アラン著 中村雄二郎訳 「哲学概論」 白水社

 

第七部 儀式

第7章 演 劇

 

 

 

芝居はミサのようなもので、その効力を充分感じるためにはしばしば通わなければならない。

 

立派な観客になるには、立派な俳優になるくらいの時間がかかる。

 

楽しみながら泣くことを学ばなければならないからだ。

 

どの演劇も態度や動作は、俳優ばかりでなく観客にとっても

 

実際上規定されている礼儀だとか服装だとかについて講義をしているわけだ。

 

美について講義しているとさえ言いたい。

 

これは誰にとってもなかなかためになる。

 

したがって世間全体が芝居をしていることになる。

 

そこにあるのは真実の感情であり、人々の間で受け渡しされている間に

 

整えられ、抑制され、遂には心地よいものとなる。

 

美しい型というのは自然のままにほっておけば、

 

ほんのちょっとした不安から苦痛を作り出す情動の激しさから

 

人間を解放するものだからだ。

 

我々を喜ばせるものは解放感なのだ。

 

苦悩とは最悪の病気であり、

 

知恵を欠いた人間はそれとは気がつかずにこれをもっているものだ。

 

彼らは苦悩のどん底に無い場合でさえ至るところに不機嫌であり、

 

何よりも生き生きとした感動を恐れている。

 

なぜならそれはたちまち情念と化するからである。

 

演劇というものはこういう不幸な者達に状態を一変させる感動を与える。

 

この感動はまもなく収まるが、彼らに一瞬の自由を与え、

 

次々に展開される場面がこの自由を絶えず若返らせる。

 

演劇と読書との相違がここにある。

 

読書では途中で立ち止まることもできるが、

 

演劇は自分のテンポで進行する音楽のようなものだ。

 

感動から感動へ、解放から解放へと導くところにある。

 

喜劇は笑いを用いて情念の矯正をする。

 

激怒だの苦悩だの心配だのはどんなもの笑いで治る。

 

演劇の規定された

 

態度、動作、礼儀、服装は世間全体が芝居をしているということを

 

講義してくれている。

 

「笑い」は激怒・苦悩・心配といった「情念」を矯正してくれるもの。

 

笑や心を喜ばせるものは「解放感」なのである。

 

「人間の解放感」を教えてくれるのに演劇は人間社会の教師である。

 

 

(2024.02.04知多さかな広場)