予定通りの時間にブダペストを出発した寝台列車はスムーズに進んでいるように感じた。
ブダペストを出るとすぐにハンガリーの田舎で出たようで、街明かりはほとんど見えない田舎の夜の線路をグングン進んでいった。
列車に乗ったのは晩飯も食べた後だったから、特にすることもなく、また列車のコンパートメントが思ったより綺麗だったこともあり、直ぐに眠りについた。
その後毎回訪れることなのだが、夜中にハンガリー、ルーマニア国境にてパスポートコントロールのため起こされた。確かこの時は係員のような人が回ってきてパスポートにスタンプを押していったように記憶している。
そのまままた眠りについて早朝予定通りの時刻にブカレストに到着した。
早朝のブカレストは社会主義の雰囲気はより一層濃くなって、ブダペストで初めてのヨーロッパで驚いていたのが、初めての社会主義の雰囲気にまた圧倒された。
駅についてバックパックを担ぎながらどこへ行ったものかとフラフラしていると、タクシーの運転手という荒くれ者がたくさん声をかけてきた。まずは宿探しでタクシーには乗らないと言っているのに強引に僕のバックを持つと言って奪ってしまった。
確かにタクシー乗り場まで持って行ってくれたのだが、流石にこいつのタクシーに乗るのはまずいと直感が働き、タクシーには乗らないから自分でホテルを探すと主張した。
すると件の荒くれものはそれじゃあ1000円よこせとのたまわった。この国の物価で荷物を多少持っただけで1000円よこせとはとんでもない主張だが、夜行列車で到着したばかりであった疲れと、社会主義の街独特と陰鬱の雰囲気で、ここで彼と戦う勇気は僕には沸いてこなかった。しぶしぶ1000円を取られて、これは後世まで自分の不甲斐なさを嘆くことになるのだが、彼奴をまいて自力でホテル探しに移った。
ブカレストの町並み
地球の歩き方、ないしはLonely Planetを回るだろう全部の国の分を持っていたので、ブカレスト駅近くのホテルを探すのはわけなかった。
クオリティの割りにはちょっと高い印象の3000円くらいのホテルにチェックインを済ませ、一息つくことに。ここでブカレストに来たもう一つの目的を思い出した。
大学院時代、ふとどきものと思われるかもしれないが、俄かに入った奨学金で、英語の勉強と称して外人パブなるものに何回か行った。
一般的に外人パブというとフィリピンパブを思い浮かべるのだが、当時の卒業旅行前の外国への憧れというのと相まって、ルーマニアパブというのに行っていたのだ。
ルーマニアパブというのは聞きなれない言葉かもしれないが、当時はフィリピンパブの次はルーマニアパブというのが普及しており、第2の勢力だった。なぜだか不思議に思ったのもあり、その秘密を探るべく何度か江戸川区あたりのお店へ何度か足を向けた。
初めて訪れた時、やはり可愛い子がいいだろうということで、入り口にあった写真をみてナディアという娘を指名した。
紳士諸君はお気づきのことと思うが、初入店で会う前から指名するというのは愚の骨頂で、本物がどういう人かも分からず、写真がホントかも疑わしいところで素人の僕は、指名しないと変なこが来るのでは、というシステムも良く分かっていないことをしでかしたのだ。
席に着くと、やはり初めての外パブの雰囲気に圧倒される中、ナディアが来た。
ナディアは当時大学院生の僕より2,3歳年上だったが見た目はもっと年上ような気がした。写真の通り美人ではあったのだが、お姉さん臭の消せないマダムだった。
ナディアは見た目もそこそこだったが、優しい女性で、僕は大きな不満はなかった。(店内にもっと美人で若い娘がたくさん他にいたのは不満だったが)
店には数週間に一辺という頻度で訪れ、ドリンクも奢らずあまり優良顧客ではなかったが、ナディアは毎日電話をくれた。多分お客に電話をするノルマみたいなのがあるのかなぁと思いながら、それでいて店に来ることを要求するような言葉を一切言わず。元気か?何してる?私は何食べた、みたいなたわいもない話を日々続けた。1日の電話はホントに数分程度だったが、異国の地に暮らす彼女の寂しさを紛らわすことが出来ているんじゃないか、というような自意識も芽生え、彼女との交流は居心地の良いものだった。
そんなナディアとの交流が半年ほど続いたろうか、卒業旅行に出発する2ヶ月ほど前の年末に、突然終わりを迎えた。
その日の電話はいつもと違い、悲しい声色で、且つ大きな衝撃を伴った電話だった。
彼女の話によると、入管(入国管理官)の査察が入り、どういうわけか急遽帰国せねばならない、ということだった。帰国は明日(とか明後日とかそれくらい近々)だった。
一瞬何かに騙されたのかなとも思ったが、店の売り上げにも大して貢献していなかったし、その日に店に電話すると確かにナディア含めた数名が緊急帰国になったとのことだった。
彼女はルーマニアの自宅の電話番号を教えてくれて(当時はE-mailを持っていない人もいた)、いつでも連絡するようにと伝えてくれた。また彼女はインターネットアクセスを持っていなかったが私のE-mailを伝えた。
私はブカレストに着いてナディアに連絡するつもりだった。強制帰国から2ヶ月強経って、それ以降連絡を取っていなかったが、ブカレストに住むという彼女にブカレストから連絡することで何らか出会う手段があるのではないかと思いを馳せたのである。もちろん卒業旅行をヨーロッパの東から出発したのはこのことももちろん念頭にあった。いや、そのために出発地をイスタンブールにしなかったのかもしれない。
いったんチェックインしたホテルを出て、ナディアに電話するために公衆電話を探した。
