもしれませんが、他人からのそうした刷り込みに対して無防備でいるのは危険なことだと私自身は感じます。
 教祖やメンターなんかの顔色を伺って生きるくらいなら、彼らの言う地獄とか不幸な生き方とやらでのびのびと暮らしていきたいですね。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
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※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
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 言葉とは、私たちの脳に無数の思い込みを書き込んでいく暗示プログラムのようなもの。
 自覚なく不用意に植え付けられた浅はかな思い込みは、人々の生き方を無闇に縛りつけてしまいます。

 そうした刷り込みの影響力を当たり前に考慮に入れて全ての言動と付き合うという態度を、成熟した大人の当たり前のマナーとして世の中に登録させていきたい。
 「間違ってもいいから思いっきり」というこのブログは、そんな目的意識からスタートしました。

 そして、私の目指すところと対極に位置しているのが、巷にはびこる潜在意識ビジネスです。
 このビジネスの売りは「潜在意識さえ上手く扱えばどうにでもできる」といった幼稚な万能感。
 その様子はまるで、出来杉くんになれないのび太に対して、いつでも助けてくれるドラえもんを斡旋するようなものです。

 ですが、潜在意識ビジネスに登場する胡散臭いテクニックの数々は、何でも解決できる秘密道具ではありません。
 彼らは言葉巧みに「問題解決に近付いているような錯覚」を生み出して、ドラえもんのような万能感を演出しているだけ。
 現実逃避したがる人々の心に目眩ましの納得を提供することで、潜在意識という教えの信者を増やしているのです。

 潜在意識ビジネスの言う「暗示を利用したコントロール」とは、喩えて言うならば乱暴な気象操作のようなもの。
 核ミサイルを打ち込んで雨雲を消し飛ばせば、確かに雨は一時的に止んでくれるでしょう。
 だからといって、雨雲ができるメカニズム自体を壊したわけではないので、いずれは雲がやってきてまた雨がふります。
 山々を破壊するなどして雨雲ができにくい地形にするなどの手段もあるかもしれませんが、雨を降らせなくしてしまうことで出てくる悪影響を全て予測することは不可能です。

 「潜在意識をコントロールする」という安易な発想も、この不毛な気象操作のアイデアと似たようなものです。
 暗示や催眠のテクニックを利用することで一時はのび太たちを感心させられるかもしれませんが、その効果を持続するには雨雲を吹き飛ばす核ミサイルの安定供給が必要となります。

 人の精神活動も、気象現象と同じようにさまざまな要因が絡み合って予想外の結果を織り成していく複雑系の事象です。
 雨や曇りや晴れを思い通りに操ることができないように、人の心の全てを思い通りに操ることはできません。

 私たちにできることは、その予測不能でコントロールしきれない変動の仕組みを謙虚に探り、そこで得られたわずかな予測や操作のノウハウを元に各々の生き方をつたなく模索することだけ。
 できないことをできると言って幼稚な野心を煽るのはもう止めにしませんか。

 そもそも、潜在意識とか無意識といった概念は、私たち人間が掌握できている精神活動の領域がちっぽけなものでしかないことを分かりやすく伝えるための方便です。
 幼稚な野心家たちは「潜在意識さえ上手く扱えばどうにでもできる」と信じたがりますが、こんな悪用をされたのでは提唱者のフロイトもたまったものではありません。

 私が思う無意識や潜在意識といった概念の存在意義とは、未知の存在と向き合う際に必要となる慎重さと謙虚さを自分自身にも向けることであり、「人間は自分の行動を理性的にコントロールできるはず」という勘違いと慢心をたしなめること。
 そのような成熟した大人の態度が、世の中にもっと広まってくれたらと願うばかりです。


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 数千年前の古代人たちは、現代の私たちが抱いているような主観的で意識ある心を持ち合わせておらず、右脳から聴こえてくる神々の声に従って生きていた。
 前々回の記事で紹介したジュリアン・ジェインズは、1976年に刊行した『神々の沈黙』でこの途方もない仮説を発表し、意識を巡るその後の研究に大きな影響を及ぼしました。

 その数年前に行われたワイルダー・ペンフィールドとファノール・ぺローの実験により、人の右側頭葉の後部あたりを微弱な電流で刺激すると、刺激された本人は統合失調症の患者が体験するような幻聴や幻視を感じるということが確認されています。
 これらの幻覚は実際に聴いたり見たりしたものとして経験され、その声や姿はどれも被験者本人のものではなく他者のものとして認知されていました。

 ジュリアン・ジェインズは、この右脳由来で起こる幻覚こそがギリシャ神話に生々しく描かれる神々の正体であり、紀元前2000年より前は誰もが統合失調症だったと仮定したのです。
 今回は、このジュリアン・ジェインズの仮説を元に、私なりにアレンジを加えた解釈を組み立てていきたいと思います。

 ヒトは、比喩と比喩を重ね合わせることでまた新たな比喩を造り出すという、比喩の世界での創作行為がたいへん得意な動物です。
 道具を作ったり、言語を使ったり、死者を弔ったり、といったヒトの際立った特徴はどれも、そういった喩える能力の高さから生じたものです。

 この優れた比喩能力は、体中から送られてくる感覚情報を元に、「目に見える世界」という現実世界の喩えをその内面のスクリーンに写し出してます。
 つまり、私たちが生きていると思っているこの「目に見える世界」は、脳や感覚器官などが演出している一種の仮想現実に過ぎません。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11850649569.html

 そしてこの「目に見える世界」という仮想現実の内部を生きている架空のキャラクターこそが〈私〉です。
 これは肉体の生理機能によって造られた幻影のようなものですが、現代ではこの〈私〉こそが心とか意識などと呼ばれて重要視され、まるで体の主のようなふりをしています。

 ですが〈私〉という比喩が造られたばかりの数千年前は、〈私〉とは肉体が選択する行為のただの傍観者であり、体にとっての付属物でしかありませんでした。
 ミジンコやミツバチや猿などが生理反応によって行動したり学習したりするように、ヒトも生理反応によって行動したり学習したりすることができます。
 〈私〉という作り物のキャラクターにとって、己の「目に見える世界」を自動的に決定していく肉体の生理機能はまさに主そのものだったのです。

 この肉体の生理機能のことを、ここでは〈自分〉と呼ぶことにします。
 犬やイルカやヒトの躾を参考にしてもらえば分かるように、〈自分〉という体の生理機能は、己に向けられた様々な音声が喩えようとしている事柄を後天的に学習することができます。 
 このように生理レベルで刻みこまれた言葉などの音声信号は、〈自分〉という肉体の行動を劇的に変化させていき、初期の文明社会を築いていきました。

 中でも言葉という音声信号の影響力は強大なもので、人々に言葉で躾を施してきた重要人物の記憶は、死んだ後も各人の右脳から幻聴としての声を響かせ続けました。
 王族などの重要な人の亡骸をあたかもまだ生きているかのように埋葬する習慣が、古代文明のほとんどすべてに存在しているのはそのためです。

 〈私〉にとって、主である〈自分〉の体はまさに〈神〉のようなもの。
 古代人たちは〈自分〉自身の生理的な反応に従って、まるで主体的な意思など持たないかのように行動していました。
 この古代人たちの精神状態は、詩作や音楽などの芸術的な営みにおける没入状態、スポーツ選手のゾーンと呼ばれる状態、神託や憑依などに見られるトリップ状態、催眠、統合失調症といった状態に通じるものです。
 
 ですが、言葉は新たな比喩を造ることによって〈私〉たちの仮想現実を変容させていく力を持っています。
 人々の比喩能力は言葉を生み出す度に新たな喩え方を獲得し、〈私〉という傍観者に〈自分〉が起こそうとする行為へのブレーキの権利を与えました。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11853661544.html

 心と体の問題について議論されるようになるのはそれ以後のことで、現存する文献としては紀元前400年頃にプラトンによって再現されたソクラテスの対話が最古のものとされています。
 それより前の時代の文献に心身問題の記述は見つかっておらず、 紀元前1000年前後に創られた人類史上最初の著作である『イーリアス』には神々の命ずるままに生きる主体性のかけらもない人間たちが描かれているだけです。

 〈自分〉の起こした衝動にブレーキをかけられるようになった〈私〉という傍観者は、自らがこの体を操縦しているかのような錯覚にとらわれ始めます。
 その結果、行為への衝動自体は〈自分〉の生理反応から産み出されているにも関わらず、意識ある〈私〉の方がこの体の主だという倒錯した主観を抱くようになりました。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11852762958.html
 それに伴って右脳から響いていた〈自分〉という〈神〉の声も、だんだんと聴こえなくなっていったのです。

 それまで〈自分〉の生理反応に従って自動的に行動していた人間たちにとって、行動の主として「何をすべきか判断する」という〈私〉の立場は少々荷が重いものでした。
 そこで人間たちは、未だに〈自分〉という〈神〉の声の幻聴を聴きとることができた数少ない人間を王、預言者、占い師、巫女などとして崇め、社会における重大な意思決定をそうした神託に委ねました。

 しかし、こうした〈神〉の声を聴きとれる人の数は主観的な意識が普及するにつれて減少していき、それとともに意識ある〈私〉にとっての新たな行動基準が必要とされました。
 そうして生まれたのが、もはや聴こえなくなった〈神〉の言いつけを、聖典を通して伝えていくキリスト教やイスラム教などの一神教です。

 ですが科学革命とともに行動基準としての〈神〉や宗教の権威も失われ、今では、客観的事実という神話の中にその行動基準が求められています。
 多くの文明人たちにとって、科学の位置付けとは〈私〉たちの決断を助けていく現代版の〈神〉の声のようなもの。

 そう考えれば、占いや擬似科学、カルト宗教や自己啓発やスピリチュアル文化が流行ってしまうのも、ある意味仕方のないことかもしれません。
 いくら時代が変わろうとも、〈私〉以上の権威に判断を委ねたいと願ってしまうヒトの性分はそれほど変わっていないのですから。


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 意識とか心とか魂などと呼ばれている〈私〉たちの内面的な情景は、〈自分〉という肉体の生理機能が演出している幻のようなもの。
 そのおかげで〈私〉たちはそれぞれの肉体の主のような錯覚に捕らわれていますが、「実際の主は肉体そのものの方であり、意識なんてものはお飾りの神輿に過ぎない」というのが前回紹介したトール・ノーレットランダーシュという科学評論家の持論でした 。

 自己流に喩えて言うならば、〈私〉とは馬の背中に乗せられて騎手のふりをしているだけの猿のようなものです。
 馬を動かしているのはあくまでも馬自身であり、別に猿が馬の行動を決定しているわけではありません。
 それなのに〈私〉という猿は〈自分〉自身という馬を操っているような錯覚に陥っているというわけです。

 例えば歩くとき、走るとき、自転車に乗っているときなど、〈私〉たちは体をどのように動かすかと特に意識しなくても、体幹や手足の動かし方などは〈自分〉の肉体の方が勝手に調整してくれています。
 また、行き慣れた道であれば考え事をしながら移動していてもいつの間にか目的地にたどり着けてしまいますが、その移動の際の立役者も意識ある〈私〉ではなく無意識の〈自分〉の方です。

 この〈私〉と〈自分〉の根本的な立場の差は、人間の思考の過程においても如実に現われています。
 そのほんの一例として、長い間使っていなかったコンピューターのパスワードを思いだそうとするときの思考の過程を追ってみましょう。

「パスワードは何だっけ?」
「……」
「あっ、思い出した!」

 この「何だっけ?」から「あっ」までの間に意識上に浮かび上がるのは、最初の「パスワードは?」という発問と思い出された結果としての「****」という数字の羅列だけという場合がほとんどです。
 もしかしたら、パスワードを設定したときや過去にパスワードを使用したときの記憶くらいはよぎったりするかもしれませんが、がんばって列挙してみたところでせいぜいそういった断片的な印象程度のもの。 
 実際には、そのわずかな時間に〈自分〉の脳や神経において電気信号や化学物質のやりとりが超高速で行われているわけですが、その複雑に入り組んだ情報処理のプロセスが〈私〉の意識に浮かび上がることはまずありません。

 より高度な知的思考の過程においても同様で、アインシュタインやマクスウェル、ガウスにポアンカレなど過去に偉大な発見を成した研究者の多くは、己のひらめきを「どこか理解の及ばない場所から不意にやってきたもの」と形容して、その出所の分からなさ具合を真摯に告白しています。
 この思考プロセスの無自覚性について、ドイツの神経生理学者ハンス・H・コルンフーバーは以下のように述べています。

神経系では膨大な量の情報削減が行なわれる。
ちなみに、脳内を流れる情報のほとんどは意識されない。

心は体より『豊か』だとは言えない。
それどころか、私たちの中枢神経系で行なわれる情報処理のほとんどが知覚されない。

無意識の営み(これは、フロイトよりはるか昔に発見され解明されていたのだが)こそ、神経系の最も普通のプロセスなのだ。
我々はただ結果を見ているにすぎない。

 多くの偉大な研究者たちが異口同音に語ってきたことからも察せられるように、思考において〈私〉たちの意識はそのきっかけと結果を認識させられるに過ぎず、その思考の過程は〈自分〉自身の肉体の生理機能によって自動的になされています。

 これまでの話を総括すると、行動においても思考においても、〈私〉たちの意識はその活動の実務をほとんど担っていないということになります。
 それでは、〈私〉という意識にはどんな存在意義があるのでしょうか。

 前回紹介したアメリカの神経生理学者リベットの実験には、この疑問に答えるための続きがありました。
 脳内の運動準備電位を計測するリベットの実験では、〈自分〉が行為の準備を済ませた0.35秒後に〈私〉は行為の決断を下したような気になっており、そのさらに0.2秒後に実際の行動が始まっていました。

 リベットはこの行動が開始されるまでの0.2秒の猶予に注目し、実行しようと決めた行為を途中でやめるという選択肢を実験に織り交ぜることにしました。
 すると、行為を中断したときも実行したときと同じように脳内に運動準備電位が発生した0.35秒後に行為の意思が起きましたが、中断か実行かという選択がなされるのはその後の0.2秒間の瀬戸際でした。
 これによってリベットは「〈私〉の意識は行為を起こすことはできないが、〈自分〉が起こした行動を中断することだけはできる」という結論に至りました。

 ただし、〈自分〉の起こした全ての行動を〈私〉が中断できるわけではありません。
 〈私〉に止められるのは、意識という限られたスポットライトの中に浮かび上がった行為の衝動だけ。

 意識に上がることのない無意識下の強迫的な衝動や、画鋲を踏みつけた時に飛び上がるといった肉体の脊髄反射などは、お神輿の猿である〈私〉ごときに中断することはできません。
 〈私〉の判断は常に〈自分〉という肉体よりも0.35秒は遅れているため、痛みや恐怖からの回避といった生死に直結しかねない原始的な衝動の制御を、悠長な〈私〉の意識なんかに任せてはいられないのです。
 逆から考えるならば、〈私〉という後天的なプログラムにあてがわれる中断の権限は、生死に直結しないような優先度が比較的低い情報に限られる、と言うこともできるでしょう。

 〈自分〉の衝動をいくらか抑えることができる〈私〉たちの意識は、その能力によって「選択と集中」というもう一つの役割を担っています。
 弱肉強食の世界に生きる野生動物たちは、喰うか喰われるかの生存競争のためにその肉体を常にフル稼働させています。
 一瞬の判断の遅れが命取りになる野生動物は、感覚器官から間断なく入ってくる膨大な情報をもとに瞬時に己の最適動作を割り出して実行に移し続ける、という厳しい使命を己の肉体に課さざるを得ません。

 ですが人類は、道具や概念の発達とともに感覚や動作だけに頼らない生存の知恵を積み重ね、この命がけのハードワークからだんだんと解放されていきました。
 そうして、それまで感覚や動作の開発に終始していた生理機能のワーキングメモリーは、意識というスポットライトの向く先にもその使い道を集中させられるようになってきたのです。

 自転車に乗れるようになるまでの過程を思い出してもらえばわかるように、練習によって最終的に運転技術を覚えるのは、ちっぽけな〈私〉の意識ではなく豊かな可能性を秘めた〈自分〉の肉体の方です。
 ですが、この肉体のワーキングメモリーを練習に集中させることで〈自分〉自身の技術開発を助けるのは、他の行為への衝動を抑えられる〈私〉の役割です。

 この〈私〉による「選択と集中」が実現するためには、動作や感覚の開発を一時的にサボっても十分生き延びることができるできるような恵まれた環境と、集中する対象を概念として喩えられるだけの比喩能力とが必要となります。
 その前提条件の上でなら、生死に直結するわけではない緊急性の低い案件ついてのみ、〈私〉の手綱さばきが可能になる場面が生じます。
 〈私〉がスポットライトを当てた案件について、〈自分〉が試行錯誤の末に立案を行い、その立案された衝動について〈私〉は採択だけを行うというわけです。

 こういった緊急性の低い行為の創出は文化とも呼ばれ、その積み重ねが人類の文明社会となっていきました。
 今日に至る学問、芸術、技術、科学などの発展は、ヒトの膨大な処理能力を選択的に集中使用することが可能となったために引き起こされた一大事です。
 そしてこれこそが、〈私〉というちっぽけな意識の為した巨大な功績なのです。


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※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
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