間違ってもいいから思いっきり(和太鼓に狂った数学教師の週末ブロガー活動) -16ページ目

間違ってもいいから思いっきり(和太鼓に狂った数学教師の週末ブロガー活動)

私たち人間は、
言葉で物事を考えている限り、
あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。
当ブログでは、
万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、
言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

 あるテレビの討論会で、小学生が「なぜ人を殺してはいけないのか」と素朴な疑問を述べ、そこにいたコメンテーターたちが上手く答えられずに困り果てたという出来事が一時期話題になりました。
 今回はこうした「大人の理屈」の機能とその限界を分析していくことで、この現実を生き抜いていくための智恵を模索していきたいと思います。

 例えば、AさんがBさんに向かって「人を殺してはいけない」と言ったとします。
 AさんがBさんにこんなことを言った理由は何でしょうか。

 普通に考えるなら、AさんはBさんに人を殺してほしくなかったのです。
 しかしここで一つ疑問が起こります。
 Aさんはなぜ素直に「あなたに人を殺してほしくない」とは言わなかったのでしょうか。

 Aさんの欲求は「Bさんが人を殺したりするのは嫌だ」なのだから、正直にそう言えばAさんの意図は伝わるのではないでしょうか。
 なのにどうして「人を殺してはいけない」という表現にわざわざ変える必要があるのでしょうか。
 そのことを考えていくために、AさんとBさんそれぞれの都合を考えてみたいと思います。

 ここでAさんがBさんに向かって「あなたに人を殺してほしくはない」と素直に打ち明けたとしましょう。
 Aさんは「Bさんが人を殺したりするのは嫌だ」というAさんの都合をBさんに要求しています。

 しかし、Bさんの行動の基準はあくまでもBさんの都合なので、Aさんの都合をどこまで配慮するかはBさんの都合によって決まります。
 これでは「Bさんに人を殺してほしくない」という自分の要求が通るかどうか、Aさんには確証がもてません。

 Bさんに自分の都合どおりに行動してほしいと思っているAさんは、今の状況のままでは我慢できません。
 AさんはBさんを説得するに当たって、Aさんの都合とは違う何かの力を借りたいと考えました。

 そこでAさんは価値判断というレフェリーを雇うことにします。
 このレフェリーは個人個人の行動に対して「OK」とか「ダメ」などというジャッジを下してくれる便利な存在です。
 このレフェリーを味方につけてAさんに有利になるようジャッジを下してくれれば、Aさんの都合でしかなかった要求がもっと大きな権威を持つようになるのです。

 そのレフェリーとは、神であったりお天道様であったり「内なる道徳」であったりさまざまです。
 つまり「人を殺してはいけない」という言い方をすることで、「Bさんに人を殺してほしくない」というAさんの個人的な要求でしかなかったものに、「レフェリーがどこかでそう決めているんだから」という権威が付け加えられるのです。

 しかしBさんは納得がいきません。
 もともとBさんはBさんの都合に従って行動していたはずなのに、Aさんがわけの分からないレフェリーを持ち出してきて、Bさんの都合とは別の基準で「OK」とか「ダメ」とか仕切りだすようになったのです。
 しかもそのレフェリーは最初からAさんに都合がよくなるジャッジしか下していないように見えます。

 「その正体不明のレフェリーはどこから雇ってきたのか」
 BさんはAさんに不満をぶつけます。
 しかしAさんも必死です。
 レフェリーは公平で由緒あるものだと思ってくれないと、せっかく作り上げた権威がふいになってしまいますから。

 「このレフェリーは私が勝手に雇ったわけじゃなくて、 最初からこの世界にいて私たちの行動を裁く権限を持っていたんだよ」
 後はもう力業です。
 「レフェリーを疑うなんてそれ自体ダメなことなんだから、グダグダ言ってないで受け入れなさい」

 是か非か。
 善か悪か。
 正しいか間違ってるか。
 するべきかするべきでないか。
 しなければならないかしてはならないか。

 これらの価値判断はすべて人の勝手な都合によって雇われたレフェリーです。
 そして、このレフェリーの持つ権威を高めるためには、「人の勝手な都合によって」という出自の部分を上手くごまかさないといけません。
 そこのところを上手くごまかして、雇ったレフェリーの権威を裏付けるもの、それが真理という概念です。

 真理というのはつまり、「この世の中をジャッジするレフェリーは人の都合とは関係なく最初から存在していた」という苦し紛れの考え方のことです。
 この真理という概念をインプットされてしまった人は、「どこかに人に雇われていない真のレフェリーがいて、そのレフェリーの命令にだけは従わなければならない」という信仰を抱きます。
 その意味では「これが真理だ」と言っている人も「何が正しいのか分からない」と言っている人も「真理なんてどこにもないじゃないか」と言ってる人も、この真のレフェリーを求める信者になってしまっています。

 しかし、レフェリーとは人が雇った瞬間にしか現れないものです。
 だから人に雇われていない真のレフェリーなんていくら探そうとしても見つかるはずがありませんし、たとえ見つけたと思ったとしても「そいつは真のレフェリーじゃない、すでに買収されている」と誰かに文句を付けられることでしょう。
 そもそも、人に雇われていない真のレフェリーを探そうとする発想自体が、人の手によってでっち上げられたものなのですから。

 私たち一人一人は、この弱肉強食の世界を生きるただのプレーヤーでしかありません。
 そして人間をとりまくこの説得合戦の世界には、レフェリーの代弁者を装って己の影響力を高めるという狡猾な説得の技術があります。
 ここでお伝えしたいのは、レフェリーの代弁者のふりをした説得の圧力に容易く丸め込まれないための考え方なのです。

 誤解して欲しくないのですが、私はここで「世の中はどうせ野蛮で汚いものだ」と吐き捨てたいわけではないし、まして人殺しを容認しているわけでもありません。
 「弱肉強食」を野蛮で汚い法則であるかのように捉え、「真実の探求」というレフェリー探しを純粋な動機のように捉えてしまうのも、文明社会のイメージ戦略にまんまと乗ってしまっているため。

 「弱肉強食」の現実を生きているという極めて当たり前のことが野蛮で汚いことと言われてしまうのなら、それは「ヒト以外の野生の動物は野蛮で汚い」と見下しているのと同じ。
 ですが、ヒトはあくまでも動物の一種でしかなく、文明人たちが自分で望んでいるほど特別で高貴な存在ではないのです。

 つまり「人を殺してはいけない」というのは事実ではなく、弱肉強食の説得合戦における効果的な武器として造られたフィクションです。
 この作り話の裏側で実際に行われているのは、「あなたに人を殺してほしくない」という発言者の意思表示であり、「あなたに人を殺させない」という聴き手への圧力です。

 テレビの討論会で言葉の上の理屈だけで説得することに終始していた大人たちは、おそらく「人間だけは他の動物とは違う上等な生き物だ」と信じていたかったのでしょう。
 ですが、この社会で実際に機能している法律は「人を殺してはいけない」というフィクションにはまともに取り合っていません。
 弱肉強食の法則に従って「人を殺したら捕まえて罰を与える」というルールを明文化し、警察という武力によってそのルールを徹底させるために物理的な実力行使をしているだけです。

 「ねばならない」とか「してはいけない」とかいう机上の○×ゲームにばかり終始してしまう人たちは、「人間はもっと理性的な生き物だ」という架空の物語にすがりついているだけ。
 自分自身もそういった弱肉強食の世界の中にいて、現に力を行使しながら生きているという現実を、どうしても認めたくなくて足掻きながら空論を吐き続けているのです。

 私が提案する言葉の荒波の泳ぎ方とはまず、「どこかにレフェリーがいる」という物語に頼りきった精神状態からさっさと卒業すること。
 そしてこの弱肉強食の世界を生きている「ただのプレーヤー」としての自覚を持つことです。

 もし私が誰かに殺人を犯して欲しくないと思うのであれば、私は「ただのプレーヤー」として言葉やそれ以外の手段も駆使して説得工作を行います。
 例えば、復讐心に燃えて恋人の仇を殺してやりたいと真剣に思い詰めている友人が身近にいたとしたら、こんな説得になるでしょうか。 

 人殺しをしようとするのは君の勝手だけどそれを周りが力ずくで阻止しようとするのだって勝手。
 殺人を厳罰化している法治国家において、無力な一個人は殺人なんてしないほうが身のためだよ。
 それに、俺個人も君には人殺しをして欲しくないと思っている。
 もしどうしても君が殺したいって言うのなら、俺はあらゆる手段を使ってそれを阻止するからな。

 自分がレフェリーの代弁者のふりをして「何があっても人を殺してはいけない」と説くのも、もちろん説得における一つの効果的な手立てです。
 その手の綺麗事は、レフェリーという物語に飼い慣らされた文明人にとって十分な圧力となり得ます。

 しかしヒトもその本性は動物と同じ。
 ヒトが本当に追い詰められたとき、いつまでも架空のレフェリーの言うことを聞いていられるかは分かりません。
 いもしないレフェリーにいつまでも頼り続けるのもいいですが、この世界のプレーヤーとして自立の道を模索するのも一つの手だと思いますよ。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html
 ヒトを文明社会の担い手へと仕立て上げてしまう言葉の影響力には、ある巧妙なトリックが隠されています。
 今回はこのトリックの種明かしをすることで、言葉の荒波に溺れてしまわないための基本的なモノの見方を掴んでいきたいと思います。

 喰うか喰われるかの食物連鎖の世界で子孫を遺していくため、動物たちはそれぞれが多種多様な生存戦略を採用しています。
 草食動物たちは群れで行動して身を守りますし、 肉食動物たちは鋭い牙を持っていますし、鳥は空を飛ぶことができますし、ネズミやゴキブリや微生物などは凄まじいスピードで繁殖することができます。

 それと同じように、ヒトには言葉という応用力の高い音声信号があります。
 人類の歴史とは、この言葉の影響力を使って自分たちの在り方を変えてきた歴史でもあり、その成果こそが現代におけるこの文明社会です。
 つまりヒトは、言葉という新たな武器を得たおかげでこの地球上の食物連鎖の頂点に立てたのです。

 これから説明する言葉のトリックは、いくつもの「小さな洗脳」と、ただ一つの「大きな洗脳」という、二層構造の洗脳で成り立っています。
 倫理道徳、遵法意識、権利思想、宗教、哲学、科学など、文明社会を左右するこれらの価値観はすべて、ここで言う「小さな洗脳」の一派に過ぎません。

 「人を殺してはいけない」
 「法を守らねばならない」
 「人には生まれもった権利がある」
 「信じるものは救われる」
 「我思うゆえに我あり」
 「地球温暖化の原因は二酸化炭素だ」

 などなど、「小さな洗脳」には無数のバリエーションがあり、中には互いに両立し得ない見解も数多く含まれます。
 言論というのは、この数多の「小さな洗脳」のうち「どれが正当な言い分なのか」を巡って行われる小競り合いです。

 しかし、この「どれが正当な言い分なのか」という語り口の裏には、「言葉はそもそも何かを言い当てるためにある」という「大きな洗脳」が隠されています。
 言葉の目的が「何かを言い当てること」だと広く信じられているからこそ、「その言葉は世の中を正しく言い当てているか」という是非が真面目に問題視されてしまうのです。

 ですが、言葉の本来の目的とは、何かを言い当てることではなく、何らかの印象を与えて聴き手の行動を左右することです。
 「人を殺してはいけない」と説く多くの人の目的は、殺人が起きる可能性を少しでも減らしていくこと。
 そうした現実的な効果をもたらす説得工作こそが、人類の編み出した言葉のもともとの使い道です。

 「人を殺すことが○か×か」という机上の議論そのものは、説得のために用意された一種のおとぎ話でしかありません。
 私が問題視している文明人特有の病状とは、こういった「○か×か」という架空の話を「この世界を言い当てるためのもの」だと本気で信じこんでしまう「大きな洗脳」の問題なのです。

 「人を殺すことは何があろうと絶対に×なのだ」
 「本当は人を殺すことは×ではないんじゃないか」
 「動物を殺すのが○なら殺人だって本当は○じゃないか」
 「殺人は×だから動物を殺すのだって本当は×だ」
 「殺人が○なのか×なのか俺にはもう分からない」
 「真理なんて元々どこにもないんだ」

 言葉の役割は何かを言い当てることだと真に受けた上でこれらの内容を本気で語っているとしたら、それは「大きな洗脳」にまんまと飼い慣らされてしまっている証拠。
 言葉が持つ本来の働きを理解しているなら、こんな乱暴な○×ゲームに真面目に取り合う必要はありません。
 殺人を阻止したいと思うならそんな影響を及ぼしそうな言葉を好きに選べば良いし、言葉だけで説得し足りないと思うのなら言葉以外の手段に訴えるのもありでしょう。

 言葉とは力そのもの。
 私たちの文明社会は「真理の探究」というキレイな物語でその実態をオブラートに包んできましたが、結局のところは「弱肉強食」という他の動物と同じ舞台の上で踊っていただけ。
 私たち人間は言葉を使って物事を考えている限り、言葉による洗脳や煽動の影響力から逃れられることはないのです。
 
 そんな言ったもの勝ちのパワーゲームの中で、言葉は何かを言い当てるためにあるという「大きな洗脳」を鵜呑みにしたままでいるのは、大変なハンデと言わざるを得ません。
 デマやカルトやメディアなどは、これまで知られていなかった新事実を言い当てたかのような口ぶりであなたの耳元に「小さな洗脳」を吹き込みます。

 「本当はこうなんだ」「実はこうなんだ」という事実の説明のような言い方は全て、個人的な説得の圧力です。
 もちろんこの文章自体も、私からあなたへの説得の圧力でしかありません。
 この私の言い分をあなたが「それは違う」と叫んだところで、それすらも何者かへの説得の圧力になっています。

 こうした現状を踏まえた上で、この弱肉強食の説得合戦をどう生き延びていくか。
 それこそが当ブログのテーマになります。
 具体的な対処法もいくつか提示していけると思うので、これからの連載もどうぞよろしくお願いいたします。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html
 あなたは何ものかに喰い殺されそうになったことがありますか。
 私自身は幸運にも、まだそのような補食の危機を経験したことがありません。

 ですが野生の動物たちにとって、喰ったり喰われたりは当たり前の日常です。
 私がこれまで何ものにも喰われることなく無事でいられたのは、この現代にヒトとして生まれ、発達した文明社会で育ち、そうした野生の現実から隔離されて生きてこられたから。

 ではもし仮に、自分のことを獲物として狙う補食者が目の前に現れたとしたら、私たちには何ができるでしょう。
 言葉が通じる相手であれば話し合いによる説得の余地があるかもしれません。
 そうでなければ、闘う、威嚇する、逃げるなど、言葉によらない物理的な抵抗を試みるしかありません。
 こうして考えてみると、我々人類が文明によっていかに手厚く守られているかが分かるでしょう。

 私たち文明人の生活は、一見してそうした弱肉強食の世界とは無縁のもののように見えます。
 しかし、お上品な文明社会の舞台裏には、大型獣を駆除するハンターや、人同士の争いを抑止する警察や軍隊の存在などがあります。 
 私たち人間の社会は、言葉のコミュニケーションによる組織力とその圧倒的な武力を背景に、この弱肉強食の世界を力ずくで支配しているのです。

 そして、一見お上品そうに見えるこの文明社会の内部も、その実状は人間同士で富を奪い合う、形を変えた弱肉強食の舞台でしかありません。
 先ほど紹介した野生の闘争との違いは、言葉という新たな武器が加わっていること。
 言葉という音の刺激は聴き手の脳波に影響を及ぼし、直接的な武力とは少しだけ違ったやり方で相手の行動に変化をもたらします。

 このことを、まずは犬の調教というシンプルな例を通して見てみましょう。
 「お手」「おかわり」「待て」などの犬へのしつけは、言葉を使った立派なコミュニケーションの一つです。
 これらのしつけのほとんどは言葉と餌を使って行われます。
 犬たちが餌にありつくためには、飼い主の発する「言葉」という音声信号を聞き分け、そのシグナルに応じた行動をとる必要があります。
 こうした一連の反応の仕方を上手く学習することができれば、犬たちは人間からペットとして可愛がられ、その身の安全を守られながら餌をもらい続けることができます。 
 犬たちにとって人間の言葉を聴き分けることは、この弱肉強食の世界を生き抜いていくための極めて現実的な手段なのです。

 犬のしつけの適齢期は、他者と自分との区別が付き始めた頃。
 この時期に認識し始めたものは「そういうもの」と受け入れやすく、様々な物事を「そういうもの」として覚えさせることができます。
 自分にとってのリーダーは誰か、人間の住む世界にはどんなものがあるか、こういったことを適齢期に教え込めば、人間社会に適した聞き分けの良い犬へと仕立てあげていけます。

 ヒトの子どももペットの犬と同じ様に、他者と自分との区別が付く頃からそのしつけが始められ、言葉によって様々な物事を「そういうもの」として覚えさせられていきます。
 倫理道徳、遵法意識、権利思想、世の中の仕組みなど、様々な物語を「そういうもの」だと刷り込まれることで、この世界を力ずくで支配している文明社会の構成員として育てられます。
 私たち人間は、文明社会が刷り込んでくるそれらの物語の内部をただ当たり前に生きているだけで、他の動物への武力弾圧や人間同士の言論闘争の輪にいつのまにか組み込まれているのです。

 こうした言い分を聞いて、「人間はもっと理性的な生き物だ」と異を唱えたくなる人もいるでしょう。
 そこで次回は、文明人たちがついついそのように思ってしまう、二段構えの洗脳の構造について語っていきたいと思います。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html
 伝えたいことがあるのに言葉ではなかなか表現できない。
 どんなに言葉を尽くしても、言いたいことを正確には描写しきれない。

 そんな経験が皆さんにもありますか。
 今回は、そういった心理現象がなぜ起きてしまうのかという原因について、私なりの受け止め方を語っていきたいと思います。

 この疑問への解答としては、言葉そのものが私たちの想いを表すには不完全な手段だから、という説明の仕方が一般的ではないでしょうか。
 しかしその主張の前提には、まず先に言いたいことの存在があって、言葉はそれを描写するための手段でしかないという思い込みが隠れています。
 世にはびこるこの暗黙の前提こそが私にとっての人生の課題です。

 私の考えでは、言葉の持つ本来の役割は「物事の描写」なんかではありません。
 人類の歴史において言葉が果たしてきた重大な役割とは、「説得」というヒトの脳波への干渉行為。
 これまで宗教、哲学、科学など、世の中の仕組みに言及する勢力は、私たちの使う言葉の枠組みを造り出し、脳波への影響を左右することで、人間社会の在り方をデザインしてきました。

 そうした言葉による説得を円滑に進めるための仕組みとして、文明人の間ではある壮大な作り話が共有されています。
 それこそが「言葉は物事を記述するために存在している」という固定観念です。

 「言いたいことを正確には描写しきれない」などと思ってしまうのは、この「記述」という物語が疑うまでもない前提として心の奥底にまで刷り込まれてしまっているから。
 ですが言葉とは、それを発することで世の中に影響を生む物理的な装置であり、正確な描写なんてものは「説得」という言葉の働きの実態を覆い隠すためのフィクションでしかありません。
 このとき叶わなかったのは正確な描写という架空の物語の方ではなく、発言者の納得という脳内での説得効果の方だったのです。

 この物語の刷り込みはすでに大規模な成功を修めており、世の多くの人は「記述」という説得のために造られた方便を真に受けてしまっています。
 ですから、今さらそれが作り話だと指摘されてもどういう意味だか分からないという人が大半かもしれません。

 しかし、「記述」というフィクションに騙され傷付いている人にとって、こうした考察が少しでも役に立つのであれば、このブログの存在も無駄ではないかもしれません。
 これほどまでに徹底された洗脳の現状に対してどこまで対抗できるかは分かりませんが、 これからも言葉の限りを尽くして立ち向かっていきたいと思います。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html

 この似顔絵は、友人のイラストレーターが私の結婚祝いに描いてくれたもの。
 周囲の仲間からの評判は「めちゃ似てる」「目元がそのまんま」「実物より優しそう」などなどかなりの好評価。
 描かれた本人としても、こんなにそっくりに描いてもらえたのかと驚きましたし、さらに実物の私よりもにこやかで柔らかな表情に仕上げてもらえて大変満足しています。

 ここには「似てるかどうか」という写実性のみに留まらずに、この絵によって幸せをもたらそうと創意工夫する、より高い次元でのデザインへのこだわりが感じられます。
 芸術の目的は受け手の感情を揺さぶること。
 リアリティの追究なんてものは、そのための手段の一つでしかありません。
 もしこれが「似てるかどうか」だけを気にして必要以上にリアルに描かれたものだったとしたら、ここまでの満足感は得られなかっただろうと思います。

 絵画表現におけるこの「写実とデザイン」の関係は、言語表現における「記述と説得」の問題と瓜二つです。
 言葉を使用する目的も、結局は解釈者の脳内に影響を及ぼすこと、つまりは説得です。
 話している内容が「どれだけ正確な記述になっているか」なんてことは、説得のために利用される一種の方便でしかありません。
 私が問題視している文明人特有の病状とは、この言葉における「記述と説得」の優先順位を根本的に取り違えてしまっているということなんです。

 言葉とは、ヒトという動物が弱肉強食の現実を生き延びるために手にした、極めて物理的な生存手段です。
 発達したヒトの口の構造はバリエーション豊かな発音を可能にし、言語という複雑な音声信号を編み出しました。

 この音の刺激は仲間の脳内に起こる電気信号を誘導するための起爆剤として活用され、そのおかげで人類は幅広い分野でお互いの行動を制御し合えるようになります。
 これによってヒトは火や武器などの技術を共有し、集団でのそれぞれの役割を効率的に分担していくことで、他の動物たちと対等以上に渡り合えるようになりました。

 こうして食物連鎖の頂点に立った人類は、明日の食べ物に困らなくてすむような文明社会を形成していきます。
 その結果、多くのヒトは他の野生動物との生存競争から解放され、その替わりに人間社会の内部における取り分の奪い合いに専念するようになりました。
 そしてこの頃から、言葉における「記述と説得」の優先順位が勘違いされ始めます。

 これまで見てきたように、野生の現実に対抗するために組織されてきたのが人間の複雑な社会集団であり、その集団を形成するための物理的な機能こそが言葉という音の刺激です。
 つまり、私たちの社会集団を構築しているのも、支配しているのも、私たちが使ってきた言葉の影響力に他なりません。

 そんな人間社会の内部で一体のヒトが己の分け前を確保するためには、この社会を構築している「言語ゲーム」において優秀なゲーマーになる必要があります。
 そして、この「言語ゲーム」における戦いを優位に進めるための工作として、文明人たちはある壮大なフィクションを編み出します。
 それが「言葉はもともと世界を記述するためにある」という固定観念です。

 言葉の持つ本来の役割は「説得」という脳波への干渉行為。
 ですが、人間同士の取り分を争って説得工作をしているときに「お前の考え方に干渉してやる」という意図をあからさまにしてしまえば、相手に必要以上の抵抗を生んでしまい得策ではありません。
 そこで活躍するのがこの「記述」というフィクションです。

 「世の中はこうなっている」という事実を語るかのような言い方は、「あなたを説得しようとしている」という言論の実態から目を反らす有効な隠れ蓑となります。
 そして、権力者たちは「この世界は本当はどうなっているのか」という言語ゲーム内での言葉遊びに学術的な権威を与えることで、記述というフィクションの説得力を強化してきました。

 宗教、哲学、科学など、世の中の仕組みに言及する勢力はいくつもありますが、これらは世界の仕組みを解明してきたわけではありません。
 ですから「世の中はこうなっている」という記述めいた発言が現れるときには、あっさり「そうなんだ」と騙されてしまわないよう注意が必要です。
 それらの権威は、現実の世界を正確に描くために写実的な記述をしてきたのではなく、私たちの使う言葉の枠組みを造り出し、脳波への影響を左右することで人間社会の在り方をデザインしてきたのです。

 もちろんここでの私の発言も全て、言葉を使って語りかけている以上は、読者の皆さんの脳波に影響する説得行為です。
 私の人生のテーマは、「全ての言葉は自分の脳波に影響を与えようとしている」という説得の実態を世の常識に登録し、記述というフィクションに騙されたり傷付けられたりする人を減らすこと。
 今回説明しきれなかった部分についてはこれからの記事でフォローしていくつもりですので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html

 私たち人間は日々の社会生活の中で常に、膨大な言葉の荒波に巻き込まれています。
 そんな言葉の荒波を溺れずに泳いでいくために、まずは「言葉とはどんなものか」という大前提について考えてみたいと思います。
 そのヒントとして、今回はステマという題材を扱ってみましょう。

 ステマとはステルスマーケティングという用語の略で、商品を売る企業自身や企業から依頼を受けた協力者などが、利害関係のない一般消費者のふりをして印象操作を行う宣伝方法のことを言います。
 具体的には、新商品発売の為に長蛇の列を作る、ブログやSNSで商品をとりあげる、掲示板などでライバル商品の批判をする、ネット通販のレビューやグルメサイトなどで好評価の投稿をする、などの行為が挙げられます。

 インターネット上ではこのステマという言葉が元々の意味を離れて独り歩きしており、疑いさえかかれば何だろうが「ステマだ」と非難されてしまうという、まるで魔女狩りのような空気が蔓延しています。
 何故こうした乱暴なレッテル貼りが流行ってしまうのか。
 ここには他人にばかり正直さや公正さを要求し過ぎてしまう、独り善がりな潔癖症の兆候が見え隠れしています。

 確かに、他人からこそこそと印象操作を仕掛けられているように感じたなら、それを察知したつもりの当人は決して良い気がしないでしょう。
 ですが、「疑わしきは罰せよ」の勢いで他人に影響しうる言動の全てに「ステマだ」と×を付けていったら、一体どんな言動が妥当なものとして残されるのでしょうか。
 ステマという魔女狩りアイテムを濫用しているクレーマーの言い分をいちいちまともに聞いていたら、×印の付かない言動なんてどこにもなくなってしまいます。

 具体的に、美味しい食べ物の情報をインターネット上に投稿するという場面を考えてみましょう。
 仮に私が、お気に入りの定食屋さんの大好物を「すごく美味しい」と写真付きで書き込んだとします。
 その投稿を見知らぬ人が見た場合、受け取り方としては以下の3パターンくらいが大まかに考えられるでしょう。
「ただ単にすごく美味しいと思っているから、その個人的な感想を素直に表現しただけ」
「すごく美味しいから人にも薦めたいと思い、見ている人にも伝わるように自主的にPRした」
「お店側からサクラをお願いされた人が、ビジネスと割り切って美味しいとコメントした」
 この3つのパターンを、発信者は嘘の評価をしているか、発信者は印象を操作しようとしているか、その投稿は印象操作に繋がるか、という3つの視点で分類してみたいと思います。

 まずは「お店側からサクラをお願いされた人が、ビジネスと割り切って美味しいとコメントした」というケースについて。
 これは最初に述べたステルスマーケティングとしてモロに該当する例であり、発信者には「正直でない」「印象を操作しようとしている」「印象操作に繋がる行為だ」という3つの×が付くことになります。

 次に「ただ単にすごく美味しいと思っているから、その個人的な感想を素直に表現しただけ」というケースを考えてみましょう。
 これは「味について正直に語っている」「印象を操作するつもりなんてない」という点において、ステマと呼ばれる謂われのない潔白な立場のはずです。

 ですが、こうした自然な感想こそが口コミとして効果を発揮する訳で、ステマ自体もこのような口コミの効果を狙った戦略。
 ですからこうした潔白な行為すら、「印象操作に繋がる行為だ」としてステマの烙印を押されてしまう可能性があります。
 つまり、発信者にステマのつもりがあろうがなかろうが、インターネット上に発言をした時点で「ステマだ」と難癖を付けられかねない立場に陥ってしまうというわけです。

 そして最後に「すごく美味しいから人にも薦めたいと思い、見ている人にも伝わるように自主的にPRした」という場合の話をしましょう。
 このケースも他の2つの場合と同じように「印象操作に繋がる」としてステマ認定され兼ねない行為ですが、「味について正直に語っている」という点で詐欺には当たらないはずです。

 しかし、この場合は自分の発言が誰かに影響することを明確に意識しているという点で、ステマを裁きたがる人々にとってはグレーの度合いの濃いものと見なされます。
 魔女狩りたちにとってみれば、オススメしたいという意志がある時点で、もはや純粋無垢な口コミとは呼べないシロモノなのかも知れません。

 ここで問題にしたいのは、人にオススメすることを意図した口コミと意図しなかった口コミとの差についてです。
 そもそも口コミに、発言の影響を考慮しない無垢さなんてものは必要なのでしょうか。
 ステマの問題はあくまでも騙しの部分であって、「影響を与えること」自体ではないはずです。
 
 言葉とは、それ自身が大きな影響力を持つもの。
 発言者自身が聴き手への効果を意識していようがしていまいが、一度発言がなされてしまった以上はその波及効果がどこかに必ず生まれます。

 たとえ表向きに何の変化もなかったように見えたとしても、少なくともその発言を受け取った聴き手の脳内には、その言葉が電気信号として物理的に刻まれてしまっています。
 その電気信号が聴き手の人格に今後どのような影響を及ぼすかなんて、発言の段階で予測しきれるものではないでしょう。

 言葉を発する時点でその発言の影響は必ずどこかに現れてしまうのだから、言葉の影響それ自体を敵視するのはむしろナンセンス。
 私たち人間は、常日頃から互いに印象操作し合っている生き物なのですから。

 むやみにステマと言いたがる人々は「潔白に真実のみを語る言葉」というファンタジーに過大な期待を抱くあまり、人に影響を及ぼさない無垢な言動というのがそもそも存在しうるのかという反省を自分自身に向けられていないようです。
 そこで次回は、この「真実を語る」という壮大な作り話の成り立ちについて分析を加えていきたいと思います。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html
 「間違ってもいいから思いっきり」と題したこのブログのテーマは、人生をのびのびと楽しむこと。
 人々がのほほんと気楽に生きられなくなってしまう原因は何なのか。
 この世間の荒波の中で、私自身はどのように折り合いを付けて生きているのか。
 私の尊敬する方々は、この世界をどのように渡り歩いているのか。
 そんな題材を取り上げながら、週に2回ほど記事を更新していくつもりです。

 もしかしたらここまで読んだ時点で、何だか胡散臭いと思われた方もいらっしゃるでしょう。
 私も自分で書きながら、よくある自己啓発やセミナービジネスの常套句みたいで気持ち悪いなと感じていましたから。

 仮にこの先に「さあ皆さんの本当の夢を実現しましょう」といった類いの煽り文句が続いていたら、私だってすぐに読むのを止めてしまいます。
 ですが、今後このブログでそういった「読者の皆さんを金銭に結びつけるための常套句」は登場しませんのでどうかご安心を。

 ここで取り扱っていくのは、そのほとんどが言葉の問題になります。
 ブログの紹介文でもそういった主旨を述べていますので、良かったらご一読ください。

私たち人間は、
言葉で物事を考えている限り、
あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。

当ブログでは、
万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、
言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

 たとえば、先ほど触れたややこしいビジネスの問題も、こうした言葉の荒波の一つ。
 成功哲学とやらを謳うビジネス書やセミナーはまず、人々に夢のような生活への憧れを抱かせることからその洗脳をゆるやかにスタートさせます。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11864744405.html
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11866547864.html
 夢を叶えるためには自己投資が必要と刷り込み、用意しておいた「願望実現のための学びの道筋」に誘導することで、人々の財布から継続的に書籍代やセミナー受講料を引き出していきます。

 その道筋で実際に願望を実現できた人がどれだけいるか、という検証は大して問題になりません。
 彼らにとって一番大事なのは、その物語によって浮かれた気分になれること。
 願望実現の方法を布教する人々にとってもっとも手堅い願望実現の手段とは、夢を見させることで他人をキャッシュディスペンサーに変えるという詐欺まがいの錬金術の方なのです。

 このような錬金術を可能にしているのは、毒のように人の心に染み渡る言葉の影響力。
 こうした言葉の毒への耐性が低ければ、のほほんと平穏無事に暮らしている人のささやかな幸せも、誰かの言葉で容易く打ち砕かれてしまうかもしれません。

 私がこのブログを通じて発信したいのは、言葉の持つこうした毒性を自覚した上で、その猛毒と上手く折り合いを付けながら生きていくという極めて現実的な知恵です。
 そのため、夢のような浮かれた話はほとんど提供できませんが、それでもこの現実を「のびのびと楽しく生きるため」に言葉を紡いでいきたいと思います。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html
   
 初めまして、私は和太鼓研究家のMr.バチコーンと申します。
 初心者から気楽に和太鼓が始められる「バチコーン道場」という体験会を毎年福岡で開催しており、「間違ってもいいから思いっきり」をモットーに和太鼓の楽しみをお伝えしています。

 この「間違ってもいいから思いっきり」という心意気は、私の和太鼓の師匠である歌舞劇団「田楽座」の方々からいただいたアドバイスを受け継いだもの。
 そんなわけで、私の主催するバチコーン道場では「間違えることを恐れて縮こまる」といった場面が現れないよう、何よりも思いきりのよさを重視した指導を行っています。

 ですが、日本ではそういったエモーション優先の習い事はなかなか見当たらないように感じます。
 和太鼓の世界でもその傾向は強く、心から楽しんで演奏しているようなチームには滅多にお目にかかれません。
 一見して笑顔で元気良く演奏しているように見えるチームであっても、チームの方針として「そう魅せなければならない」から演じているという場合がほとんど。
 このような数々の「ねばならない」に縛られているせいで、巷には肩肘張った不自由な演奏が溢れ返っています。
 
 これには、求められる答えを素早く導ける人が優秀とみなされる、社会や学校や家庭での刷り込みが深刻に影響しています。
 子どもの頃からこうした評価の圧力にさらされてきた人々は、それぞれの場における出来不出来によって己の人格が査定されているように感じ、そのたびに自尊心を傷付けられてきたのです。

 バチコーン道場は、そうした悪習をできるだけ低減したいという想いから生まれた場所です。
 そもそも、世のほとんどの人にとって、太鼓なんて人生を彩るための手段の一つでしかありません。
 せっかくの楽しみの時間に、「こうあらねばならない」などと神経質に思い詰めるなんて本末転倒。
 大事なのは、自分の人生を思いっきり楽しむことではないでしょうか。

 ですからバチコーン道場では、「和太鼓を使っていかに気持ちよくなるか」という参加者自身の満足感こそを最優先の目標としています。
 演奏とは、みんなで造り上げる飛びきり楽しい遊び。 
 そこに参加するのが楽しいからゲームのルールとして曲を覚えるだけであって、別に誰かに評価してもらうためにやっているわけではありません。
 私が和太鼓を通じて発信したいのは、伝統の重さやパフォーマンスの優秀さなどではなく、人生を楽しむマインドの方なのです。

 「間違ってないか」を気にして生きるという文明人特有の病状とどのように向き合っていくか。
 実はこれこそが私にとっての長年の研究テーマであり、バチコーン道場はそれに対する自分なりの解答例でもあります。
 そしてこのブログでは、和太鼓だけにこだわらず言論の場面一般の話題を取り上げていきたいと考えています。

 人生をのびのびと思いっきり楽しんでいくには、「間違ってないか」を始めとする「○か×か」という思考パターンから距離をおくこと。
 そんな和太鼓での学びをもっと広く活かしていけたらと思い、この言論の場を「間違ってもいいから思いっきり」と名付けました。
 長文だらけのブログになるとは思いますが、これからの連載に興味を持っていただけたら幸いです。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11794366372.html
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。
http://ameblo.jp/futaproject/entry-11889337956.html