悲しみがあまりにも大きいときには、思考を拒否するのが賢明である。

 

宗教はそのことをわきまえている。

宗教は不幸な者を、頭を両手にもたせてひざまずかせ、光の散らばる教会堂のなかで祈らせる。

 

その屈曲した姿勢が身体の器官をときほぐし、筋肉の謀叛を絶つのである。

「騒慢なシカンプル人よ、頭を垂れよ。」怒りと騎りを癒やせと言っているのではない、、、、

 

口をとじ、目をやすめ、楽な姿勢をとれと言っているのである。

 

そうしてのちに、心中の言葉の危険なからくりを止める儀式の言葉を発せよ、と。

 

この魔法は想像力の狂暴な状態を阻止する身を掻きむしればいらだちはつづく。

ところが感情家はかれの傷口に触れたいという欲求に、つまり刺戦し、汚染させたいという欲求に抗しきれない。

 

「私は臆病なのだ」とかれは言うのである。

 

アンドレモーロラ著「アラン」(P63みすず書房)

 

 

どんなときにも

 

少なからず毎日の中で「悲しみ」つまり怒りや恐怖。慄きが体中を回っていると思う。

 

そしてそれはいつも家族の中であったり、仕事中であったり、

 

たとえば患者とお話ししている時に

 

感情が前に出てくるものだ。

 

人間・・・

 

お互いに尊敬することの困難さ。

 

お互いに敬愛することの困難さ。

 

36度を超える真夏の太陽の下でも

 

この困難さは溶けることを知らない。