おはようございます…。
寝て起きてを繰り返すので日記でも書いてみました。

みなさん、無事ですか?

この先、いったいどうなるのか。
地学のことも地震のことも全く分からないのだけど、気になる。
気になって眠れません…。

特に、近畿~中部を中心とする「東海地震」を誘発する可能性の有無について。

…結論から言えば、近畿に影響してくる可能性が非常に高いということらしい。

その説明についても、素人ながら納得する根拠がある。

昨日発生した、「東北地方太平洋沖地震」は「太平洋プレート」と「オホーツクプレート」で起こったプレート境界地震と分析されている。

一方、今後の発生が気になる「東海地震」は「フィリピン海プレート」と「ユーラシアプレート」の地震だと考えられている。

当初の気象庁の発表は、「宮城沖の地震と東海地震は異なるプレートに起因する地震だから、東海地震を誘発する影響は少ない」というもの。

ただし、「断層の把握ができてない」という条件のついた何とも不確かな説明。

そんな中、さっき長野でも震度6の地震が起こったらしい。
ニュースによれば、これは昨日の東北地方太平洋沖地震とは別のものだと言っている。

ニュースに出ている先生によれば、さっきの長野で起こった地震は新潟中越地震と類似しているらしい。

新潟中越地震は「ユーラシアプレート」で起こった逆断層地震。
「太平洋プレート」と「オホーツクプレート」で起こった昨日の東北地方太平洋沖地震とは確かに異なっている。

だが、プレートが異なっているのに、テレビに出ている先生は「東北地方太平洋沖地震と、さっき長野で起こった地震は関係ある」とも言っている。

気象庁は「プレートが違うから東海地震は起こらないよ」と言ってたのに。。
テレビの先生はプレートが違えど影響してくると言ってる。

どっちが正しいのか地学の知識がないので分からないが、現に長野県では昨日の地震とは違うプレートに起因する地震が発生している。
すなわち、後者(テレビの先生)の意見の方が納得できると思う。

今回の大地震を受けて、Yahooのニュースでは次のような記事が上がっている。

東日本のプレート境界で空前規模の地震エネルギーが解放された後、必然的に目を向けざるを得ないのは、これも膨大な地震エネルギーを溜め続けてきた、西日本地域の太平洋沿岸に延びるプレート境界地震だ。宮城県沖、茨城県沖と、震源が南下しながら連動発生した巨大地震の次に来るもの、それはやはり、「首都圏直下」「房総半島南沖」「東海・東南海・南海トラフ」、これらを震源とした巨大地震の大破局しか考えられない。

という記事だ。
「プレート」は繋がっているから、それぞれ誘発する恐れがある。
よく考えてみれば当たり前である。

しかも、驚いたことに、宮城を震源とする昨日の「東北地方太平洋沖地震」は先日の「ニュージーランド地震」と相関関係があるらしい。

「プレートの南端に位置するニュージーランド」で発生した地震の反動が、「プレートの北端に位置する東北沖」での地震に繋がったという理屈らしい。
ニュージーランド地震で太平洋プレート南部の圧力が解放された結果、バランスをとるために北部のプレート境界で地殻が大規模に割れたのだと。
それが今回、起きるべくして起きた「東北地方太平洋沖地震」の正体であると記事では分析されている。

そして、ニュースの最後はこう締められている。
「もう手遅れかもしれないが、覚悟を決め、出来る限りの備えを整えてカウントダウンを待つしかなさそうだ……。」

普通、このような文章をニュース記事にするだろうか…。
「間違いなく起こる」と断言しているようにも解釈できる。

これが本当なら、近日中(少なくとも数週間、数か月中?)に東海地震が発生する可能性が高い。
発生すれば、近畿圏は「震度5強~震度6以上」と言われている。

要約すると、こわいです。
3月11日、東北地方で地震が発生した。M8.8という聞いたこともない大地震。
被災された方にはお見舞い申し上げます。

九州では火山が噴火し、東北では地震…
次は関西地方に何か災害が来るんじゃないかと思ってしまいます。

現実として、東海・東南海地震が来ると言われている。
しかも、近いうちに必ず起こる。

うちのキャンパスは和歌山にあるが、東海・東南海地震が発生することを前提として、震度7強までは耐えられる構造になっているらしい。

地震のような自然災害が起こるたびに、人間の無力さを思い知る。
人間は科学技術を発達させ、人間のみを絶対とするヒューマニズムを抱き、自然を支配下に置けると思っている。

そんなわけもないのに…。
今回の地震によって多くの人は己の無力さを感じるだろうが、1か月程度で忘れるだろう。
そして、再び災害に会うまでは忘れたままでいるだろう。

いかに我々が地球に依存しているか、生かされているか。
自然に挑戦すれば必ず敗北する。
それは紀元前、メソポタミア文明からずっと続いていること。
それぞれが自然の偉大さと己の無力さを自覚することも大切だと思います。

謙虚に生きること。すると、生活習慣も変わるのではないだろうか。
災害の善後策を立てるのではないだろうか。
引越しの整理をしている時に、1冊のノートが出てきた。

久先生の「理科教育法」という授業のノート。
教職課程の授業なのだけど、この授業が大学生活の中で1番心に残っている。

ノートの中には、生命科学や物理科学について、また、その問題点について。
その他、科学史や哲学思想について先生の解釈がぎっしりと書かれている。

その中に、「科学」と「理科」の違いを書いているページがある。

先生は以下のように述べる。

科学と理科は全く異なるものだ。
科学は自然科学を解明する。
理科は生命の尊さを紐解く。
理科教育とは、科学の教育ではない。
自然の尊さ、生命の尊さ、そして自然の威厳を身をもって教えることだ。

そして、先生は次のように続ける。

医者は「病」を扱っているのではなく、「病人」を扱っているのだ。
生命科学者、生物学者は「生物」を扱っているのではなく、「生命」を扱っているのだ。

自然への「畏敬の念」を忘れた科学者が、自らの科学で地球を、自然を滅ぼしてゆく。
というのが先生の言葉。

今、ノートを読み返してみても、なかなか難しい箇所が多いけど、自分の生命倫理観は、まさしくこの授業から来ていたのだと思います。

久先生には、生命倫理の研究会の発足にもご尽力いただき、本当にお世話になった。
卒業前に連絡をいれなければと思いました。

久先生は、少し早めに授業を終わることで知られていましたが、それについて次のように話されていました。

最初から最後まで喋り続ける先生の授業は、教育効果なし。
終わりギリギリまで授業をする先生はマイナス。
終了のベルがなっても授業をする先生は最低。