間違ってもいいから思いっきり(和太鼓に狂った数学教師の週末ブロガー活動) -14ページ目

間違ってもいいから思いっきり(和太鼓に狂った数学教師の週末ブロガー活動)

私たち人間は、
言葉で物事を考えている限り、
あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。
当ブログでは、
万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、
言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。


 意識の正体は何か。
 そして、それはどこから生まれてきたのか。
 この伝統的な問題を長年にわたって研究してきたプリンストン大学のジュリアン・ジェインズは、1976年に刊行した『神々の沈黙—意識の誕生と文明の興亡』において次のような仮説を打ち立てました。

 今日私たちが持っているこの〈私〉という意識は、生物としての進化の過程で発生したヒト本来の機能ではなく、たかだか数千年前に生み出されたばかりの歴史的な構築物である。
 言うなれば、後天的に書き換えられていくソフトウェアのようなものであり、ヒトという種のハードウェアとして先天的に内蔵されていた機能ではない。

 デンマークの科学評論家トール・ノーレットランダーシュは、1991年刊行の『ユーザーイリュージョン—意識という幻想』においてこの意識のソフトウェア仮説をさらに補強しました。

 ユーザーイリュージョンとは、簡単に言うとPCのユーザーがコンピュータに抱くイメージのことです。
 PCのモニター画面上には「ごみ箱」や「フォルダ」など様々なアイコンが並びますが、実際PCの内部にはごみ箱もフォルダも存在せず、そこには大量の0と1の羅列があるだけです。

 でも、画面上のアイコンをクリックすればPCは期待した仕事をしてくれるので、ユーザーはさも画面の向こうに「ごみ箱」や「フォルダ」があるかのようなイメージを抱きます。
 たとえ実際に仕事をしているのが0と1からなる電気信号のパターンであったとしても、ユーザーにとっての関心事は己の抱いているイリュージョンの方になります。

 それと同じように、我々が実際に体験しているこの世界もまた、脳が演出しているユーザーイリュージョンであるというのがこの著書の主張です。
 つまり意識とは、脳というハードウェアの上で起動する、我々に幻想を体験させるためのソフトウェアだというわけです。

 二人の著者が共通して述べているのは、「心こそが体の主人だ」と信じ込む素朴な実感は、脳の機能によって体験させられている錯覚だということ。  
 彼らの主張によると、体の持つ生理機能こそが心という幻影の創造主とみなされるのです。

 実際に、この仮説を示唆するような実験結果が、アメリカの神経生理学者リベットによって1980年代に発表されています。
 ヒトは行動を起こす直前に、頭頂葉に運動準備電位という活動が起こります。
 そこで、「~しよう」と意識した時刻と運動準備電位が起きた時刻とを比べることで、意志と身体の間のタイムラグが調べられました。

 「心こそが体の主人だ」という固定観念から見れば、「~しよう」と意識した直後に運動準備電位が起こるものだと推測されますが、実験結果はその真逆で、運動準備電位が起こって約0.35秒あとに「~しよう」という行為の意志が意識されることが明らかになりました。
 〈自分〉の体がこれからの行動を決定し準備をしてしまった後で、神輿として担がれているだけの〈私〉はその決定をただ追認させられていたのです。

 この約0.35秒間のタイムラグについて、トール・ノーレットランダーシュは著書の中で以下のように分析しています。

 人間の脳が感覚器官から受け取る情報量は「毎秒 1100万ビット以上」という膨大なものであるのに対し、私達の意識の処理能力は多めに見積もったとしてもせいぜい「毎秒50ビット足らず」でしかない。
 つまり、〈自分〉が外界から受け止めている情報のわずか0.001%ですら作り物のシミュレーションである〈私〉には処理できない。
 処理能力の低い〈私〉に膨大な情報を含む外界の状況を分かった気にさせるためには、〈私〉にでも分かる程度の情報だけを抜き出して解釈可能な形に丸めてあげる必要があり、その情報の加工処理に時間がかかっている。

 ヒトの脳は、〈私〉という心に〈自分〉の体の主人であるかのような錯覚を持たせてあげていますが、その自主性ごっこには意外と手間がかかっており、作り物の〈私〉は創造主である〈自分〉よりも常に約0.35秒遅れているというわけです。

 ですが、自我によって統一された自己を仮定する人間観は、私たちが生きている社会の大前提に組み込まれています。
 この倒錯した人間観は、〈私〉と〈自分〉の根本的な解離によって引き起こされる種々の問題を、「理性で本能を抑える」といった理想論で「乗り越えるべき努力目標」だとみなしまいます。
 主である〈自分〉を意のままに従わせるなんて、作り物の〈私〉には到達不可能な目標でしかないのにです。

 例えば刑法の法哲学においては、「人には自由意思があり、それゆえ行動を自律的に制御できる」という自己責任の前提に基づいて、人を裁いたり罰したりすることが正当化されてきた過去があります。
 そのおかげで、完全に制御しきれない存在である〈自分〉の行動に責任を持つという、一種の離れ業を〈私〉たちは社会から要求されています。

 また、個人の内面においても〈私〉と〈自分〉の解離は大問題です。
 潜在意識から噴出してくるかもしれない憎しみや不安、湧き上がってきかねない行動への衝動、与えたくても求められないがゆえに外に出せない愛情、周囲の人々に対する嫌悪など、それら全てを受け入れるのは辛いことです。

 このように、どうにも制御しきれない〈自分〉の感情を〈私〉自身が受け入れること。
 それこそが、心理療法におけるメインテーマとなります。

 こうした社会の中で心穏やかに生きていくためには、意識がユーザーイリュージョンでしかないことを自覚し、「心こそが体の主人だ」とする固定観念の呪縛を打ち破らねばならないとトール・ノーレットランダーシュは説きます。
 〈私〉が自らの限界と〈自分〉の存在を認め、「理性的に制御せねばならぬ」という囚われを手放すこと。
 それによって、制御しきれない〈自分〉すらも信頼していくという態度こそが、平静への鍵なのかもしれません。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html

 一般に比喩と言えば、言葉を文字通りの使い方や標準的な使い方とは別の方法で用いることを指します。
 例えば〈草食男子〉という喩えは、文字通りの「草を食べる男の子」とは違った意味合いで使われる言葉です。

 今回は、この比喩という概念を拡大解釈することで「言葉を使わない比喩」という考え方を提案してみます。
 そして、私たちが感じとっているこの世界がそうした比喩の積み重ねでしか成り立っていないことを説明することで、信じ込まされた固定観念の曖昧さとその根深さに迫っていきたいと思います。 

 例えばミツバチの眼は、紫外線や偏光というヒトには見えない種類の光を識別することができます。
 ミツバチたちは、紫外線が見えるおかげで蜜のある花を探し当てることができるし、青空の偏光が見分けられるおかげで迷子にならずに自分の巣に帰ることができると言われています。

 ですが、蜜のある花を探し当て、迷子にならずに自分の巣に帰るには、ただ紫外線や偏光が見える眼を持っているだけでは不十分です。
 紫外線の見え方がどう蜜のある花の発見に繋がるか、偏光の見え方がどのように帰路の確保に繋がるか、といった「見えた光を活かす能力」がなければ、単によく見える眼だけあっても活かしようがありません。

 こうした能力は一般に認知機能と呼ばれますが、比喩という概念を「言葉」という限られた範囲に留めずに、ありとあらゆる「情報」にまで拡張してしまえば、ミツバチの「見えた光を蜜や帰路のありかに置き換える行為」も立派な比喩だと言うことができるでしょう。
 そんな風に、感覚器官が受け取る生のままの情報をもとに具体的な行動を起こす現象までを比喩の定義に含めてしまうことで、ほとんどの動物は比喩能力を身に付けていると言うことができます。

 ヒトは赤、青、緑を感じる3種類の視細胞を持っており、その3種類の視細胞の興奮の強さによって感じる色が違います。
 例えば、3つの視細胞が同じ強さで興奮する状態を、私たちは白と感じます。
 言い換えると、3つの視細胞が同じ強さで興奮する状態を私たちは〈白〉と喩えているわけで、つまり〈色〉というのは「視細胞の興奮」という生の情報を解釈するために編み出された根源的な比喩です。

 このように知覚の1つ1つが根源的な比喩で成り立っていることを確認することで、私たちが体験しているこの世界も実はすべて比喩でできていることが判明します。
 そして、ヒトという動物を特徴付ける決定的な要素もこの比喩能力にあります。

 ヒトは、比喩と比喩を重ね合わせることでまた新たな比喩を造り出すという、比喩の世界での創作行為がたいへん得意な動物です。
 道具を作ったり、言語を使ったり、死者を弔ったり、といったヒトの際立った特徴はどれも、そういった喩える能力の高さから生じたものです。
 そんなヒトが造り上げてきた無数の比喩の中で、最もインパクトの大きかったのが〈私〉という比喩でしょう。

 〈私〉がどれだけ突拍子もない比喩かを説明するためには、まず〈自分〉という比喩について言及する必要があります。
 〈自分〉とは、必死で生きようとしている各自の身体そのもののこと。
 臓器・感覚器官・運動部位・神経系などを含む私たちの身体こそが〈自分〉です。
 それに対して〈私〉という言葉は一般に、「心」とか「内面」などと呼ばれる認知機能のことを指します。

 〈私〉とは、脳内に描かれるシミュレーションのようなもの。
 例えば私たち人間は、行き慣れた道順を脳裏に思い描くことができます。
 そのとき頭の中では、まるでゲーム画面の中をキャラクターが動くような感覚で、記憶と想像によって再現された〈行き道〉という比喩の中を架空の〈私〉が辿っていきます。
 人類がコンピュータを造り出したように、ヒトの比喩能力は〈私〉というシミュレーションを編み出したというわけです。

 ですが、ヒトの比喩能力の過剰さはそんな次元では留まりません。
 映画『マトリックス』の中で機械が人間たちに仮想現実という共通の夢を見せていたように、比喩能力の発達したヒトの内蔵知能は〈私〉というシミュレーションの性能を向上させることで、あたかも〈私〉の意識がこの身体の主であるかのような〈実感〉という名の錯覚を与えることに成功したのです。
 そのおかげで私たちは、今感じている世界が比喩によって造られた解釈だということにほとんど気付かないまま、精巧な〈私〉というシミュレーションの中を生きています。

 言葉というのは、音声情報や視覚情報などを脳内の活動に変換していく比喩のうちの一つ。
 そして思考とは、言葉と言葉の組み合わせによって織り成される複雑な脳内活動の喩えです。

 ですから、この世界が本当はどのように成り立っているかといくら考えたところで、比喩で造られたあやふやな〈世界〉についてはザックリとした比喩でしか表すことができません。
 ですが世の中には、この現実世界は私にとってもあなたにとっても共通のものであり、思考や言動などもその「共通の世界」に即した正しいものでなければならないと素朴に信じている人が数多く存在しています。
 
 中には、それぞれの脳内で形造られている〈価値観〉という比喩の差を踏み越えて、「それは正しい」「それは間違っている」という○×ゲームで交通整理を始める人も出てきます。
 そのように振りかざされる言語ゲームが「共通の世界」とやらに近付いている保証はどこにもないのですが、それでもこうして造られた〈正しさ〉という比喩は、人間社会の中で影響力を獲得してしまうことが多々あります。

 比喩というのは、認知機能に影響を及ぼして〈私〉たちの〈世界〉を変更していくもの。
 他人が造った乱暴な○×ゲームに無闇に振り回されてしまわないよう、こうした比喩の影響力を常日頃から考慮に入れていける成熟した大人の姿を目指していきたいものです。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html
 夢とは元々、眠っているときの脳内体験のことを言います。 
 夢の中での出来事はバーチャルなものですから、覚醒している時とはかけ離れた体験をすることもあります。
 ですから、私たちが使用する「夢のような」という喩え文句には、「現実離れした」といった意味合いが含まれています。

 一般の庶民からすると、テレビに出ている芸能人やスポーツ選手、さらには大富豪たちの生活は、現実離れした絵空事のようなもの。
 そんな一部の人々しか味わえないライフスタイルのことを、そのリアリティのなさから「夢のような人生」と呼ぶ人もいます。
 そして、庶民がそうした分かりやすい成功者像を目指すことを、「夢を追うような生き方」と表したりもします。

 眠っているときに見る「夢」という言葉が「いつか実現したい理想」や「将来の願望」などを意味するようになったのは、「dream」の訳語として「夢」が当てはめられた明治以降のこと。
 日本における「夢を叶える」とか「将来の夢」なんて言い回しに、それほど古い歴史は存在しません。

 こうして「夢」が「未来の目標」という意味合いでも使われるようになり、現実とかけ離れているわけではない手軽な目標にも「小さな夢」といった使われ方がされるようになりました。
 「夢」はどのようにでも解釈できる便利な言葉へと姿を変え、「夢を叶える」とか「将来の夢」などの新しい用法も今では日常的に氾濫しています。

 そのため、家庭教育や学校教育など日常的な場所から、ビシネス書や自己啓発セミナーといったあまり一般的ではない所まで、「夢を持とう」「夢を叶えよう」という常套句が言葉の上では同じように使われています。
 この「夢」という言葉の解釈の多様性が、世の中に不幸な誤解を生んでいるのではないかというのが今回のお話です。

 家庭教育や学校教育の場で最も気楽に使われている「将来の夢」とは、「意欲的に生きて欲しい」「将来を見据えて努力できる人になって欲しい」といった常識的な目的から来るものです。
 また、家庭教育の場では「自分が叶えられなかった夢を叶えて欲しい」という親側のエゴから、特定の目標を子どもに強制する目的で「将来の夢」が刷り込まれるという事態も多発しています。
 その他にも、テレビや歌や漫画などのメディアを通じて「大きな夢を持て」というメッセージは無責任に乱発されていますから、「夢」という刷り込みの現場は家庭や学校のみに留まりません。

 様々な場面で「夢」を持たされる子ども達ですが、大人達の言葉を真に受けていつまでもその「夢」を追いかけていると、「いい加減に夢を追いかけるのはやめろ」という言い方でいつの間にか梯子を外されたりもします。
 一方では「夢」を持つことが奨励されるのに、もう一方では「夢」を持つことが非難されるというどっち付かずの状況に、子ども達はいつも振り回されているわけです。

 この理不尽な事態を上手く消化できずに大きくなった子ども達の中には、「それでも夢を持て」「それでも夢は叶う」と甘言してくれるビシネス書や自己啓発セミナーにすがる者も出てきます。
 幼い頃に植え付けられた「夢」という言葉の呪縛は、大人になってからもこんな形で尾を引いてしまうのです。

 私は現在、非常勤の数学教師として私立高校に勤務していますが、この「将来の夢」という言葉はもちろん私の職場でも何気なく氾濫しています。
 こうした刷り込みの現状に対して自分なりの発信が何かできないかというのが私の人生のテーマですから、校内新聞の場に新任教師の自己紹介文として以下のような文章を掲載してもらいました。
 紹介用に一部を修正した上で、ここに引用してみたいと思います。

皆さんの将来の夢は何ですか。
はっきりと決まっている人もいれば、まだ決まっていないという人もいるでしょう。

私自身は、高校卒業の時点でも将来どうなりたいという目標は定まっていませんでした。
ですが、大学時代のアルバイトの経験を通じて「教えること」の面白さにハマり、それをきっかけに大学院生だった24歳から教師を目指し始めて、今では本校の教壇に立つことができています。

今の時点で将来のことがよく分からないとしても、経験を積み重ねていくことで未来は自ずと切り開いていけるものです。
皆さんもよく学び、多くの出会いを積み重ねてください。
そうしてそれぞれのペースでそれぞれの道を見い出していきましょう。

 この校内新聞で取り沙汰した「将来の夢」という言葉は、中高の教育現場では「卒業後の当座の進路」を生徒に決定させるための方便として良いように使い回されている常套句です。
 たまたま進路選択に直結した将来像をすんなりと描ける生徒にとっては「将来の夢から明確な目的意識を持つ」という喩え話がしっくりくるのかもしれませんが、世の中には明確な目的意識を持たなくとも立派に自立していった人がいくらでもいます。

 わざわざ言うまでもない当たり前の話ですが、「将来の夢」というのは個人の社会的自立にとって絶対に必要な条件ではありません。
 しかし、この方便を真に受けながらも適切な「将来の夢」をでっちあげられない生真面目な人にとって、「まずは将来の夢から」という物語は重苦しい足枷となってしまいます。

 さきほどの自己紹介文は、大人の都合から濫用される「将来の夢」というフィクションに振り回され、「将来のビジョンが描けないから前に進めない」と深刻になってしまいかねない生徒に向けてのメッセージとして書いたものです。
 「将来の夢」なんて焦って決めるようなものではないし、「決めないと駄目」みたいな思い込みに囚われて杓子定規に悩む必要はないんだと伝えるために。

 そもそも言葉とは、私たちの脳に無数の思い込みを書き込んでいく暗示プログラムのようなもの。
 そうした自覚も無しに不用意に植え付けられた浅はかな思い込みは、その人の生き方を無闇に縛りつけてしまいます。

 先に示した「夢」という教育現場や自己啓発のマーケットで使い古されているお題目も、その使い方によっては不必要な呪縛と成りうる危険因子だと常々懸念を覚えていました。
 ですから、校内新聞に掲載される機会を活用して、その呪縛を少しでも緩和しようと試みたわけです。

 そもそも「夢のない生き方は不幸」といった考え方自体が、人為的に造られたある種の刷り込み。
 「夢のない生き方はつまらない」と言われることで「自分は夢のないつまらない生き方をしているのか」と疑念を抱いている子がいるのなら、「そんな外野の声は気にしなくていい」と言ってあげたいですね。
 「夢」という概念が不幸の種にならないことを願うばかりです。

 私たち人間は言葉を使って生きている限り、絶えず何らかの刷り込みを生み出し続けるしかない存在です。
 そうした言葉の影響力を当たり前に考慮に入れて全ての言動と付き合うという態度を、成熟した大人の当たり前のマナーとして世の中に登録すること。
 それこそが私の壮大な「夢」ですので、これからも私なりの発信を草の根レベルから続けていきたいと思います。


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 2014月3月20日放送の深夜番組「アメトーーク!」にて、お笑い芸人の小籔千豊が「テレビに出てる人間が夢は叶うなんて軽々しく言って回るな」という持論を披露して注目を浴びました。
 インターネット上では「よくぞ言ってくれた」と評価する声もあれば、「今さらそんな説教聞きたくない」と非難する声も出ています。
 
 この話は「腹立つ芸人」として番組に呼ばれた小籔が、「自分だけのイライラポイント」というエピソードを聞かれた際に答えたもの。
 具体的にはどんな話だったのか、まずはこちらからご覧ください。

世の中には「夢は叶うんや」的な歌が多すぎて、これを撤廃して欲しい。
夢なんか、言うとくぞ子ども。
絶対叶わんからな。

アホな男が言いすぎなんですよ。
テレビ出とるスター、大金持ち、みんな夢叶っとるから言うとんねん。
稀やこんなん。

それを「夢は、叶います」とかテレビでええカッコして言うからアホな子どもは「ああ、そうなんや。夢叶うんや」と思って夢ばっかり追い求める。

(雨上がり決死隊を指して)NSC7期、殆ど売れてない。
屍だらけ。
ということは、夢なんて叶わない。

サッカーの本田が小学校のとき「セリエAで10番とるんだ」と作文で書いた。
あの人は死ぬほど努力して、死ぬほど周りの人に助けてもらって、いろんな人から勝ち上がって、それでやっと夢叶ってんねん。

「基本、夢なんか叶わへん」
そうやってテレビの大人が言うとかんと。

社会なんてジャングルやから、サソリもおったら毒蛇もおる。
ホテルもなければコンビニもない。

そういったところに送りこまないかん大人側が、ジャングル行く前の子どもらに「ジャングルめっちゃええとこやで。凄い快適やで」って言ってたら、子どもは何の準備もせんとパンツと靴下だけもって「じゃあ行こか」ってなんねん。
ほんで実際に行くと「あっつ、ヘビおるやん、わたしこんなんイヤや」ってなって引きこもる。
当たり前や。
大人のせいやこれは。

だからジャングルという社会に子供らがいく前に、「ジャングルなんか死ぬほど暑いし、毒ばっかり。毒蛇、怪しい鳥ばかりで何にもないぞ。せやからホンマに努力して、自分を鍛えて、勉強して、いろんな準備をしてから社会に行けよ」こう言ったら頑張る。
それをアホみたいに「夢は叶うんや~♪」て。
アホか。

テレビ出てる人間は異常者ばっかり。
普通の人間は出れへん。
ヘンなヤツばっかり出てるから、こんなんマネすなよ。

夢なんかすぐ捨てい。
やりたくないことをやるのが社会。
それがジャングルや。

 この小籔の演説に対する反論として一番稚拙だったのは、「叶っている人がいるのならば絶対叶わないとは言えない」というものです。
 小籔自身も、夢が叶った人が存在すること自体は否定していませんし、「叶うはずのない夢を叶うと言うのは正しくない」という怒り方をしているわけではありません。

 小籔のイライラのポイントは、「あきらめなければ夢はきっと叶う」といった甘いメッセージが、影響を受けやすい子ども達に向けてあまりにも無造作に垂れ流されている現状にあります。
 メディアや成功者に「夢は叶う」とそそのかされて都会に出てきた挙げ句、社会というジャングルに潰されていった犠牲者をこれまで嫌というほど見てきたのではないでしょうか。

 「絶対叶わなん」「基本、夢なんか叶わん」などと極端な言い方を選んだのは、「夢は叶う」と安易に言い過ぎる世の中の軽々しい風潮に敢えて逆らってバランスを取るためでしょう。
 言葉尻をとらえて「その言い方は正しくない」などとあら探しに終始するだけの言語観は、○か×かをジャッジすることでしか世界をとらえられない子どもの見方と言えます。

 そもそも言葉の役割とは、物事を正しく言い表すことなんかではなく、人の心を説得することです。
 そういった意味で、「正しいか正しくないか」ではなく「子ども達をどう説得していくべきか」という視点で反論していた以下のような言い分は、先程の反論よりはまだマシです。

「夢や希望がなければ未来へのモチベーションが持てないだろう」
「夢が叶った人すら叶わないと言ったら、ますます努力する人がいなくなる」
「死ぬほど努力すれば夢が叶うときもある。でもはじめから夢は叶わないなんて思っていたら死ぬほど努力するだろうか」

 これらの反論を見て私が思うのは、誰かに「夢は叶う」と後押ししてもらわなければ人は「夢」とやらを持てないのだろうかという根本的な疑問です。
 小籔が怒っていたのは、「あきらめなければ夢は叶うと言われているから夢を持とう」という程度の思いで軽々しく抱かれる夢が増殖している世の中の状況。
 そのおかげかビシネス書やセミナーなどの自己啓発産業・スピリチュアル産業は大儲けです。

 不満な現状から逃げるために「夢」を口実に使っているだけの人や、「イメージさえすれば魔法のように夢が実現できる」と錯覚する人が、これ以上増えていかないで欲しいという小籔の問題意識については、私は真っ当なものだと感じます。
 「持ち続ければ叶うから」という安易な打算で後付けされた夢など、小籔の言うように容易く崩れてしまうでしょう。

 「叶う」とか「叶わない」とかそんな外野の声とは無関係に、誰にも真似できないぐらい熱中できる何かを見つけて、それに打ち込んでいるうちに気づくと目の前に現れているもの。
 それこそを人は「夢」と呼ぶのではないでしょうか。


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 教員になって1年目のときの出来事です。
 仕事を終えていざ帰ろうと職員室を出てみると、職員室のすぐ外で同僚が1人の生徒と話し込んでいました。
 その生徒は職員室から出てきた私を見て、同僚に聞いていたのと同じ質問を私にも振ってきました。

「先生はいま幸せですか」

 私は即座に「うん、幸せよ」と答えました。
 その生徒はいろんな先生にこの質問をしてまわっていたみたいですが、私のあまりの即答ぶりに感心したみたいです。
 生徒が続けて「それは何故ですか」と聞いてくるので、「自分が幸せと思えばそれで幸せたい。どんな状況にあったって幸せと思った者が幸せとって」と答えたところ、「それ新しいっ、私も今度からそう言おう 」と満足げに去っていきました。

 さて、私には個人的に嫌いなパターンの言い回しがいくつかあります。
 たとえば 「本当の幸せ」「本当の愛」「本当のやさしさ」「本当の居場所」「本当の自分」などなど。

 「本当の」という言葉は基本的に「本物ではないもの」を区別して否定するために使われるものです。
 そして、「幸せ」だとか「愛」だとか「やさしさ」「居場所」「自分」なんて定義のあやふやな言葉に「本当の」という排他的な修飾語を付けてしまうと、それは一種の脅迫めいた思想になります。
 その脅迫を自分に向ければ「ここは俺の本当の居場所ではないんじゃないか」などという出口なしの蟻地獄に絡めとられますし、他人に向ければ「お前の愛なんて本当の愛じゃない」というような誰が相手でも問答無用で攻撃できるオールマイティな武器になります。

 当時の私は、そういった馬鹿げた脅迫を真に受けていると時間がいくらあっても足りないという判断のもと、この種の神経質な言い回しには取り合わないことにしていました。
 「あなたは幸せか」と問われたとき、うっかり「私はいま本当に幸せなのか」という切り口で考え込んでしまえば、「本当の」という排他思想の罠にひっかかってしまいます。
 つまり、幸せかどうかという問い自体が、不幸を生み出しかねない危険な落とし穴だと考えていました。

 実際、カルト教団や自己啓発セミナーなども、「本当の幸せ」とか「願望実現」といった言葉の罠を張り巡らせることで人々の心の隙につけこんでいきます。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11864744405.html
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11866547864.html
 そういった言葉の罠を回避するためにも、「幸せか」という問いに対しては「幸せだ」ってことにしてしまって、それ以上そこに囚われないようにするのが得策だと暗に生徒にも伝えたかったのです。

 「幸せ」とは、私たち人間の世界を形作っている膨大な「喩え」の一つです。
 生まれてから今日までに出会ってきた言葉の数々が、私たちにとっての現実を「喩え」によって造り出しています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11850649569.html

 つまり私たちの人生は、言葉の運用によってどうにでも左右されてしまう移ろいやすいもの。 
 ですから、自分の人生の中にどのような語彙を取り入れるかという問題は、お勉強における単なる優劣の話では済みません。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11809789350.html

 もしその「喩え」が楽しみを産み出さずに不幸ばかりを造り上げてしまうものならば、自分の人生には積極的に受け入れないというリスク対策も十分にありえます。
 人々が価値観と呼んで重視しているのはそういった「喩え」の取捨選択のことですから、言葉とは慎重に付き合っていきたいものですね。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html
 私たちが生きているこの社会は、ヒトが持つ動物としての野生を去勢させることで成り立っています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11834665484.html
 私たち人間は、この弱肉強食の世界に婚姻、貨幣、善悪、神、法律、数式といった独自のルールを追加することで、古来から続いてきた野生の力関係を大幅に変容させてきました。

 こういった様々なローカルルールの付け足しを可能にする力の源泉こそが言葉です。
 言葉の影響力は絶大なもので、使い方によっては発言者の意図する通りの印象を人々に抱かせることもできます。   

 今回はそのほんの一例として、「アキレスと亀」という有名な話を紹介してみましょう。
 アキレスと亀のパラドクスとは、古代ギリシャの哲学者ゼノンが唱えた「足の速いアキレスはのろまの亀を追い越せない」という常識に反する結論を導いてしまう以下のような理屈のことです。

足の速いアキレスとのろまの亀がハンデをつけて競争する。
アキレスのいる地点①から前方の地点②に亀がいて、同時にスタートする。

アキレスが亀のいた地点②にたどり着いたとき、亀はその先の地点③にいる。
アキレスがその地点③に着いたとき、亀はさらにその先の地点④にいる。

この作業はいつまでも繰り返され、終わることがない。
よってアキレスは亀を追い越せない。

 このパラドクスについては、多くの人が解釈の仕方を述べています。
 それらの見解を調べて、大雑把な基準で4種類の立場に分類してみました。

A「不思議な話として紹介するに留まる」
B「級数の収束という概念を持ち出してパラドクスは既に解決しているとみなす」
C「Bの立場の人はパラドクスの意図する論点を理解していないと反論する」
D「Cの立場も理解した上で、それでも パラドクスは解決できると主張する」

 まずはBの立場を紹介しましょう。

 ここでは仮に、地点①から地点②までの距離を4メートルとし、1秒の間にアキレスは1メートル進み、亀はその半分の50センチ進むものとします。
 最初、アキレスが地点②に着くまでに4秒かかりますが、その間亀は2メートル進んで地点③に着いています。

 そこからアキレスが地点③に着くまでにさらに2秒かかりますが、その間亀はさらに1メートル進んで地点④に着いています。
 この応酬は何度でも繰り返されますが、アキレスと亀それぞれの地点①からの距離と、出発してからの経過時間とを比べてみると、以下のようになります。

4秒後、アキレス4m、亀6m。
6秒後、アキレス6m、亀7m。
7秒後、アキレス7m、亀7.5m。
7.5秒後、アキレス7.5m、亀7.75m。
7.75秒後、アキレス7.75m、亀7.875m。
7.875秒後、アキレス7.875m、亀7.9375m。

 経過時間はどんどん8秒に近づいていきますが、この作業をどこまで繰り返していっても8秒以上になることがありません。

Bの1「よってこの話はスタートしてから8秒までの間に限定されており、8秒以内に追い越すことができないといっているに過ぎない。だから追い越せないという結論の持っていき方はおかしい。」

Bの2「無限に足し算を続けるからといって答えが無限大になるとは限らない。この和は8秒に近づいていくのだから8秒たった時点を考えればアキレスは亀に追いついている。」

 ここで結論の仕方によって2通りに分けましたが、私は「結論の持っていき方がおかしい」とするBの1の意見には全面的に賛成です。
 しかし、「8秒たったら追いつく」というBの2の意見だと、Cの立場の方々に反論する隙を与えてしまうことになります。
 Cの立場での反論はこうです。

 8秒たったら追いつくということは、追いついたときにはそこまでの無限回の作業をやり終えたということになるが、無限回の作業をやり終えるなんて話が矛盾している。
 もしそうだとしたら、最後にアキレスがたどり着いた地点は最初から数えて何番目だったのか答えられるはずだ。
 しかしそれは無限にある自然数をすべて数えつくすことができるというのと同じであり、原理的にありえない。
 よってアキレスは亀を追い越せない。

 そして私は「それでもパラドクスは解決できる」というDの立場の一人です。
 私の考える説明は「この話では議論の前提条件を定めることができていないのですっきりした結論が得られないのは当たり前」という身も蓋もないもの。

 これだけじゃ納得がいかないという方のために、ここでちょっと喩え話をしてみましょう。
 ある広場には丸い土俵があり、AさんとBさんとCさんとDさんは土俵の中にいます。

 Cさんは言いました。
「今からこの土俵の外に出られるかというゲームをしよう。ルールはこの土俵から外に出ないこと。もし外に出られたら君らの勝ち、出られなかったら僕の勝ちだよ」

 Aさんは悩みました。
「どうやっても土俵の外には出られない。おかしいなあ」

 Bさんは特に悩みません。
「だってすぐそこに土俵の外側があるじゃん。出られないわけがないよ」
 そうしてBさんは土俵の外に足を踏み出しました。

 するとCさんはすかさずBさんに文句を言います。
「それはルール違反だよ!土俵から出ちゃ駄目ってルールだったでしょ?君は全くルールがわかってないね」

 そこでDさんは言いました。
「こんな馬鹿馬鹿しいゲームには参加しないよ。遊んでほしかったらまともなルールを用意して出直しておいで」

 そう言ってその場を去るDさんをCさんは罵倒します。
「負けたくないからって勝負を避けるなんて卑怯だぞ!」
 そして誰もCさんの相手をしなくなりました。

 まず確認しておきたいのは、このアキレスと亀のパラドクスは「アキレスは亀を追い越せない」という結論を述べているのだから、その前段階には「アキレスは亀を追い越せるか」という問いがあるということです。
 「アキレスが亀を追い越せるかどうか」を判定するためには「こういうときに追い越したと言えて、そうでないときは追い越してないと言える」という○×の基準を互いに共有しておく必要があるでしょう。
 しかし、もし「アキレスが亀を追い越さない範囲の話しかしてはいけない」というルールがあったなら、そんなルールの中で「追い越せるかどうか」を判定できるような基準など導入できるはずもありません。

 アキレスと亀のパラドクスの巧妙なところは、「以前亀がいた場所にアキレスが着いたとき」という語り方を用いることで、聞き手がそれと気づかないうちに「アキレスが亀を追い越さない範囲で話をすること」をルールとして強制しているということです。
 この語り方を使っている限り「アキレスが亀の後ろにいる間のこと」しか語れないのだから、「アキレスは亀を追い越せる」という常識的な結論が出ることは構造上ありえません。
 つまり、「以前亀がいた場所にアキレスが着いたとき」という語り方自体が「アキレスが亀を追い越せるかどうか」を判定するための議論にふさわしいものではないのです。

 先ほどのBの2の解答でまずかったのは、この語り方が強制しているルールをよく吟味せずに「アキレスは亀を追い越せる」と言おうとしたことです。
 相手が必ず勝つルールでしか勝負してないのだから、そのルールに乗った上で勝とうとしてもルール上で負けにされて終わります。

 その点、Bの1の解答は「あなたの語り方はおかしい」と言うことで相手が持ち込もうとしたルールを認めないことに成功しています。
 自分が必ず勝つルールでしか勝負しようとしない人なんて相手にしないのが一番です。
 私だったらDさんのように、「追い越すとか追い越さないとかいう話をしたかったら、それをきちんと判定できるだけの基準を用意して出直してこい」と言うでしょう。

 しかし、中には「勝負を避けるなんて負けを認めるみたいで嫌だ」という方がいるかもしれません。
 そういう場合は、ゲームを始める前に自分が勝てるルールを認めさせれば良いのです。

 この場合の新しいルールは単純な1次不等式で十分です。
 t秒後のアキレスは地点①からtメートル進んでおり、t秒後の亀は地点②から0.5tメートル進んでいる。
 地点①と地点②の距離は4メートルなので、亀の地点①からの距離は(4+0.5t)メートルで表せる。

 アキレスが亀を追い越すのは地点①からのアキレスの距離が、地点①と亀の距離を超えたときなので「t>4+0.5t」を解けばよい。
 すると「t>8」が求められ、8秒を超えたときアキレスは亀を追い越すこととなる。

 しかし、「アキレスは亀を追い越せない」と説く人は「そんな語り方じゃパラドクスを解決したことにならない」と言うでしょう。
 つまり、相手もこちら側が用意したルールを認めなければ負けることはないのです。

 「追い越せる」と主張したければ追い越せることを説明できる前提を持ってくればよいし、「追い越せない」と主張したければ追い越せないことを説明できる前提を持ってくればよい。
 結論というのはその前提によっていくらでも変わるものですから、結論を譲りたくない者はその前提を決めるときに譲らなければ良いのです。

 なんだかどっと疲れるやり取りに見えますが、すっきりしない議論とはもともとこのような仕組みから生まれるもの。
 自分好みの結論に誘導するために議論の前提を操作しようとするような力づくのパワーゲームは、世の中の至るところに溢れかえっています。

 ですから、 AさんやB2さんのように知らぬ間に相手からコントロールされたくなければ、 B1さんやDさんのように「話の前提を疑う」という思考の習慣付けをおすすめします。
 
 ちなみに私が推奨しているのは、言葉は何のために在るのかという前提条件を疑うこと。
 言葉の一つ一つに正しさや確かさを求めてしまう人は、知らず知らずのうちに「言葉は物事を言い当てるためにある」という固定観念に囚われています。

 ですが私は「そもそも言葉とは事実の記述ではなく人への説得のためにあるのではないか」と疑い、「正しさ」という概念も説得の効果を高めるためにでっちあげられた方便ではないかと訴えます。
 そして「こちらが正しい」とか「何が正しいのか分からない」とか「本当の正しさなんてどこにもないじゃないか」などと本気で訴えている人は、その方便が理解できずにいつの間にか「正しさ」という茶番に洗脳されきっている、という解釈の可能性を探っています。

 もし言葉の本質が記述ではなく説得ならば「何が正しい記述か」なんて○×ゲームではなく、「どんな言い回しに説得力があるか」という巧拙の次元でしか人は語ることができないのだと思います。
 私の人生のテーマは、記述というフィクションに騙されて、知らぬ間に「正しさ」という詐術にコントロールされてしまう犠牲者を世の中から少しずつ減らしていくこと。
 そのためにも「今の発言は聴き手にどのように思わせたがっているか」という説得の効果を当たり前に考慮に入れて全ての言動と付き合うという大人のマナーが、もっともっと世に広まってくれたらと願っています。

 「何が正しいのか分からない」と戸惑うAさんや「本当の正しさなんてどこにもない」と言って勝ち誇るB2さんのような人は、どちらも「言葉は記述のためにある」というCさんの仕掛けた前提の罠にからめとられて「正しい記述でなければならぬ」という出発点から離れられなくなってしまった子どもです。
 ですが、説得の効果を常に考慮に入れるという大人のマナーを身に付けていれば、B1さんやDさんのように「正しさ」の詐術を見破ることができます。

 この世を取り巻く「正しさ」の荒波を泳ぎきれる人が少しでも増えていくよう、これからもこうした発信を続けていきたいと思います。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html

 強さとは我儘(わがまま)を押し通す力のこと。
 これは、人気格闘漫画『グラップラー刃牙』など板垣恵介の作品群に共通している不変のテーマです。

 この板垣氏独特の強さの定義に対しては、「我儘を正当化する未熟な有り様が強さだなんてとんでもない」とか「己を律することのできる心の強さこそが人としての本当の強さではないか」といった高尚なお説教が聞こえて来そうです。
 彼はその作品の中で、そうした常識的でお上品な言い分に対する明確な反論を繰り返し述べています。
 その一例として、劇中の格闘トーナメントにおける開会宣言での力説を紹介してみましょう。

地上最強を目指して何が悪い!!!!

人として生まれ男として生まれたからには誰だって一度は地上最強を志すッ
地上最強など一瞬たりとも夢見たことがないッッ
そんな男は一人としてこの世に存在しないッッ
それが心理だ!!!

ある物は生まれてすぐにッ
ある者は父親のゲンコツにッ
ある者はガキ大将の腕力にッ
ある者は世界チャンピオンの実力に屈して

それぞれが最強の座をあきらめそれぞれの道を歩んだ
医者 政治家 実業家 漫画家 小説家 パイロット 教師 サラリーマン

 男にとっては地上最強こそが真のロマンであり、それ以外の道は夢破れた者たちの代償行為に過ぎない。
 この乱暴で大胆な極論は、野生の世界を支配している弱肉強食の法則を如実に反映したものです。

 人類がこの地球上に現れた当初は、ヒトも他の動物たちと同じように、喰ったり喰われたりの捕食合戦に強制参加させられていました。
 当時の人類にとっては、自らを餌とみなして襲いかかってくる肉食獣たちこそが、目に見える一番の脅威だったでしょう。

 動物としての生身のヒトは、肉食獣たちの脅威に対して単身で立ち向かえるほどの身体能力は備えていません。
 ですがヒトは、さまざまな武器を用いることでその乏しい殺傷力を高め、言葉のコミュニケーションによって互いに連携し合うことで、闘争における個々の力のハンデをカバーしてきました。
 
 私たち現代人が住んでいるこの広大な居住地は、過去に行われてきた大規模な狩りの戦利品です。
 喰われる心配をしなくて済む「平和で文化的な生活」という一見お上品な作り話は、野蛮な文明社会による動物たちへの圧倒的な武力弾圧の上に成り立っているのです。

 この弱肉強食の世界でものを言うのは結局のところ武力ですから、教育によって野生を忘れてしまう以前のヒトの雄が強さに憧れるのは当然のこと。
 板垣恵介がその作品の中で描き続けているのは、文明社会のフィクションの中でも消されることのない野生の雄たちの魅力です。

 ですから、医者、政治家、実業家、漫画家、小説家、パイロット、教師、サラリーマンといった強さを求める以外のものわかりの良い生き方は、雄としての野生を去勢された後の妥協の産物として描かれます。
 富や地位や名誉など、ヒトの間でのみ通じる社会的な野心なんて、動物としての純粋な闘争に比べたら、牙を抜かれたペットたちによるままごと遊びに過ぎないと言うわけです。

 冒頭に紹介した「我儘を押し通す」という一見ものわかりの悪い姿が強さと見なされているのは、その基準が弱肉強食という野生の原点にあるから。
 喰うか喰われるかの日常における最大の我儘とは、喰われる立場を避けて一方的に喰う側にまわることであり、その我儘を可能にする肉体的な力こそがこの世の原点における本来の強さです。

 文明人たちが高飛車な道徳観や人生訓を振りかざすことができるのは、人間が動物たちとの野蛮な殺戮合戦に勝利してきたおかげ。
 板垣氏の描く原点における強さを否定できるような無垢な立ち位置など、隠然たる暴力で成り立ったこの人間社会には存在しません。
 作中の台詞を借りて言うならば、野生の現実を無視したお上品な空論など「上等な料理にハチミツをぶちまけるがごとき思想」に過ぎないのです。

 板垣氏の作品には、一国の軍事力に匹敵するほどの一個人や、恐竜を素手で殺して食べていた旧人類など、現実にはあり得ない設定のキャラクターが数多く登場します。
 これらの荒唐無稽な物語は、剥き出しの野生が見えにくくなった文明社会の中で、それでも野生の原点を探求しようとする一種の思考実験です。
 このハチャメチャなバトル漫画から何か一つ教訓を得ようとするならば、「私たちが生きているこの社会は暴力的に去勢された茶番で成り立っている」ということになるでしょうか。

 私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。
 ですが、いくら言葉で「正しいか正しくないか」なんて語ったところで、それだけでは実際の物理的な暴力には太刀打ちできません。
 言葉の上での道徳的な「正しさ」なんて、警察や軍隊など物理的な暴力にバックアップされなければ、現実には何の効力も持たないのです。

 野生を去勢されてしまったものわかりの良い文明人たちは、「正しさ」という言葉の中だけで成立しているフィクションを、この世を言い当てた摂理だと真に受けてしまっています。
 その結果、実在するはずのない「正しさ」という作り話に振り回されて、「自分は正しくないのではないか」といった自己否定の念にかられる犠牲者が生まれていきます。

 言葉の影響力によって必要以上のダメージを受けてしまっている現代人は、板垣氏の描く去勢されない男たちの姿を参考にしてみてはいかがでしょうか。
 冗談としか思えないような男たちの極論を経由して今いる世界を見つめ直してみれば、己の抱えている悩みが文明社会の茶番の上にしか成り立っていないことを実感できるかもしれませんよ。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html
 私は私立高校の非常勤教師として教壇に立ちながら、和太鼓・お囃子・民舞など日本の民俗芸能の普及活動に携わっています。
 教師としてのキャリアは9年目で、これまでいくつかの高校で受験数学を教えてきました。

 現在勤務している大阪の高校に来る際、採用試験の一環として「私の目指す教師像」というテーマの小論文を提出するよう求められました。
 800字以内という字数制限の中で私自身の立ち位置をまとめる良い機会だったので、そのときの本文をここで紹介してみたいと思います。

私の目指す教師像は変なおじさんである。
変なおじさんと言っても、いわゆる不審者のことではない。
「異端な存在感を持つ社会人」といったニュアンスを、変なおじさんという言葉に込めているつもりだ。
その上で本論では変なおじさんの教育的効果を検証し、変なおじさんという教師像の妥当性を訴えたい。

そもそも学校教育とは何のために存在するのか。
学校教育における目的意識は人や組織によって様々であろうが、ここでは仮に「社会を生き延びていくにあたって必要な知恵を育むため」と、簡単にまとめてしまうことにする。
社会のあり様は刻一刻と変化している。
過去に良しとされた常識もどんどん賞味期限切れになっていく。
そんな社会を生き延びていくのに必要な知恵とは何か。
もちろん英語・中国語・ITなどの知識も必要とされよう。
だがそれ以上に重要なのは、未知の価値観にも対応できるような柔軟性である。
仮に英語・中国語・ITなどの知識を身につけたとしても、想定外の価値観の転換が起こったときに、慣れ親しんだ価値観にしがみついているだけでは時代の流れを掴める可能性はきわめて低い。

そこで登場するのが変なおじさんである。
変なおじさんの存在意義は、価値観の『振れ幅』の拡大にある。
似たような価値観を持つ人に囲まれて狭い世界で生きてきた人間は、いざ見知らぬ価値観と出会ったときにどうしていいか分からない。
けれども様々な価値観を受け入れてきたという経験を持っていれば、未知の価値観と出会ったときにも応用が利く。
だから生徒には、できるだけ多種多様な考え方を持った大人に出会って欲しい。
変なおじさんの存在は生徒の幅を広げ、柔軟な感性を育みうるのだ。

 そもそも私は、教師という職業に対して憧れなど全く抱いたことがありませんでした。
 大学の学部時代も、専門の数学以外に教職教養科目を選択すれば教員免許をとることができましたが、そのころの私は「人に生き方を指図するような人種にだけはなりたくない」と思って選択していなかったのです。

 そんな私の転機は大学院生時代に訪れました。
 とある進学校の生徒を複数集めてボランティアで定期試験の対策をしていたことがあるのですが、そのうちの一人が私に向けて「学校の先生をやったらいいのに」と口にしたのです。
 私も生徒がとっているノートや教科書の解説を見ながら「こんな語り手本位の組み立てでは授業を受ける生徒が可哀想だ」と内心思っていたので、その言葉をきっかけに「学校の現場で高校数学を教えてみたい」と思い始めました。

 ですが、初めて勤めた女子校ではそんな想いが空回りしました。 
 新社会人として初めて経験する組織の社会圧に萎縮してしまい、 「求められる人物像」ばかりを気にして己を上手く出せなくなってしまったのです。

 教師という存在に対して抱いていた負の先入観も災いし、自分なりの目指すべき教師像というのがなかなか掴めないままにもがきながら、2年、3年とキャリアを重ねました。
 その問題を解決するヒントとなったのが、初任校を辞めるときに生徒達に書いてもらった授業アンケートです。

「最初はテンションについていけなかったんですが(笑) 、今は一番わかりやすい説明だなあと感じます。」

「数学が苦手な私にとっては、先生の授業は、昔に習った基礎にもどって説明してくれたりしてくれる親切なものでとても良かったし、助かりました。他の先生には聞けないくらいのあたり前の質問も先生は丁寧に答えてくださったのでありがたかったです。だから、先生がいなくなってしまったら、私は一体誰に質問すればいいの!?というほど、私はこれから先の数学人生に不安を感じています。(泣)でも、こればっかりは仕方がないので、どうにか頑張ろうと思います。」

「私は数学にずっっっと苦手意識がありましたが、先生のおもしろくて丁寧な授業のおかげで数学の時間が楽しくて、また和みの時間になりました。」

「先生は、今までに出会ったことないような人で(笑)、動きとかしゃべり方とかおもしろかったです。1年にあんなに骨折した人を見たのは初めてです(笑)」

「先生の授業はすごい分かりやすかったです!それに先生は何か変な人だったから、楽しかった(・ω ・)/私は来年も国文だからあと1年数学頑張ります(`・ω ・´)数学あんまり得意じゃないけど頑張るけん!!先生にもう数学教えてもらえないのがやっぱり悲しいよー(´`)受験頑張ります。先生も頑張ってね。」

「先生の授業は数学なのに全然退屈じゃなくてむしろとても楽しかったです。ユニークというか、悪く言えば変人というか、今までにないような先生で数学の授業が嫌になりませんでした。それと、とても分かりやすかったです。」

「先生の授業をうけて、先生は変わってる人だなぁと思いました!!でも、ニュースタンダードなどの解説はとても詳しくして下さって、試験前に自分のノートを見たら分からないところが詳しく解説がかかれてあったので、助かりました。」

「新しい単元に入るとき、これからこうしていきます… みたいな感じで言ってくれたので、何してるかわかって授業がわかりやすかったです。今までありがとうございました。けがには注意してください!!」

「先生の授業は一つひとつが丁寧でいろんな解き方を色んな角度から見たやり方で説明してくれたのですごく親せつでわかりやすかったです。なにより、先生自身も私たち生徒と同じ立場に立って教えてくれているのがすごく伝わってきたのでより分かりやすかったです。」

「良いところ・教え方が丁寧!教科書に載ってないところとか教えてくれる。基礎から教えてくれるから分かりやすいし、頭に入りやすかった。真顔で面白いこと言うからウケたwけっこーためになる話があってよかった!悪いところ・そんなにないけど…。真顔だから逆に感情が伝わりにくかったかな…?先生らしくていいけど!」

「先生の授業はまずクラスの雰囲気が質問とか聞きやすい感じがして良かったと思います。あと説明も分かりやすくて良かったです。先生自体もおもしろかった。」

「数学の先生の中で一番先生が好きです(^∀^)毎日おもしろかった♪まじめで一生懸命だけどうちらのために笑わせてくれとるのがよく分かった(´v`)うざい生徒に合わせてくれてありがとう!一生先生のこと忘れないから、先生も忘れないでね。」

 これらのアンケート結果を見て、自分が教師になる前に目指していた「生徒の立場に立った数学の授業」は、自分で反省するよりはできていたのかもしれないと前向きにとらえ直すことができました。
 また、「社会人としてもっとまともな教師でなければならない」と思い込んでそのプレッシャーにしんどくなっていましたが、「変人であることに負い目を感じなくても良かったのかも知れない」と受け止め方を変えるきっかけにもなりました。

 このブログも、もともとは大学院生時代に書いていた「真理<戦略<好き嫌い」という別のブログで書いていたアイデアを、より洗練した形にまとめ直そうと思って始めたものです。
 当時は「正しさとは誰かの好みを広めるために編み出された戦略の一部に過ぎない」とするその内容が今後の職業生活を脅かすのではないかと恐れ、教師になる直前にそのブログは削除しました。

 ですが2年前から「変なおじさんを目指す教師」として採用され、非常勤講師というパートタイマーの待遇で数学を教えるようになったことで、こういったブログを発信していくことへの負い目が消し飛びました。
 これからも自分が長年こだわり抜いてきたテーマを追求していくことで、変なおじさんとしての矜持を示していきたいと思います。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
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 私は現役の数学教師ですが、一般的な教師像とはかなりかけ離れた信条の持ち主だという自覚があります。
 それは、私自身が教育そのものに対するありがちな動機を内面化していないから。
 内面化というと何やら難しい言葉に聞こえますが、要は「学校での教育は生徒のためにある」という信念を全く持ち合わせていないということです。

 私は「学校教育は社会秩序を維持するために設計されている」という風に社会の現状を認識しています。
 そして、現場で使われている「生徒のため」という美辞麗句は、そうした本来の目的をオブラートに包む大袈裟な建前だと感じています。

 もちろん、現行の社会と折り合いをつけていかなければその社会の中では生きていけませんから、体制側からの要求を知ることも生徒にとっては重要です。
 現在所属している社会の枠組みの中で将来も生きていこうと思うのなら、その社会体制を成している諸々の勢力と無縁でいることはできません。

 ですが、だからといって「学校教育は生徒のためにあるものだ」という八百長を演じきる図太さも私にはありません。
 だから私は「この教育制度は現体制からの要求だ」という事実を包み隠さず伝えますし、数学もその制度と折り合いをつける処世術の一環と位置付けた上で教えています。

 このようなシニカルな言い方をしていると、「教師がそんな有り様では数学の楽しさや美しさや意義を伝えることができない」とお叱りを受けてしまいそうです。
 しかし、こうした生真面目な叱責をしてしまいたくなる教師たちの信念の持ち方こそが、制度によって造られる集団心理の成せる業なのです。

 学校教育とは、現行の社会体制がその社会秩序の維持のために設計する、一種の集団洗脳プログラムです。
 「社会全体の発展のため」とか「生徒一人一人の幸せのため」といった大義名分は、そうした体制側の都合を包み隠す方便の一つに過ぎません。

 ですから、体制側が近代国家の成立を目指して学校教育を導入する際に、民衆の側はいつでも諸手を挙げて喜んでいるわけではありません。
 子どもが家計を支える大事な働き手となっている場合もありますし、それ以前に近代的な価値観と根本的に馴染まない風土だってあります。
 そういった人たちにとって、権力者たちから述べられる「社会全体の発展のため」「一人一人の幸せのため」といった綺麗事は、いかにも胡散臭い騙し文句のように映るでしょう。

 ですが、権力の行使によって普及していく教育システムも、何世代にも渡って続いていけばだんだんとそれが当たり前になっていきます。
 そして、導入当初は不自然だったはずの「社会全体の発展のため」や「一人一人の幸せのため」という大義名分を、心の底から信じ込める人だって現れ始めます。
 このようにして、制度は人々の内面に様々な動機を植え付けていくのです。

 私自身の心情としては、数学は楽しく美しく役に立つものだと思っています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11816736283.html
 ですが、この私の個人的な趣向が、生徒たちすべてに伝わるべき理想だとは考えていません。
 授業の中で数学の楽しさをメインに伝えようとする教師は、それが運よく伝わった生徒にとっては素晴らしい導き手となるでしょうが、そもそも趣味・趣向の異なる生徒にとってはまるで共感できない独り善がりな存在へと変わります。

 楽しさが伝わらないのは教師の力量不足だという考え方もありますが、その背景には「伝わりさえすれば数学は万人にとって楽しいものだ」という傲慢な固定観念が隠れています。
 しかし、その大本にある「万人にとって楽しい趣味がこの世に存在する」という大変強気な主張を、私は確信を持って言うことができません。
 私は「数学を楽しいと思うかどうかはその人の趣味・趣向による」という、人それぞれの価値観を尊重する見方を支持します。

 私が教師になった動機は、多くの生徒にのしかかる「数学を学ばなければならない」という制度上のハードルを少しでも越えやすくすること。
 家庭教師をしていた学生時代に、ただ教科書通りに進めるだけの工夫のない授業のノートをたくさん目にし、「もっと伝わりやすいやり方があるだろうに」と生徒たちに同情したことが、教師を目指した直接のきっかけです。

 自分や周囲を鑑みるに、「数学そのものに楽しみを感じる」という趣向の持ち方はなかなか稀なケースですから、数学の楽しさを伝えるなんて図々しい目標はそもそも優先しません。
 数学の楽しさ自体は、あわよくば伝われば良いという程度のプラスアルファの付加価値に過ぎないと冷静にとらえた上で、授業がただの趣味の押し付けにならないように気を付けています。
 
 私が数学の授業を通じてやろうとしているのは、生徒たちが数学というハードルを越えやすくするためのお手伝いであり、苦手だけど受験のためにやらねばという子の苦痛の少しでも軽減していくことです。
 私自身は数学と楽しく向き合いながらそれらのサポートをしていますので、そういった私の姿を見て数学の楽しさを感じとってくれる教え子もいるようです。

 だから私は、「数学はこんなにも面白い」という話を授業の時間にわざわざすることはありません。
 私はただ、数学を楽しみとして享受している人種も世の中にはいるという実例を、自分を通じて結果的に見せてしまっているだけ。

 数学の楽しさなんて、そのように背中から自然と伝わればそれで十分ではないでしょうか。
 趣味としての楽しみのお話は、興味を持って食い付いてくる生徒にだけ個別に提供してあげれば良いと、個人的には思います。

 そんなわけで、私は教育現場に流通する「数学を学ぶ必要性」という教条を全く内面化していません。
 「現制度からの要求」を「信じるべき教条」とすり替えて生徒に押し付けようとする教師たちの洗脳行為には大変な欺瞞を感じています。

 制度とは知らない間に動機を内面化していくものですから、教師たちの中にも洗脳されきっている被害者がいるわけで、そうした無自覚の洗脳行為もある意味致し方ないことでしょう。
 私はあくまでも、制度という現状に応じた「生きる知恵」の一環として、数学との上手な向き合い方を伝授していきたいと思います。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
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 果たして数学はヒトの教育に必要不可欠なものか。
 現役の数学教師である私の答えはノーです。

 もしヒトの成長に数学が必要不可欠というのであれば、近代教育の普及していない国は未熟者だらけだと言っているのと同じ。
 世の中にはそのような考え方もあると思いますが、私自身の信条としてその手の偏見に与するつもりはありません。

 たまたま数学が得意だった私個人の実感として言わせていただければ、数学はグルメや読書や和太鼓などと並ぶ趣味の一環。
 脳をフル回転させる充実感を味わうための、単なる娯楽の一つです。

 ですが、どのような娯楽を好むかという趣向は人によってそれぞれ違いますから、単一のカリキュラムを強いる現在の日本の教育システムは数々の我慢とストレスを生むことになります。
 数字や計算などに全く興味が持てない人にとって、学校で数学をやらされるのはまるで拷問のような体験でしょう。

 では何故数学なんてものが、近代の教育システムに取り込まれているのか。
 それは、私たち個人にとっての幸せのためではなく、私たちを取り巻くこの近代社会を成り立たせるためです。

 私たちが当たり前に暮らしているこの近代社会の根幹には、近代合理主義という価値観が隠れています。
 近代合理主義とは、精霊や悪霊や神などを無根拠に信じ込む態度が非合理的だと貶められ、科学的な態度こそが合理的だと持て囃される世の風潮のこと。
 そして、この近代合理主義を支える支柱となっているのが数学という学問なのです。

 私たちが学校で数学を強制されているのは、そうすることで数学という学問の権威を保ち、近代合理主義という固定観念を再生産していくため。 
 そこで今回は、数学という学問が占めるこの特異なポジションの由来について検証してみます。

 そのためにまず、 京都大学の上野健爾氏が『こんな入試になぜできない、大学入試「数学」の虚像と実像』という著書の中で述べている数学の特徴についての文章を紹介したいと思います。

一時間しか数学を教える時間がないとき、あなたは数学の何を高校生に伝えたいか。
それぞれの数学観によって、教える内容は違ってこよう。
どこを強調するかは違うにしても、次のことのいくつかはどうしても伝える必要があるという点では多くの人が賛同するであろう。

①数学ではひとたび証明された正しい事実は、時代や社会に関わらず常に正しい。
(ニュートン力学が原子の世界では適応できないことと学問の性格が違う)

②数学は論理に基づいて理論が展開され、数学で使われる多くの記号も含めて、共通の言葉として全世界で通用する。

③数学は抽象的な表現をとることが多い。
抽象化された概念は多くの内容を含んでいる。
たとえば、文字式はたくさんの内容を含んだ言葉である。

④数学は現代の科学を支える有用な学問であるとともに、人間の精神活動のなかで美をもたらす学問である。

⑤数学の歴史は考え方の歴史であり、既成概念から自由になる歴史でもある。

 ここでは最初に「数学ではひとたび証明された正しい事実は、時代や社会に関わらず常に正しい」という性格が挙げられていますが、「時代や社会に関わらず常に正しい」というのはかなりの強気な発言です。
 数学者が自信をもってこのように言える根拠はどこにあるのでしょうか。

 「ニュートン力学が原子の世界では適応できないことと学問の性格が違う」とありますが、その性格の違いとは何なのでしょうか。
 数学だけに許された特権というものがあるのでしょうか。

 私は、この性格の違いが「現実世界のことを語るかどうか」にあると考えています。
 医学・生物学・化学・物理学…いろんな学問に世の仕組みを説明するいろんな理論が存在しますが、それらは「もしそうなら辻褄が合う」という予想の積み重ねであって「なぜ現実世界がそうなっているのか」という問いにきちんと答えられるものではありません。

 いいや、科学は世の中の仕組みをきちんと説明できているという人もいるかもしれませんが、科学において 「・・・であることが証明された」と言うとき、根拠としているのは予想した仮説に合致する実験や観測の結果がいくつか出たということに過ぎません。
 しかし、現実世界のすべての可能性を調べつくすことなんてできませんから、仮説に合う実験結果が何億何兆出ようともその仮説が普遍的な真理であることの証明にはなりません。

 現実世界のどこかに反例があってまだ観測者が見つけていないだけかもしれないのです。
 だから、そういった現実世界のことを語った理論というのはいつ覆ってもおかしくない性格のものですし、「ニュートン力学が原子の世界では適応できない」というような事態も当然のように起こりうるわけです。

 その点数学はどうなのか。
 ここは思想や立場によって意見が分かれるところですが、私個人の意見としては、数学とは現実世界のことを語る学問ではなく、公理という基本ルールを仮定することで組み立てられたゲームの世界のお話です。
 だから、ゲーム内でのお話が正しいかどうかは最初に決めた約束ごとに則っているかだけを検討すればよいので、そのルールを尊重する限りにおいては「時代や社会に関わらず常に正しい」ということも言えると思っています。

 数学の仕事はルールに即したゲームを作ること。
 「現実世界を語るのにどんなゲームをモデルとして採用すればよいか」と考えるのは科学の側の問題であって数学自身の問題ではありません。
 つまり、他の学問にない数学の特権とは「現実世界のことを語る必要がない」という学問の性格のことなのです。

 ですがそれでも、「数学ではひとたび証明された正しい事実は、時代や社会に関わらず常に正しい」という言い方で数学を説明することに、私はあまり賛成できません。
 数学で語られる正しさはあくまでも【ある公理系をルールとして認めた世界での】というカッコつきの正しさであり、そこの部分を省いて説明してしまえば、数学で語られることがまるでこの現実世界での普遍的な真理であるかのような印象を与えてしまうかもしれませんから。

 しかし、「数学で語られることはこの世の普遍的な真理だ」と誤解される状況は、「数学で語られる正しさがカッコつきの正しさでしかない」とバレてしまう状況に比べて、真理という付加価値の分だけ数学という学問の魅力が底上げされます。
 数学者や数学教師の立場からすれば、自分たちが居座っている「数学従事者のピラミッド」の権威を守っていくためにも、数学がより高尚なものだと見なされて欲しいと願うのは当然の成り行きです。
 つまり、カッコつきの正しさという部分については黙っておいたほうが数学という学問のイメージ戦略上有利に働くのです。

 また、その他の科学もこの数学のイメージ戦略に乗っかっています。
 「数学は科学の女王にして奴隷」という言葉にもあるように、数学は他の科学から女王のように敬意を払われながらも奴隷のように良いように利用されているという両面があります。

 数学は、「時代や社会に関わらず常に正しい」とかっこ付きでも言えるその独自のポジションから「この世の普遍的な真理」という付加価値にもっとも近い学問として、他の科学からも一目置かれる存在となっています。
 それと同時に、数式を利用している多くの科学には、数学の持つ特殊な威光をそれぞれの学問のイメージ戦略に流用しようとする嫌いがあります。

 それぞれの分野の理論を数式で現すことにより、「こんな綺麗な数式で表せるということはこの世の普遍的な真理である可能性が高い」といった幸せな誤解が生まれることを、暗に期待しているという側面が少なからずあるわけです。
 こういった「原子力ムラ」ならぬ「真理ムラ」とも呼べるズブズブの利害関係が存在している以上、「数学ではひとたび証明された正しい事実は、時代や社会に関わらず常に正しい」という曖昧な説明の仕方はまだまだ生き残っていくだろうと思います。

 では、カッコつきではない正しさとはどこに在るのか。  
 私の見解では、言葉はそもそも記述ではなく説得のために存在しており、「正しさ」という概念は説得のために編み出された方便の一つでしかありません。
 「こちらが正しい」とか「何が正しいのか分からない」とか「本当の正しさなんてどこにもないじゃないか」などと本気で訴えている人は、その方便を真に受けた挙げ句、真理ムラを養護する勢力の一部となっているわけです。

 誤解されると困るのですが、私は数学やその他の科学を忌み嫌っているわけではありません。
 むしろその逆で、単純な知的好奇心から多大なる興味や感心を持っています。
 ただ、数学や科学の周辺にうようよと棲息している「真理」「正しさ」「記述」といった信仰を押し付けたがっている勢力を疎んでいるだけなのです。

 上野健爾氏の説明する数学の5つの特徴の中で、私がもっとも共感しているのは、「数学の歴史は考え方の歴史であり、既成概念から自由になる歴史でもある」という最後の指摘です。

 私は「ものごとの状態や事実を記述するために言葉が存在する」というのは説得のために造られたフィクションであり、社会通念によって刷り込まれてきた固定観念だと考えています。
 そういった既成概念から自由になれたのは、まさに数学の世界で発想力を養ってきたから。

 そのおかげで私自身は20代前半の頃に真理ムラから距離を置くことができたわけで、数学という存在は私自身の支柱にすらなっています。
 たとえ数学に「真理」という威光がなかったとしても、数学が持っている「考え方の歴史」は趣味として十分魅力的ではないでしょうか。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html