彼らが手にした「運のよさ」~そしてそれは、私の仕事
 
去年の私の仕事は、彼らの教室の横の部屋で一日中待機し、算数の少人数授業を受け持ち、休み時間や彼らが空いた時間には、個人的に学習を見る。(算数や国語関係を~。)
 
つまり、彼らが属する学年にべったり張り付き、学力を上げていくというものでした。
 
どこの学校でも、私のような役割を持つ人がいるわけではありません。
 
彼らは課題が大きかったので私のような存在が配置されたのですが、反対から言えば彼らは運がよかったとも言えます。
 
「分からない。教えて!」と彼らが少しでも望むなら、一日中相手にしてもらえる・・・というものですから。

但し、彼らが持つその運は、昨年の4月から今年の3月までという、限りのあるものでした。
 
 
「手にした運」をうまく使い自分を成長へと押し上げていった子どもたちと、そうでない子どもたち
 
主体的に学習しようという意識がとても弱かったAグループの子どもたち(※Bグループは別)。
 
4月5月は、だれ一人発言しようとせず、わたしが一人でしゃべるという、それまで私が経験したことがない授業の様子でした。
 
それでも、「手にした運」をうまく使い、自分を成長へと押し上げていった子ども達が8人。
 
一応、ある程度の成長はしたものの、資質的なことで中途半端的なところがあり、新学年ではどうだろうと不安が残る子どもたちが10人・・・という結果でした。
 
 
何が、分かれ目だったのか?・・・・と、自問自答する春休み
 
その分かれ目は、「彼らが心の底から学習ができるようになりたいと、本気で望んでいるか否か?」だったように思います。
 
口では、だれもが「問題を見たら、すらすらと解けるようになりたい。」と言いました。

そしてだれもが、ある程度、問題を解けるようになりました。

でも、そのことに対する受け止め方がそれぞれだったのではないかと推測しています。
 
「自分が一問解けた時、そのことで大きな満足感を味わうことができたか否か?」です。
 
つまり、「解けた!」という結果だけでは、次へ新たに挑戦するエネルギーが湧きません。

でも、小さな一問の解決に、大きな満足感を味わうことができたのならば、「その湧き上がる自分の感情」は強いはず。
 
学習でも、いつもいつも、良い事ばかりではありません。

難しくて太刀打ちできそうにない問題にぶち当たった時でも、いじけずくさらず、努力を続けることができるか・・・ということです。
 
 

「何のために、学習するのか?」という問いを、とことん考えさせていく必要があったなと、思いました。

わたしに残った、大きな課題です。