間違ってもいいから思いっきり(和太鼓に狂った数学教師の週末ブロガー活動) -15ページ目

間違ってもいいから思いっきり(和太鼓に狂った数学教師の週末ブロガー活動)

私たち人間は、
言葉で物事を考えている限り、
あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。
当ブログでは、
万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、
言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

 私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。
 この野蛮な影響力は、様々な人間関係から立体的に編み出されていく集団心理の賜物。
 この集団心理の怖さを物語るような場面が、2014年4月2日放送の「ホンマでっか!?TV」の中にありました。

 春は入社、就学など新しい人間関係を無理矢理作らなくてはならない時期。
 そのためストレスも増大し、うつ病が増え、自殺率も高くなるそうです。
 そこでクローズアップされたのが、小中学生の間で増加しているという小児うつの問題。

 心理評論家の植木先生によれば、うつ症状に陥りがちな子どもの特徴は「友達をたくさん作らなきゃいけない」という強迫観念を抱いてしまっていること。
 こうした強迫観念は子どもにとって非常につらいものだと訴えていました。

 この強迫観念は、親や教師やメディアなど周囲の環境によって植え付けられるもの。
 世間には友達をたくさん作らなければ優秀じゃないという風潮が蔓延していますし、学校でも「友達ができるかできないとか」という基準で子どもの協調性が査定されている現状があり、この風潮を助長しているそうです。
 
 植木先生は「友達は多い方が良い」とする同調圧力についてただ論じただけではなく、その圧力を緩和すべく番組の中で彼女なりの波紋を起こそうとしていました。
 まず彼女は、「学校生活で大切な友や夢中になる物が一つ見つかれば青春は成功している」という考え方を紹介することで、子どもたちを悩ます世間の風潮に対してソフトな反論を試みます。

 この植木先生の語りに深く共感していたのが、隣に座っていた脳科学評論家の澤口先生です。
 彼は植木先生に「友達なんかいらないですよね」と同意を求め、思い詰めた様子の彼を面白おかしくあげつらう芸人たちに対して「友達なんかいらないわ」と言い放ちます。

 司会者は驚いた様子で『何をおっしゃってる、友達いらっしゃるでしょ』と詰め寄りますが、澤口先生は「いません」と断言。
 それに対するひな壇芸人からの『いなさそうやなあ』というリアクションによって、会場には笑いが起こり、番組的にも盛り上がりを見せました。

 この澤口先生の痛切な告白を単なる笑いのネタとして消費している世間の風潮こそが、子どもたちをうつにさせている強迫観念の源です。
 小児うつに悩まされる子どもたちを代弁者するような澤口先生の言い分を、単なる芸人たちのおもちゃで終わらせないために、植木先生はすぐさま熱弁を始めます。

 彼女は「でも大事です、友達はいらないんです」ときっぱり断言して周囲を驚かせました。
 このとっさの切り返しは、極論と笑いしか求めていないテレビショーのニーズにぴったりだったようで、ひな壇や観客はどっと盛り上がりました。

 反射的に起こった『えー、要るよ、友達は』というヒステリックな叫びに対しては、「友達はいらないという教育、という考え方もあっていいと思うんですよ」とソフトな論調に改め、極論一辺倒と受け止められるのを一旦回避します。

 そして「あのお、専門家ていうのはみんな友達いません」とさらなる極論を重ね、テレビ的な盛り上がりを演出しながらも持論を続けます。
 以下、括弧内が植木先生の発言で、二重括弧内がそれを受けての周囲の反応です。

「(専門家は)自分のやろうとすることに夢中になっていますから、他の人との付き合いにそんなに振り回されない人が多いんです」

『(専門家たちを指して)この辺友達少ない人多いんだ』

「誰もいません」

『だからこんな風に育ったんだ』
『えー、やだー』
『かわいそう、友達いないんだ』

 こうして番組の流れを作り注目を集めた上で、改めて「嫌なら無理に付き合わないという選択肢があってもいいんです。友達いないと人間じゃないみたいに言われて学校に行くと辛いんですよ、すごい」と、悩める子どもたちの気持ちを代弁していました。 
 「面白ければ何でもいい」というテレビ局側の下世話なニーズもちゃんと満たしながら、それでもただの迎合に終わらずに言うべきことをしっかりと発信していく植木先生の手腕は流石だったと思います。

 「友達はいなくてもいい」と、戦略的な極論を強調する彼女に対し、「個々では生きていけないと教えないとね」という冷静な突っ込みも飛びますが、そこは植木先生もちゃんと心得ており「もちろんそうです」と即答していました。
 彼女はただ、生きていくために必要な協調と、周囲のイエスマンになっていく迎合とをきっちり区別していただけなのです。

 彼女は「友達は必要だ」という世間の風潮には迎合しませんでしたが、だからといって世間の在り方をただ拒絶していたわけではありません。
 今回彼女が「友達はいらない」というメッセージを全国に届けることができたのは、これまで彼女自身がバラエティー番組の中で「笑いを提供する」という世間のニーズと上手く協調してきたからこそです。

 その甲斐あって、インターネット上でも「植木先生の言い分を聴いてほっとした、救われた」といった反響が起きています。
 この番組を見たことで、「ランチ仲間やトイレ仲間を確保するために無理して迎合する必要はない」と、励まされた人も随分いたのではないでしょうか。

 集団心理が怖いのは、それを造り出している人々自身に当事者としての責任感が全くないということ。
 「友達は必要だ」「友達は大事だ」と主張している一人一人に決して悪意はないのでしょうが、そのことがかえって逆らいがたい柔らかな同調圧力を生み出します。

 二重括弧で抜粋した芸能人たちの反応は、ただの感想や事実を素直に述べただけというつもりでしょう。
 ですが悩める者からすればそれらの言葉は人格否定のニュアンスを過分に含んでおり、発言者たちの意図とは無関係にうつや自殺を増加させる遠因となっているのです。

 「友達は必要だ」という固定観念はなかなか強大なものですから、植木先生一人がテレビで発信したからといってそう易々となくなるものではないでしょう。
 大事なのは、そうした同調圧力の中でも「友達がどうの」なんて○×ゲームに振り回されずに、「別に問題はない」と思えること。
 そういう意味で、植木先生の今回の発言は全国の悩める人々を確かに勇気づけたはずです。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html
 私は高校の非常勤講師として、パートタイムで数学を教えています。
 このような仕事をしていると、「数学を勉強して何の役に立つんですか」という質問を受けることがあります。

 このワンパターンな質問に対して、私は「どう役に立つのか」と愚直に解説することはあまりありません。
 こういう質問をする人は、「なぜ数学なんかを学校でやらなきゃいけないのか」といった反感を持っている場合がほとんど。
 そんな人相手に数学の魅力や有用性を説いたところで教師側からの押し付けと捉えられるだけで、反感を払拭する理由にはならないからです。

 ちなみに「なぜやらなきゃいけないのか」という質問に対して、高校生全般に通じる最大公約数の説明は「将来役に立つから」ではなく「日本の法律では数学の単位を取らないと高校卒業の資格が取れないから」です。
 そしてその次に来る理由が「受験に数学が必要なこともあるから」というもの。

 受験科目に数学が必要なければ受験数学をやる必要はありませんし、高卒の資格がいらなければ高校数学自体やる必要がありません。
 その上で数学をやるかやらないかは本人が選択すれば良いことです。
 このように、私は「なぜやらなきゃいけないのか」という質問に対しては、現行の制度についての解説しかしないことにしています。

 ですがそれは数学に魅力や有用性がないということではありません。
 数学への反感から「数学なんて何の役にも立たないじゃないか」というニュアンスで挑戦してくる人に対しては、以下のような返答を準備しています。

私自身は、どんな状況においても無意識のうちに数学で鍛えた発想力を役立てています。
ただ、どんな学びにも共通して言えることですが、学んだことを役立てられるかどうかは本人の学ぶ姿勢次第。

最初から学んでいるもの自体を軽視している人にとっては、どんなに実用的とされる学問であっても無用の長物でしかないでしょう。
数学が役に立たないと感じているのであればそうしてしまっているのは他でもない学習者自身ですので、役に立てられないことを数学という学問のせいにしてしまうのはお門違いです。

 この「どんな状況においても役立てられる」という返答に対して、「高校の数学なんて日常の場面でどうやって役に立てるのか」 と疑問に思う方もいらっしゃるでしょう。
 それについては以前勤めていた高校のホームページの教員紹介で少しだけ触れたので、ここで引用してみます。

内田樹の『寝ながら学べる構造主義』という書籍に次のような文章があります。

技芸の伝承に際しては『師を見るな、師が見ているものを見よ』ということが言われます。
弟子が『師を見ている』限り、弟子の視座は『今の自分』の位置を動きません。
『今の自分』を基準点にして、師の技芸を解釈し、模倣することに甘んじるならば、技芸は代が下がるにつれて劣化し、変形するほかないでしょう。

数学を学ぶ際にも同じことが言えます。
ただ公式を覚えて解法を暗記するだけでは、『その問題と初めて向き合った人』がどう考えてこの解法を編み出したかを理解することはできません。
そのような『未知の問題に出会った時の発想法』こそが、数学を学ぶことで得られるもっとも大きな財産です。

『師を見るな、師が見ているものを見よ』

皆さんも解法を学ぶ際は、まず『その問題と初めて向き合った人』の視座に立って疑問を持ち、どのような経緯で解法を編み出したかを追体験していってください。
『未知の問題に出会った時の発想法』とは、そのような追体験の積み重ねによって培われるのです。

 この教員紹介の補足になりますが、数学のことを「公式を使って問題を解く競技」としか捉えていない人は、「そもそも何故そのような問題を解く必要があったのか」という歴史的な背景を見落としがちです。
 ですが実際にはその時代ごとで「こういった問題を解決したい」という動機が先に存在していたわけで、まず最初に公式ありきではなかったのです。

 その時々で関心のある未解決問題をクリアするために、模索の末に生み出された便利な発明品というのが数学における公式の位置付けです。
 そういった『未知の問題に出会った時の発想法』の宝庫が数学という学問であり、学習者にそのつもりさえあれば「見たことのない問題に対峙したとき、いかに振る舞うべきか」という発想のヒントを掴むこともできるのです。

 数学というのは、数ある学問の中でも圧倒的なバリエーションの問題を、未解決状態から解決済み状態にクリアしてきた実績を持っています。
 私自身は学生時代の授業の場でそれらのプロセスを勝手に追体験していたので、論理的思考の経験を効率よく積み重ねることができました。
 そして、校外模試などの度に味わえる「知らない問題に対して自分はどれほどの対応ができるか」という思考トレーニングの面白さにハマり、大学まで数学を専攻してしまったというわけです。

 大学で専門分野での数学の世界を味わい、しばらくすると「己の理解力を試す」という数学そのものへのワクワク感がなくなってしまいました。
 そして私の興味は数学そのものから遠ざかっていき、そこで培った発想力を用いて自分を取り巻く現実世界を豊かにしていくことの方に移り変わっていきました。

 そのために19歳のころから取り組み始めたのが、自分はどのような信念のもとに生きていくのかという問題です。
 数学における隙のない論理展開にハマっていた自分にとって、巷に転がっている数多の主義・主張・哲学などはどれもこれも合理性の低い粗悪品ばかりで、参考にして受け入れる価値のあるものはほとんど見いだせませんでした。
 そこで必然的に、自分にとってより合理性の高い信念の在り方を模索し始め、20代前半のうちに以下のような考え方にたどり着きました。

「正しさ」というのは集団心理によってでっちあげられた概念に過ぎず、そんな他人の言い分に振り回されて生きるのは馬鹿馬鹿しい。
どうせならば自分好みの世界観でのびのびと生きていこう。

幸せのために最優先で取り組むべき課題は「楽しみ」を生み出すことであり、人生におけるその他の要素は2番手以降の雑事に過ぎない。
そして世の中の全ての不幸は、その優先順位の取り違えから生まれる。

 数学の世界で「真偽」という正しさの基準に向き合い続けてきたからこそ、世の中で振り回されている「正しさ」の欺瞞にどこまでも敏感になれたんだと思います。
 というわけで、数学を勉強して役に立つことは、少なくとも私の場合はこれくらいありました。
 全ては学ぶ人の姿勢次第です。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html
 日本における原子力発電の安全神話は、2011年3月11日に起きた福島第一原発の危機的事故をきっかけに崩壊しました。
 ですが、それまでの日本では原発推進が国の規定路線としてまかり通っており、反原発を声高に唱えるような人は社会的圧力によって村八分にされていました。

 電力会社・プラントメーカー・監督官庁・大学などの研究機関・政治家・マスコミなどは、原子力発電を巡る巨額の利権によって結ばれた「原子力ムラ」という共犯関係を築いていると言われています。
 原発推進派は「原発は安全で経済的で環境にも優しいから国のエネルギー政策には必要不可欠」という見解を常識にしていくために、圧倒的な金の力で世論を煽動し、反対派の影響力を封じ込めてきたのです。

 3.11の事故をきっかけに、マスコミにも原子力ムラの癒着体質を非難する言論が現れ始め、推進派による封じ込め戦略にも若干のほころびが出てきたかのように見えます。
 ですが、原子力ムラを築いてきた利権の構造自体は手付かずのまま温存されており、「現実問題としてまだ日本には原発が必要だ」とする言論人もメディアではいまだに健在です。
 原発はもうこりごりだという人が大勢現れた一方で、それでも生きるために原発の利権が健在であって欲しいと願う人もまだまだ力を持っているのです。

 原子力ムラがここまでしぶといのは、その既得権益が現行の権力機構に深く入り込んでいるから。
 そして、この原子力ムラよりも遥かに巨大なスケールで幅を利かせている勢力に「正しさ」があります。

 「正しさ」という視点の持ち方は、他の動物には見られない人間独特のローカルな習性です。
 公平さ、客観性、厳密性、再現性、独立性、価値、意味、善悪、平等、神聖さ、誠実さ、寛大さ、人間らしさ、成熟度、常識、理性、品性、適性、合法性、民主性、秩序、安全性、経済性、などありとあらゆる「正しさ」が、人間同士の説得の場面で行使されています。

 これらの「正しさ」には、人類共通のグローバルな基準などどこにも存在していません。
 「正しさ」とは、その時々の利用者の都合によって発言のたびに造られていく便利な説得ツールなんです。
 そして、各人の都合はそれぞれ違っていますから、巷に溢れる好き勝手な「正しさ」たちはしばしば対立関係に陥ることになります。

 こうした「どちらの正しさを優先すべきか」というパワーゲームのストレスを避けるため、世の多くの人々は「共通の正しさ」という揺らぐことのない権威を求めます。
 この「共通の正しさ」というアイデアは、宗教や哲学やスピリチュアルなどの世界では「真理」と名付けられており、科学の世界では「客観性」「厳密性」「再現性」などとやや控え目に言い換えられています。

 また、身近な世界においてもこの「共通の正しさ」は引っ張りだこです。
 家庭における兄弟同士のやり取りであれば親がその役目を果たします。
 学校・道場・習い事・各種セミナーなどの場であれば、先生と呼ばれる人々がその役割を果たすことになっています。
 そして、法治国家においては司法がその役割を演じることになります。

 こうした「共通の正しさ」というコンセプトは、言葉による印象操作・洗脳・煽動・説得などの威力を爆発的に引き上げるための大発明。
 例えて言うならば、言葉版の原子力発電のようなものです。

 しかし、この大発明も結局は人の都合によって生まれたものであり、公平無私な「共通の正しさ」というのは言葉が生み出した大がかりなフィクションに過ぎません。
 この作り話の欺瞞を指摘する声は大昔からありましたが、騙したがりの権力者や信じたがりの多数派によってそれらの反論は長らく封じ込められてきました。
 この「共通の正しさ」を巡る利権と癒着の構造は、「真理ムラ」と呼んでも差し支えない人類史上最大の茶番劇です。


 この真理ムラへの疑惑を忘れさせ、反論を牽制するための武器として、「理性」という方便があります。
 この作り話は「人間は他の動物よりも上等な生物である」という暗黙の前提をベースにしており、人間たちの自尊心をくすぐるご機嫌取りとして機能しています。

 人間は他の動物にはない理性を持っており、その理性のおかげで「共通の正しさ」を見出だすことができる。
 発見された「共通の正しさ」に従って 「あるべき姿」「正しい道」を選択しようと欲する性質こそ、人間が万物の霊長たる所以である。
 と、こういう寸法です。

 この「人間は他の動物よりも上等な生物である」という人間にとって好ましい結論は、真理ムラの住人にならないと得られない恩恵です。
 つまり「理性」という作り話は、真理ムラが人間たちにプレゼントした数多くの賄賂のうちの一つなのです。

 しかもこの賄賂を受け取らない者に対しては、「動物と同レベルの下等な人間だ」という侮蔑による報復措置まで用意してあります。
 こうした印象操作によって罵倒されてきた思想の代表格が「相対主義」です。

 相対主義とは、人間には絶対的な共通の認識はないとする立場のこと。
 古代ギリシャのソフィストであるプロタゴラスの有名な言葉に「万物の尺度は人間である」というものがあります。
 これは客観性や絶対的判断基準といった「共通の正しさ」の実在を疑い、世の中で振りかざされる「正しさ」というものさしはどれも個人の主観にしかよらないと痛烈に皮肉ったものです。

 ですが、こうした相対主義は現存する社会の枠組みを危うくする可能性もはらんでいるため、真理ムラの住人たちはその指摘の的確さにはとりあわずに、「人のあるべき道に唾する反社会勢力」といったレッテルを貼ることでその言論を封殺しようとしてきました。
 その試みは概ね成功しており、高校の倫理の教科書などでも、プラトンを始めとする真理の提唱者こそがギリシャ哲学の正統として紹介され、プロタゴラスなどの相対主義者はまるで敵役のように扱われています。

 このような印象操作をしてまで真理ムラの住人たちが守りたがっている「共通の正しさ」という作り話の難点は、その影響力の暴走にあります。
 中近世における宗教戦争や、近代帝国主義による侵略戦争などは、「共通の正しさ」という原発が暴走することで起きた悲惨なメルトダウンです。

 第二次世界大戦後に現れた「構造主義」という立場はそれまでの近代思想への反省から生じたもので、「共通の正しさ」に頼らない方法で前向きにより住み良い社会を築こうとする試みでした。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11884786421.html
 この構造主義の登場は20世紀以降の社会に大きな影響を及ぼし、価値観の多様化や個性尊重の傾向といった成果を世界中に広めていきます。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11883543883.html

 ですが、価値観の多様性や個性の尊重といった構造主義の達成は、構造主義が目指していた場所からだんだんと離れていきいます。
 より住み良い社会を築くために「共通の正しさ」の危うさを避けようとして発生した「価値観の多様化」や「個性の尊重」のはずなのに、そのお題目自体が新たな「共通の正しさ」として暴走を始めたのです。
 モラルハザードと呼ばれるこうした社会現象は「かえって世の中を住みにくくした」と非難を受けており、その責任は「価値観の多様化」や「個性の尊重」の格上げに加担した構造主義に押し付けられる傾向にあります。

 しかし、当初の構造主義とは、「共通の正しさ」に頼らない方法で前向きにより住み良い社会を築こうとする試みのことでした。
 モラルハザードの原因は「共通の正しさ」の否定にあったのではなく、より住み良い社会を築くという構造主義の初志が伝えられないままに、「価値観の多様化」や「個性の尊重」が新たな「共通の正しさ」と位置付けられて暴走したから。
 モラルハザードを巡る構造主義へのクレームは、真理ムラの住人同士による自作自演の茶番劇に過ぎないのです。 

 こうした引きずり下ろし工作の甲斐あって、構造主義も当初のような威光を失ってしまいました。
 ですが私は、「共通の正しさ」の威力に頼らずにより住み良い社会を築こうとしていた目的意識そのものに、深く共感しています。
 私は「世の中の全ての発言は記述ではなく説得である」という風に言語そのものへの捉えられ方を変更していくことによって、同様の目的を果たせたらと願っています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html

 宗教や科学といった「共通の正しさ」は過去に何度もメルトダウンを起こしてきましたが、真理ムラの住人にとってそれらは大した問題ではありません。
 「過去の原発が基準を満たしていなかっただけだ」としていまだに原発推進を謀ろうとする原子力ムラのように、真理ムラの住人たちも「過去の共通の正しさ」が間違っていただけだととらえ、「共通の正しさ」という発想そのものに欠陥があったとは決して考えようとしないのです。
 最近の真理ムラでは、宗教や科学といった既存の派閥には見切りをつけて、スピリチュアルや疑似科学といった代わりの「正しさ」を「共通の正しさ」に格上げしていこうとする派閥も徐々に勢いを付けているようです。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11866547864.html

 真理ムラの既得権益は人類規模で広がっているため、いくら糾弾したところで「共通の正しさ」を巡る癒着の構造はなかなか消えそうにありません。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11858425764.html
 脱真理への道のりは、日本における脱原発への道のりよりも遥かに遠いでしょう。
 現状でのそうした圧倒的な力関係を踏まえつつ、それでも「共通の正しさ」に頼らずに住み良い世界を築いていくため、これからも自分なりの発信をしていく所存です。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
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 言葉とは、まるで放射性物質のような存在です。
 電気信号として脳に刻まれた言葉は、影響力という名の放射線を脳に浴びせ続けることによって、私たちの在り方を変容させていきます。
 生物としてのヒトの身体構造は約20万年前にほとんど完成したわけですが、 そこから先のヒトの行動や習性におけるめざましい変化は、そのほとんどがこの言葉という強大な影響力によってなされたものでしょう。

 言葉による行動や習性の変容を繰り返していくうちに、いつしかヒトは己のことを「人間」と呼び、他の動物とは別格の存在として位置付けるようになります。
 カントは『教育学講義』において「人間が人間となることができるのは、教育によってである」と述べました。
 こうした発言の裏側には「人間は他の動物より高等な存在だ」という人間特有の特権意識が隠れています。

 私はこの「動物としてのヒトが教育によって高等な人間へとランクアップする」といった、人間中心主義的なものの見方には反対です。
 この独り善がりな人間観は、「昔から今に至るまで人間はまっすぐ進歩してきた」と捉える進歩史観にも繋がるものです。

 ですが、人間の変化は「進歩」というような一定の方向を持ったものではなく、言葉との出会いという不確定な要素に左右されるランダムで膨大な変容の積み重ね。
 ランクアップというよりはむしろ「奇形」と呼ぶのに相応しい現象ではないでしょうか。

 言うなれば、人間とはヒトの奇形であり、言葉とはヒトを変容させるための放射性物質です。
 ヒトという動物は、言葉の放射線を浴びて変容を繰り返すことで人間と呼ばれるようになります。 
 私たちが日頃何気なく繰り返している会話とは、言葉という放射性物質のぶつけ合いであり、影響力という放射線の照射合戦なのです。

 ヒューマニズムがごり押しする「人間らしさ」という作り話も、こうした無数の放射性物質の一つでしかありません。
 教育とは、動物として生まれてくるヒトを、社会にとって望ましい存在へと奇形させていく洗脳の試みだと言い換えることができるでしょう。

 ですから、高名な教育学者やベテランの教育者であっても、我が子の変容のいく末すら思い通りにできないという事態は特に珍しいものではありません。
 それは人間の変化が「進歩」のような一定の方向を持ったものではなく、無数の言葉との出会いによってランダムに影響を受け続ける複雑系の事象だから。
 いくらシミュレーションを重ねても100日後の天気がほとんど予測できないのと同じように、人の長期的な変化もほとんど予測不能ですし、まして思い通りのコントロールなどできるはずがありません。

 浴びる言葉のバリエーションによってその影響の現れかたは千差万別ですから、それぞれの奇形の在り方には大きな個人差があります。
 この個人差は一般に「個性」と呼ばれることになっています。
 
 さらに、言語そのものが異なる文化圏同士では、その奇形スタイルも根底から異なっているはずです。
 母語が違う者同士がその奇形スタイルの差を乗り越えて関わり合うことを「異文化コミュニケーション」と呼んだりもしますが、この根底のギャップはなかなか埋まることがありません。
 色のようなシンプルな概念でさえ、言語が違えば全く異質な切り分け方になるのですから。

 また、言葉は喩えや組み合わせによって日々新しく産み出されていくものですから、その時代にどんな言葉が流通していたかによって集団としての奇形の在り方も違っています。
 「ジェネレーションギャップ」と呼ばれる現象も、世代ごとで奇形の在り方が異なってくるという典型例の一つです。

 もっと大きなスケールで言えば、狩猟の時代、農耕の時代、工業の時代、ITの時代など、時代ごとにその奇形の在り方は大幅に異なるでしょう。
 個人の権利といった概念が発明される前のヒトの生態は現代とは全く違うでしょうし、さらに掘り下げて言うなら「私」とか「存在」とか「知る」といった言葉が確立される以前の人類など、カントの言う「人間」とは全く違う生き物のはずです。

 私が主張している「世の中の全ての発言は記述ではなく説得である」という捉え方も、この回避不能な言葉の影響力を「説得」「煽動」「洗脳」などと別の言葉で言い換えているだけ。
 言葉とは、誰かの脳に焼き付けられて初めてその存在を確認されるものですから、人に影響を全く及ぼさないピュアな言葉など原理的にありえません。
 「私は誰のことも洗脳しようとしていない」「ただ単に事実を述べているだけだ」などと無責任に言い切れるイノセントな立ち位置など、この世には存在しないのです。

 誰しもが奇形の生成に常に加担しているという認識を持ちながら、言葉の説得の効果を当たり前に考慮に入れて全ての言動と付き合う。
 「間違っていないか」を気にして生きてしまうのはこの言葉の影響力に毒されているからだと自覚した上で、「是か非か」という物事の捉え方から意識的に距離を置く。
 そんな態度を大人としての当たり前のマナーにしていこうという試みこそが、この「間違ってもいいから思いっきり」というブログの立ち位置です。

 私たち人間は言葉を使って生きている限り、絶えず何らかの奇形を生み出し続けるしかない存在です。
 人が他人に対して何かを訴えているとき、そこで起こっているのは無垢な心情の告白や事実の記述なんかではなく「己の影響力の拡大」という手垢まみれの説得工作です。

 先程述べた大人のマナーとは、万人の持つそうした犯意を当たり前に自覚して生きるということでもあります。
 そんな言葉との付き合い方こそが成熟の条件とみなされる社会の実現を目指して、これからもブログ記事という私なりの放射性物質を投げかけ続けていきたいと思います。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
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※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
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 この世界は、各々の都合と都合とがしのぎを削る弱肉強食の説得合戦の場。
 たとえば人間の赤ん坊だって、この説得ゲームの熱心なプレイヤーの一人です。
 彼らは可愛らしさを武器にして周囲の大人たちを自分に都合のいいように操りますし、気に入らないものに対しては全力で泣いたり暴れたりすることでその身から遠ざけようとします。

 ですが、こうした「野生の説得」だけで生きていけるのは赤ん坊の頃まで。
 人間の社会を上手に生き抜くには、動物としての野生の力関係以外にも倫理観や価値観など、言葉で創作された多くの物語との付き合い方もマスターする必要があります。

 ですから私たち人間は、文明社会でしか通用しないさまざまな言葉のプロレスを、幼いころから「本当のこと」として刷り込まれています。
 そうして演出された「正しさ」という作り話をこの世の事実として真に受けてしまった人は、そのフィクションが方便として通用しない範囲にまで馬鹿正直にその「正しさ」を当てはめようとしてしまいます。

 この分かりにくい話を説明するための具体例として、「就職も結婚も入れ歯と同じ」という突拍子もない話があります。
 前回、前々回と紹介してきた内田樹が、『街場のメディア論』という著書の中で就活中の大学生に向けてアドバイスしたものですが、就活や婚活をされている方には是非ともおすすめしたい逸話です。
 どんな思い込みが就活や婚活を邪魔する原因とされているのか、まずは次の引用文をご一読ください。

就職活動を始めるときに、みなさんは最初に「自分の適性」ということを考えます。
そして、適性にふさわしい「天職」を探し出そうとする。

でもね、いきなりで申し訳ないけれど、この「適性と天職」という発想そのものが実は最初の「ボタンの掛け違え」だと僕は思います。
「適性と天職」幻想にとらえられているから、キャリアを全うできなくなってしまう。
僕はそう思います。

勤め始めてすぐに仕事を辞める人が口にする理由というのは、「仕事が私の適性に合っていない」「私の能力や個性がここでは発揮できない」「私の努力が正当に評価されない」、だいたいそういうことです。
僕はこの考え方そのものが間違っていると思います。
仕事っていうのはそういうものじゃないからです。

みなさんの中にもともと備わっている適性とか潜在能力があって、それにジャストフィットする職業を探す、という順番ではないんです。
そうではなくて、まず仕事をする。
仕事をしているうちに、自分の中にどんな適性や潜在能力があったのかが、だんだんわかってくる。
そういうことの順序なんです。

就職というのはその点で「結婚」と似ています。

みなさんは、結婚というのはまず「自分にぴったりした配偶者に出会うこと」から始まると思ってますでしょう。
それが間違いなんです。
そうじゃないのね。
「まず結婚する」んです。
そこから話が始まる。
結婚してみないと、自分がどういう人間なのか、そもそも結婚に何を求めているのかなんて、わからないものです。
結婚してはじめて、自分の癖や、こだわりや、才能や、欠如が露呈してくる。
「ああ、オレって『こういう人間』だったんだ」ということがわかる。

結婚は入れ歯と同じである、という話があります。
これは歯科医の人に聞いた話ですけれど、世の中には「入れ歯が合う人」と「合わない人」がいる。
合う人は作った入れ歯が一発で合う。
合わない人はいくら作り直しても合わない。
別に口蓋の形状に違いがあるからではないんです。
マインドセットの問題なんです。

自分のもともと歯があったときの感覚が「自然」で、それと違うのは全部「不自然」だから厭だと思っている人と、歯が抜けちゃった以上、歯があったときのことは忘れて、とりあえずご飯が食べられれば、多少の違和感は許容範囲内、という人の違いです。
自分の口に合うように入れ歯を作り替えようとする人間はたぶん永遠に「ジャストフィットする入れ歯」に会うことができないで、歯科医を転々とする。
それに対して、「与えられた入れ歯」をとりあえずの与件として受け入れ、与えられた条件のもとで最高のパフォーマンスを発揮するように自分の口腔内の筋肉や関節の使い方を工夫する人は、そこそこの入れ歯を入れてもらったら、「ああ、これでいいです。あとは自分でなんとかしますから」ということになる。
そして、ほんとうにそれでなんとかなっちゃうんです。

このマインドセットは結婚でも、就職でも、どんな場合でも同じだと僕は思います。
最高のパートナーを求めて終わりなき「愛の狩人」になる人と、天職を求めて「自分探しの旅人」になる人と、装着感ゼロの理想の入れ歯を求めて歯科医をさまよう人は、実は同類なんです。

与えられた条件のもとで最高のパフォーマンスを発揮するように、自分自身の潜在能力を選択的に開花させること。
それがキャリア教育のめざす目標だと僕は考えています。
この「選択的」というところが味噌なんです。
「あなたの中に眠っているこれこれの能力を掘り起こして、開発してください」というふうに仕事のほうがリクエストしてくるんです。
自分のほうから「私にはこれこれができます」とアピールするんじゃない。
今しなければならない仕事に合わせて、自分の能力を選択的に開発するんです。

僕の友人で学芸員をやっているオオタくんは、フランス留学から帰ってきたらフランス語の運用能力が一気に向上していました。
何があったの、と訊いたらパリで奥さんが出産して、そのとき分娩室で泣き叫ぶ奥さんの言葉を逐一フランス語で医師に通訳しているうちに、脳内で何かケミカルな異変が起きて、突然フランス語がすらすらと出てくる人間になったそうです。
たぶん、そういうものなんでしょうね。

このことから知られるのは、潜在能力が爆発的に開花するのは、自分のためというよりは、むしろ自分に向かって「この仕事をしてもらいたい」と懇請してくる他者の切迫だということです。

子どもの側からの「ケアしてください」という懇請に応えて、僕たちは「親の愛情」というものを発動させる。
まず「親としての適性」があり、それを全面開花させるために子どもを作るわけではありません。

「潜在能力を選択的に開花させる」というふうに先に書いたのは、そのことです。
開花する才能は自分で選ぶものではありません。
この能力が開花したら、金が儲かるとか、権力や威信が手に入るとか、人に自慢できるとか、そういう利己的な動機に賦活されて潜在能力は発動するわけではない。
もちろん、そういうエゴイスティックな動機づけも才能の開花にはいくぶんかは役に立つかもしれません。
でも、そんな「せこい」動機では、潜在能力の全面的かつ爆発的な開花というようなカラフルな出来事は起こりません。
人間が大きく変化して、その才能を発揮するのは、いつだって「他者の懇請」によってなのです。

人の役に立ちたいと願うときにこそ、人間の能力は伸びる。
それが「自分のしたいこと」であるかどうか、自分の「適性」に合うことかどうか、そんなことはどうだっていいんです。
とにかく「これ、やってください」と懇願されて、他にやってくれそうな人がいないという状況で、「しかたないなあ、私がやるしかないのか」という立場に立ち至ったときに、人間の能力は向上する。
ピンポイントで、他ならぬ私が、余人を以ては代え難いものとして、召喚されたという事実が人間を覚醒に導くのです。

「天職」というのは就職情報産業の作る適性検査で見つけるものではありません。
他者に呼ばれることなんです。
中教審が言うように「自己決定」するものではない。
「他者に呼び寄せられること」なんです。
自分が果たすべき仕事を見出すというのは本質的に受動的な経験なんです。
そのことをどうぞまず最初にお覚え願いたいと思います。

 勘違いしないでほしいのですが、私はここで「適性と天職」という発想や「自分にぴったりした配偶者」が間違った洗脳であり、内田樹の主張の方が正しいと言っているわけではありません。
 ここで争われているのは「正しさ」などという演出されたプロレスの勝敗ではなく、説得合戦における言葉の影響力の強さ。
 ただ単に「どちらの作り話の方が説得力があるか」という、フィクション同士のぶつかり合いが起きているだけなのです。

 「適性と天職」「自分にぴったりした配偶者」というストーリーは一見もっともらしく見えますが、その作り話を真に受けたことで就職や結婚が難しくなっている人は決して少なくありません。
 内田樹は「入れ歯のマインド」という逆転した物語を投げかけることで、勤労意欲の低下や非婚化といった現状に彼なりの波紋を起こしてみたわけです。

 問題は「どうするのが正しいのか」という次元にはありません。
 そもそも言葉にできるのは、話を造って人の心に影響を与えることだけ。
 作り話じゃない本当の話を持ってこいと言われてもそれはただの無茶ぶりです。

 それでも言葉に正しさを要求してしまうのは、幼い頃から付き合わされてきた「是か非か」という○×ゲームの刷り込みの影響がまだまだ強く残っているから。
 周囲の雑音に惑わされて身動きが取れなくなっている人は、「その話の台本は自分にとって果たして好都合なのか」というシンプルな基準で自身の価値観を見直してみてはいかがでしょうか。 


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html
 成人の基準というのは場所や時代によって様々ですが、現在の法治国家においては法律によって年齢のみで決められていることがほとんど。
 どの国の成人の年も、だいたい14~21歳の間に収まっています。 

 しかし、そういった法律が定める成人の基準とは別に、「あの人は大人だ」とか「あいつはまだまだ子どもだ」といった言い方も世の中には出回っています。
 この大人と子どもの基準は、主張する人によってどうとでも変わっていく非常に曖昧なもの。
 各々にとって都合の良い印象操作を行うための手段として、個人の勝手な決め付けで運用されているのが実態です。

 別にこの問題に限らず、世に溢れる数々の曖昧な基準は、個人個人の説得の圧力を高めるためにその時々ででっち上げられる作り話です。
 この弱肉強食の説得合戦を生きるプレイヤーの一人として重要な視点は、「どれが正しい基準か」という他者依存の見方ではなく、「どの基準なら自分の都合とマッチするか」という自立した情勢判断の方でしょう。

 そこで今回は「大人の条件」というテーマについて、私自身が「これなら応援できる」と思えたお気に入りの方便を紹介します。
 それでは、ブログ『内田樹の研究室』における「お正月向きの大学人」という記事の抜粋を御覧ください。

つねづね申し上げているように、年齢や地位にかかわらず、「システム」に対して「被害者・受苦者」のポジションを無意識に先取するものを「子ども」と呼ぶ。
「システム」の不都合に際会したときに、とっさに「責任者出てこい!」という言葉が口に出るタイプの人はその年齢にかかわらず「子ども」である。

~中略~

「子ども」でも何かを破壊することができる。
でも、彼らが破壊したあとに建設するものは、彼らが破壊したものと構造的に同一で、しばしばもっと不細工なものである。

もちろん「子ども」には「子どもの仕事」がある。
それは「システム」の不具合を早い段階でチェックして、「ここ、変だよ!」とアラームの声を上げる仕事である。
そういう仕事にはとても役に立つ。

でも、「システム」の補修や再構築や管理運営は「子ども」には任せることはできない。
「ここ変だよ」といくら叫び立てても、機械の故障は直らない。
故障は「はいはい、ここですね。ではオジサンが・・・」と言って実際に身体を動かしてそのシステムを補修することが自分の仕事だと思っている人によってしか直せない。

現代日本は「子ども」の数が増えすぎた社会である。
もう少し「大人」のパーセンテージを増やさないと「システム」が保たない。

別に日本人全員に向かって「大人になれ」というような無体なことは言わない(そういうめちゃくちゃなことを言うのは「子ども」だけである。「大人」はそんな非常識なことは言わない)。

まあ、5人に1人か、せめて7人に1人くらいの割合で「大人」になっていただければ「システム」の管理運営には十分であろうと私は試算している。
今は「大人比率」が20人に1人くらいまで目減りしてしまったので、この比率をもうちょっといい数字まで戻したいだけである。

「そういうのだったら、それやってもいいです」という奇特な方が若い人の中から少しばかり出て来ていただければ、それで十分である。
残りの諸君は愉快に「子ども」をやっていてくださって結構である。

 もちろん、ここで紹介された「大人」と「子ども」の見分け方は、内田樹個人がプロデュースした作為的な基準に過ぎません。
 だからと言って私は、この「大人の条件」のことを「これは作り話だから認めない」と非難しようとは思いません。
 なぜなら私自身も、内田氏の言うような「大人」が世の中に増えてくれたらと願うからです。

 この「大人」という概念だけでなく、「神」「愛」「罪」「正義」「人道」「人権」「平等」「公平」「客観」「実在」「真理」などの概念も、全ては言葉によって演出された作り話です。
 ですが、作り話だからと言って決して無駄なわけではありません。
 これらのフィクションがあったおかげで、現代の文明社会は今のような姿にデザインされてきたのです。
 大事なのは「何が正しいのか」というありもしない既成事実への依存心ではなく、「この世界にどんな波紋を起こして住みよくしていくか」という一人の自立したプレイヤーとしての覚悟でしょう。

 「そういうのだったら、それやってもいいです」と思える人が一人でも増えてくれたらと私自身も全面的に賛同できたので、ここでこの記事を紹介してみました。
 「獲れる所から獲っておかなきゃ損」とばかりにゆすりたかりを正当化するクレーマー社会に対し、一人のプレイヤーとして僅かばかりの反撃を試みているつもりです。

 私はこの「大人の条件」を「事実」として皆さんに押し付けるつもりはありません。
 ただただ、気に入った方にだけご愛用いただければ幸いです。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html
 この世を仕切る「正しさ」という物差しなどどこにも存在せず、世界にはただ「都合と力のバランス」があるだけ。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11798926743.html
 こう考えていた大学時代、私にとって「正しさを競う舞台」としての言論の世界は非常に馬鹿馬鹿しいヤラセに見えていました。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11787898414.html

 ルールのはっきりしない言論の世界において、そこで使われる「客観的に見れば」とか「公平に考えれば」という言い回しは皆、自説を有利にするために使われる戦略のひとつでしかありません。
 「このように話し合うのが当然のルールだろ」みたいな話の持っていき方はすべて、その場の都合と力の関係に応じて雇われる「買収されたレフェリー」でしかないのです。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html

 そしてこの「客観性」とか「公平さ」という戦略に力を与えているのが、子どもの頃から刷り込まれる民主主義という思想です。
 「みんなの公正な話し合いでより良い道を模索していこう」という民主主義の採用したフィクションは、魅力的な説得力と暴力的な説得力を併せ持った「正しさ」という名の巨大な権力に支えられています。
 つまり、たとえ民主的な話し合いの場であっても、そこで争われているのは「無垢な正しさ」なんかではなく「ただの力」だということです。

 ですから私は「対話と圧力」という区別の仕方に大きな違和感を感じていました。
 対話というのはそれぞれの都合がしのぎを削るパワーゲームです。
 そこで競われるのは説得力という名の「言葉の力」です。
 私たちは「よし今から相手に影響を与えてやろう」なんてわざわざ思わなくても、ただ普通におしゃべりをしているだけで互いに影響を及ぼしあっています。
 力と無縁な対話なんてどこにもありません。
 民主主義の戦略のおかげで「民主的な対話は暴力的なものとは無縁のクリーンな手段だ」というフィクションがまかり通っていますが、結局のところ「対話も圧力」でしかないのです。

 そういうわけで、大学時代の私はあまり熱心な読書家ではありませんでした。
 世の中の是非について語る議論はすべて、「正しさ」というフィクションの上で繰り広げられる言葉のプロレス。
 そんな見え見えのヤラセにはいかなる権威も感じませんでしたから、書物においても「そこに何か正しいことが書いてあるかも」という種類の期待は一切抱きませんでした。
 ですから大学での勉強を除けば、架空のストーリーを楽しむための小説や漫画くらいしか読まなかったと思います。
 
 しかし、大学院時代に『内田樹の研究室』というブログに出会ってから、私の読書に対する見方が変わりました。
 内田樹は「おじさん」の常識・生活倫理・実感を大切にするという立場を表明している思想家です。

 Wikipediaがまとめるところによると、政治的には護憲派としての側面と保守的な側面を併せ持っているとのこと。
 自身の経験とレヴィナスの思想をもとにマルクス主義批判、学生運動批判、フェミニズム主義批判を行なっているそうです。

 私が共感したのはそういった主義主張の中身ではなく、「主張の中身が正しいかどうかなんてことよりも実際に説得の効果があるかどうかのほうが重要」という基本的な言論の姿勢の方でした。
 その姿勢が顕著に現れている「哀愁のポスト・フェミニズム」という記事を見てみましょう。

Y売新聞からインタビューの申し入れがある。
テーマは「ポスト・フェミニズム」。
おどろいて「もう、フェミニズムは終わってしまったんですか?」と訊いたところ、電話口の記者さんは怪訝な声で、「だって、『フェミニズムはもうその歴史的使命を終えた』ってウチダ先生書いてるじゃないですか」。
あれは戦略的にそう書いているだけですって。
「・・・はもう終わった」というのはいかなる意味でも理説への内在的批判ではない。
「言ってみただけ」である。

 私はこの冒頭部分を読んだだけで胸がスカッとしました。
 言論の世界における「正しさ」というフィクションは、言論に力を持たせたいと願う人々の「都合と力の関係」によって支えられています。
 この「正しさ」がフィクションだと分かっていない人は、「これは正しい」「あれは間違ってる」「それは本当の正しさじゃない」「本当に正しさなんてどこにもないじゃないか」という青臭い議論に本気で加担することになります。
 たとえ「正しさ」がフィクションだと分かっている人であっても、その「正しさ」から都合のよい効果を得ようと思ったら「それがフィクションかどうか」なんて舞台裏については黙ったままプロレスを演じておいたほうが得策です。
 
 しかしこの内田樹という人物は「正しさはフィクションである」という自覚を持った上で、自分の手の内をおおっぴらにさらけ出しています。
 この記事の冒頭にはそのことがよく現れていました。
 「別に『それが正しい』なんて本気で思った上で事実として言ったわけじゃなく、私の望む効果を生みだすために言ってみただけなんだから」という言論の世界の種明かしが、何のてらいも無く行われていたのです。

 この戦略的な世界観の見事な体現者と出会ってから、私はこれまで読んでこなかったような種類の本に手を出すようになりました。
 それは、本から何か「正しい知識」を得るためではありません。
 「正しさ」なんてフィクションを真に受けて矛盾点を見つけるたびにいちいち目くじら立ててたら 、人の話なんてどれも自分勝手な基準を採用した上での誘導された議論でしかありませんから真面目に聞く気にはなれないでしょう。

 私が興味を持ったのは、議論を誘導する際にどのような言葉が使われているかという、具体的な言葉の荒波の造られ方。
 著者たちは「自分好みの世界観を広めたい」という自分の都合に応じて説得力を得ようと著書の中でさまざまな工夫を凝らしており、その「自分好みの世界観を広めるための戦略」を分析しながら本を読むという作業がとても面白かったのです。

 これから紹介していきたいのは、世の言論人たちはこの言葉の荒波をどう渡り歩いているのかという具体例について。
 言論人たちの仕掛ける「正しさ」というプロレスを真に受けることなく、それらの作り話が私たちをどのように説得したがっているのかという「都合と力のバランス」を考察していきたいと思います。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
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※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
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 世間での言葉の使われ方について、私がとことん追究し始めたのは数学を専攻していた大学生のころ。
 私は物心ついた頃からずっと、人の行動を仕切りたがる押し付けがましい言葉の圧力に違和感を覚えており、他の要領の良い子たちのようには上手く折り合いをつけられずに育ってきました。

 そんな私にとって、数学とは一番分かりやすいシンプルな世界でした。
 何せ、意味の分からない他人の主張に気兼ねする必要がなく、ただただ一定のルールに則して納得のいく理屈を積み重ねれば良いだけなのですから。

 そうした自分の心理傾向に気付いたのは、大学で1年間数学を学んだ後の19歳の頃。
 ゲーデルの不完全性定理や選択公理や集合論やε-δ論法といった数学の基盤を知るにつれ、数学とは「圧力に左右されない言葉のやりとり」を望む温室志向の学問なんだと考えるようになりました。

 数学における真偽の基準は公理というルールに則っているかどうかだけで決まり、現実世界のように多数派の圧力に左右されることはありません。
 数学が、すっきりしない現実とは無縁に見える机上の言語ゲームだったからこそ、現実世界の理不尽な押し付けを消化できなかった自分にとっては理解しやすかったのです。

 この頃から私は、数学という理路整然としたゲームの世界に逃げ込むことを止め、都合や力に左右される現実の世界との向き合い方を検討し始めました。
 そんな学生時代に練り上げた、私なりの常識の方程式を今回は紹介したいと思います。

 まず第一に、この世界を動かしているのは都合と力です。
 すべての人間、すべての動物、すべての生物、すべての物質、すべてのエネルギーにはそれぞれの都合があり、そうした各々の都合がぶつかり合うことによってこの世の中は動いています。
 そうした都合と都合のぶつかり合いの結果がどのように現れるかは、そのときどきのプレイヤー同士の力関係によって変わります。

 当時の私は、こうした「世の中の都合と力のバランス」についての理解のことを「常識」だと再定義しました。
 それまでの私は「常識」という言葉に対して人並みな反発心を抱いていましたが、このような見方をすることで以前よりも前向きに「常識」と向き合うことができました。

 しかし、一般的な「常識」という言葉の使われ方はこれと異なります。
 さまざまな使われ方をする「常識」ですが、ここでは社会に上手く適応できている人のことをいわゆる「常識人」と呼ぶことにします。
 そして、己の都合と社会の都合の折り合いを付けるために先人たちが積み重ねてきた知恵の数々を「道徳」と名付けてみます。
 ではここで、これまで出てきた「常識」と「常識人」と「道徳」の関係についてまとめてみましょう。

常識=都合と力の関係についての理解≒自分の都合に対する認識

常識がある=都合と力の関係に詳しい≒自分の都合に対する認識が深い

常識がない=都合と力の関係に疎い≒自分の都合に対する認識が浅い

いわゆる常識人=社会の都合と折り合いを付けようと思う人

いわゆる非常識人=社会の都合と折り合いを付けようと思わない人

道徳=社会の都合と折り合いを付けるためのテクニック集

非常識な常識人=道徳を採用する自分の都合に無自覚な人

常識的な常識人=道徳を採用する自分の都合に自覚的な人

常識的な非常識人=道徳を拒否する自分の都合に自覚的な人

非常識な非常識人=道徳を拒否する自分の都合に無自覚な人

 ここでは「常識的であるか」と「いわゆる常識人であるか」という2つの基準で4つのパターンに分けてみましたが 、この分類は道徳を採用する際の動機付けの強さの順番で並べています。

 「非常識な人」にとって、道徳を採用するかどうかはただの個人的な都合ではなく「正しさ」という世の成り立ちに関わる問題です。
 ですから、「正しい」と思って採用した徳目はその人にとって守らねばならない原理ですし、「間違ってる」と拒否した徳目はもう二度と採用することのない信用度0パーセントの戯言です。

 しかし、それよりもいくらか「常識的な人」にとって、道徳とは100パーセントの正しい原理ではなく 、その時々の都合や力関係しだいで採用したりしなかったりする暫定的な基準でしかありません。
 ということは、「非常識な人」が自分の信念に対して一途なのに対し、「常識的な人」は自分の意見をころころ変えたりしてたちが悪いんじゃないでしょうか。

 しかしこれは「正しさ」というフィクションに染められた子どもの見方です 。
 もし、折り合いを付ける必要のある社会がたった一つしかないのなら、確かに「非常識な常識人」こそが最高の人徳者と言えるでしょうが、社会のあり方というのは一色ではありません。

 家族という社会、友人関係という社会、学校という社会、職場という社会、地域という社会、国という社会、野生という社会、さまざまな単位でそれこそ無数の社会の切り分け方があります。
 そして、社会が違えばプレイヤーの都合や力関係も変わってきます。
 つまり、社会の都合もその切り分け方によって変わりますから、「社会の都合と折り合いを付けるためのテクニック」である道徳の使い道もそれに応じて変化させられないと、それぞれの社会との折り合いが上手くいきません。

 ですから、自分が採用している道徳を変更することができない「非常識な常識人」は、社会によっては「非常識な非常識人」へと転じてしまいます。
 そして、「非常識な非常識人」ほど社会にとってたちの悪い存在はありません。
 何せ、彼らが採用している非常識な道徳は本人にとっての「正しい原理」ですから、都合や力を考慮に入れた説得というものが全く通じないのです。
 こういった人たちのことを、世の中では「原理主義者」と呼びます。

 このはた迷惑な「原理主義者」にならないためには、それぞれの社会の都合と力の関係がどうなっているかをとらえる感度が重要になってきます。
 そしてその感度が高ければ高いほど、多様な社会の都合と上手く折り合っていくことができます。
 つまり、都合と力の関係に通じた「常識的な人」であれば、どんな社会でも臨機応変に対応することで「常識人」になれる可能性があるわけです。

 このような思索の結果、私は「いわゆる常識人」ではなく「常識のある人」を目指したいと思いました。
 つまり、その時々の自分の都合を満たすために、効果がありそうな道徳なら採用するし、邪魔になりそうな道徳なら採用しないという柔軟さを高めていこうと決意したのです。
 狭い社会でしか通じないテクニックに意固地にこだわったせいで、今いる社会と折り合いが合わずに結局は自分の都合が満たされないなんて目には会いたくありませんでしたから。

 それから15年ほどが経ち私も社会人になりましたが、学生の頃に打ち立てたこの方針は未だに揺らぐことはありません。
 これからもこの常識の方程式を活かしながら、移ろいやすい言葉の荒波を生き抜いていきたいと思います。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html
 この世界は、力が支配する弱肉強食の説得合戦の場。
 私たちは生まれたときからすでにこの舞台のプレイヤーの一人であり、さまざまな力を用いて互いに説得の応酬を繰り返しています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11783753847.html

 説得に用いられる力は、その働きかたによって暴力と魅力の2種類に大きく分類することができます。
 ここでの暴力とは己のわがままを無理矢理通す力のことを言い、魅力とは相手が自ら望んでこちらの都合に合わせたくなるように仕向ける力のことを言います。

 たとえば、ミツバチに蜜を吸わせることで花粉を運ばせる草花は、蜜という魅力でミツバチを動かしていると解釈できます。
 また、オスたちに自分たちの身を守らせるメスたちは、繁殖という魅力でオスたちの暴力を有効活用していると言えるでしょう。

 そういった野生の武器の他にも、人間には言葉という新しい武器があります。
 言葉は暴力にも魅力にもなりうる応用範囲の広い武器です。
 この言葉の活用方法をいろいろと試してきたトライ&エラーの履歴こそが、人類がこれまでたどってきた歴史です。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11809789350.html

 そして言葉を応用した「正しさ」という○×ゲームも、人類が開発を重ねてきた説得のための戦略の一つ。
 自分たちにとって都合の良い言動に対しては「正しい」という飴を与え、そうでない言動に対しては「間違ってる」という鞭を与えることによって、人類はお互いをコントロールしあってきました。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11813540497.html

 この「正しさ」という○×ゲームの最大の欠陥は、何を「正しい」とし何を「間違ってる」とするのかというルールや、その管理者たるレフェリーが、実際にはどこにも存在しないということ。
 人類はこれまで数え切れないほどの論争を繰り広げてきましたが、それらのほとんどは「レフェリーの代弁者」という場を仕切る権限をめぐっての権力闘争でした。

 「レフェリーの代弁者」という立場は、自分の個人的な要求でしかない主張を、まるでこの世の既成事実のように見せかけるための隠れ蓑です。
 「それは正しい」とか「それは間違ってる」という言い方で裁きたがる人たちは、私はこの世のレフェリーの代弁をしているだけなんだという迫真の演技で己の発言の圧力を高めていたのです。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11791749081.html

 演技の迫力とは、演技者が役にどれだけ入り込めるかで決まるもの。
 人々はいつしかレフェリーの代弁者のふりが説得のための演技であったことを忘れ、「どこかに本当の正しさがあるはず」といった物語を本気で信じこんでしまいます。
 こうして人類の間には、「正しさ」という架空のレフェリーの存在をガチだと捉えてしまう、大がかりなプロレス社会が成立していきました。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11787898414.html

 実際に、家庭や学校における道徳教育の場では「善悪」というフィクションを真剣っぽく演出するプロレスが横行しています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11789717718.html
 一昔前までは、 科学や哲学という学術研究の場においても「真理の探究」というプロレスが繰り広げられていました。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11884786421.html
 身近なところでは、普段の何気ない会話の中でも「常識」というあからさまな八百長への同調圧力がいまだに幅を利かせています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11798926743.html

 これらは皆、各々の個人的な説得の圧力に「正しさ」という権威を上乗せするためのプロレス的演出です。
 ですが、幼い頃から「正しさ」という物語を「本当のこと」として内面化させられてきた人たちは、「実はこうなんだ」「世の中はこうなっている」という演出に引っ掛かりやすくなっています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11786264193.html

 そんなフィクションの世界を生きている文明人たちにとっての一番の悩みの種は、「自分は駄目なやつだ」「自分は人間として間違っている」「自分には価値がない」といった自己嫌悪の念。
 これは「正しさ」という言葉のプロレスをガチンコだと思い込むことで引き起こされてしまった悲劇です。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11870976520.html

 こうした悩みに対して「あなたは駄目じゃない」「あなたは間違ってない」「あなたには価値がある」などの声かけをしてあげれば、何らかの気休めにはなるかもしれません。
 自分には生きている価値があると思えるだけの「生き甲斐」を処方していくというのも、良い気晴らしにはなるでしょう。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11864744405.html

 占いや宗教やスピリチュアルや自己啓発などが得意とするのもこの分野。
 「救い」や「生き甲斐」にはそういった自己嫌悪から一時的に気を反らす効果があるので、これらの「お薬」を処方し続ければ一生気を反らしたままでいられるかもしれません。
 「自分にも価値がある」と信じていられる間は救われるでしょう。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11866547864.html

 ですが、これらの悩みはすべて言葉の上での出来事。
 「駄目」とか「間違ってる」とか「生きる価値」なんて言葉さえなければ、そもそも生まれることのなかったダメージです。
 対処療法も良いですが、もっと根本的な原因を見直してみても良いのではないでしょうか。

 これは、自分がこれまで「正しさ」という造り話にどれくらい頼ってきたかという依存心の問題。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11858425764.html
 いもしない架空のレフェリーに頼りきるのを止め、「正しさ」という言葉のプロレスから心理的に距離を取るくらいであれば、今からでも決して遅くはないでしょう。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html

 「間違ってもいいから思いっきり」とは、「間違ってないか」を気にして生きるという文明人特有の依存心から卒業するためのキャッチコピー。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11765430240.html

 「正しさ」とは、発言者の意向を押し通すための暴力的な発明です。
 どんな人の理屈にも、あなたの生き方を仕切る権限はありません。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11949591621.html

 そんな言葉の暴力に押しきられないためには、まるで事実を語るかのような言葉のプロレスを真に受けずに、その発言の裏にある相手の都合に焦点を当てること。
 私たち人間も他の動物たちと同じように、弱肉強食の説得合戦を生き抜いているだけなのですから。


※このプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、こちらで簡単な図にしてまとめています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html
 その昔、 J's Barという村上春樹のファンサイトがありました。
 ここにはQ&Aというコーナーがあり、いろんなお題を出し合ってはそのお題に答えていくというスタイルで、ファン同士の交流が大変盛んに行われていました。

 私も学生の頃はこのQ&Aのさまざまなお題に答えており、その機会を通じて自分なりの考え方を発信していく喜びを覚えました。
 今回は、その中でも印象に残っている質問を紹介し、そのとき私が考えていたことを語ってみたいと思います。

Q
「世の中間違ってる」と思うことは何ですか。

A
不愉快だと思うことはあっても、それが間違いだとは結論付けません。
よって、「間違ってる」と思うこと自体がありません。

 この質問を受けたとき、私はなんと答えるべきか少し悩みました。
 「不愉快なことはなんですか」という質問だったら個人的な感想の範疇でいくらでも答えることができたのですが、私にはそれらの不愉快なことを「間違ったこと」にわざわざ格上げするための理由が浮かばなかったのです。

 「間違ってる」と言うからにはどこかに正解があるという設定なんでしょうが、私には「想定される正解」について何の知識もないので、それが間違ってるかどうかなんて判断できるレフェリーのような権限はありません。
 では、「世の中間違ってる」と言う人はどういう根拠でそんなことを言ってるんでしょうか。

 私が想像するに、その人には世の中について何か気に食わないことがあるんだと思います。
 気に食わない事柄に対して文句を言いたい場合、その人の頭の中では「世の中はこんな風になっているべきではないのに実際の世の中は本来あるべき姿を実現していない」という架空の物語が出来上がります。
 つまり、「世の中は正解を選択していない、よって間違ってる」というわけです。
 そこでこの人に対しては2つの疑問が浮かんできます。

 「あるべき姿ってどういうものを指すんですか」
 「それであなたはどうしたいんですか」

 前者の質問について、何か具体的な回答がもらえたと仮定してみましょう。
 つまり、「これこれこういう姿があるべき姿である」という正解があり、それに反していれば間違いだというわけです。
 すると以下のようなやり取りを想像することができます。

それが「あるべき姿」であるという根拠はどこにあるんですか。

それはこれこれこういう理由だからだ。

で、その基準はどうして採用したんですか。

うるさい、間違ってると言ったら間違ってるんだ。
いちいち根拠なんか聞くんじゃない。

それで説明になってるつもりですか。

説明ができようができまいが、「あるべき姿」っていうのは当たり前の前提として飲み込まなきゃいけないんだ。

じゃあ「世の中は間違っている」というのは、その「あるべき姿」を当たり前の前提として認めた人にとっての結論であって、その前提を認めない人にとっては関係のない結論ということでよろしいですか。

いいや、そいつが認めようが認めまいがそんなことは関係なく、人間ならば誰もが認めなくちゃいけない前提というものがあるんだ。

それってつまり、その人には思想・信教の自由がないっていう意味ですか。
その人が認めたくなくても強制的に認めさせるってことでしょ。
「誰もが認めなくちゃいけない前提」って、誰がどうやって決めるんですか。

それは人が勝手に決めるものじゃなくて、自然と決まっているものなんだ。

それってたとえ人がいてもいなくても関係なくルールだけが定まってるってことですか。
それはどこで決まってるんですか。
神様とか創造主とか絶対者といったレフェリーのような存在がどこかにいて、そこで決められているということですか。

 とまあこのように、万が一その人が言っていることが真実であったとしても、万人を説得するのは不可能です。
 少なくとも私は納得しません。

 ただ、権力や暴力やしつこい説得工作にうんざりして、口先だけで「うん」と言うことはあるかもしれません。
 それでも心の中ではまったく認めずに「やれやれ」と思うことでしょう。
 つまり、世の中の「あるべき姿」という最初の条件決めの段階で、万人が合意できる瞬間はないということです。

 また、「何が正しいかはわからないけどとにかく世の中は間違ってるんだ」と言う人もいるかもしれません。
 しかし、こんな結論ありきの言い方ではそれこそ「個人的な不快感」のレベルを一歩も出てはいないでしょう。

 そして、さらに聞きたいのが「それであなたはどうしたいんですか」という後者の質問です。
 私にとって、人と意見が合わないことや世の中が自分の望んだとおりのものでないことは当たり前の大前提です。
 だって人も世の中も「自分の都合にあわせて作られたもの」じゃありませんから。

 「人も世の中も自分の都合にあわせてくれなきゃヤダヤダ」と言いたくなる気持ちもわからないではありませんが、そんなワガママは「誰かに甘やかしてもらえる環境」の中でしか通用しない子どもだけの特権だと思います。
 私はいつまでもこの特権にしがみついてピーピー文句を言ってるだけの子どもでいたくはありませんから、思い通りにならない状況を所与の条件として受け止めた上で現実的な対処を考えていきます。
 どうしても気に食わない現状があるのならそれを変えようと具体的な努力をしますし、そこまで大した問題じゃないと思えばその前提条件の中で自分が満足していける方法を探します。

 たとえば、私が気に入らないと思っているのは、言葉の役割に関する「大きな洗脳」の問題です。
 言葉の役割とは、聞き手に何らかの印象を与えること。
 聴き手の印象に働きかけてその行動を左右することで、人間は互いの行動を制御し合うことができ、ここまでの文明社会を築き上げることができました。
 ですが、事実の説明こそが言葉の役割であるという「大きな洗脳」は文明人たちを上手に飼い慣らしており、多くの人には「事実の説明」という物語が無意識レベルにまで刷り込まれてしまっています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11787898414.html

 「人はこうあるべきだ」という言い方が目指しているのは、「そうでないと君は人でなしだ」という脅迫であり、それによって聴き手の行動を制限すること。
 これはあくまでも個人的な言葉の圧力でしかないのですが、「事実の説明」というフィクションに飼い慣らされてしまっている人たちはこうした言い方に不安を覚え、「本当にそうなんだろうか」と真面目に取り合ってしまいます。

 こうした「大きな洗脳」の状況を何とか変えていきたいというのが私の人生のテーマであり、そのための具体的な努力こそがこれらの文章です。
 だからこそ当ブログでは、言葉の圧力に負けずのびのびと人生を楽しんでいくための知恵を模索していきます。

 公平なレフェリーが管理する正しさに満ちあふれた温室なんてこの世には存在しません。
 「この世は間違ってる」なんてクレームを付けている暇があったら、この世界の一人のプレイヤーとして自分なりに行動を起こしてみてはいかがでしょうか。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html