高木文平 ~電気鉄道の前と後~ | 電気鉄道のルーツ 伏見チンチン電車の会

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明治28年に京都-伏見間で開通した日本初の電車について

3月11日は2011年に震災が起こった日ですが、日本初の電気鉄道に関する大事な日でもあります。今から177年前の天保14(1843)年3月11日、京都府北桑田郡神吉村(現在の南丹市八木町神吉)で誕生したのが、高木文平でした。当時は旧暦ですから、現在の暦では約1か月後になりますが。

 



 

高木文平は言うまでもなく、京都電気鉄道を設立し、初代社長を務めた人物。しかし、彼の人生は電車だけではありませんでした。琵琶湖疏水工事には初期から関係し、田辺朔郎とともにアメリカから水力発電技術を持ち帰り、蹴上発電所や宇治川発電所の建設に尽力して「電気王」と称されました。

さらに、さまざまな先進思想、先進技術をもたらし、京都の近代化に大きな貢献をしています。

高木家は神吉村の庄屋で、祖父の代からは旗本武田兵庫の代官を務めていました。文平は25歳で家督を継いで間もなく、維新の混乱を迎えます。神吉村に進軍してきた官軍に冷静に対応し、江戸にあった武田家を説得して官軍に従わせました。

維新後、村に小学校設立を画策しますが、なかなか賛同を得られぬ中、明治2(1869)年に私塾「文平私学」を開校して無料で授業を行いました。その後、土地・建物・教職員・教具のすべてが地域に寄贈され、後に神吉小学校となる及時館がつくられました。また同じころ、私費を投じて貯水池を築き、水路を引いて地域の農業に寄与しました。

明治8(1875)年、京都府知事槇村正直に招かれて京都に出ます。府庁で働く中、明治10(1877)年にはフランスで開催された大博覧会に私費で人を送り、京都の産品を出品しました。明治13(1880)年、府の職を辞して京都名産会社を設立し、ビールなどを製造販売しましたが、程なく倒産。明治15(1882)年には、京都商工会議所を創設して初代会長になりました。

その後、文平は琵琶湖疏水に関わります。明治21(1888)年に田辺とともに渡米し、帰国後に京都電気鉄道会社を設立するのですが、実は帰国後にもう1つの事業を立ち上げています。それが消火器です。彼は、硫酸と重曹の反応によって発生する二酸化炭素で消火するという当時としては画期的な「二重瓶消火器」を発明し、明治25(1892)年に高木消火器店を設立しました。それは、京都の神社仏閣を火災から守りたい気持ちからだったといいます。後に、同郷の初田利兵衛が技術・権利の一切を譲り受けて設立したのが初田製作所で、現在も消火器メーカーとして存続しています。

京都電気鉄道開業後、明治39(1906)年には宇治川水力電気会社を設立。しかし、宇治川発電所の完成を見ることなく、明治43(1910)年9月27日に文平は他界しました。

盟友であった大沢善助は高木文平について、「頗る奇談奇行に富む一種の名物男であつた」と語り、いくつかのエピソードを伝えています(『回顧七十五年』)。

参考文献

『わが国水力発電・電気鉄道のルーツ あなたはデブロー氏を知っていますか』(高木誠、2000)
『琵琶湖疏水の100年 資料編』(京都市水道局、1990)

『図説 丹波八木の歴史 第4巻 近代・現代編』(八木町史編集委員会、2013)
『京都商工会議所史』(京都府商工経済会、1944)

『京都府下人物誌 第壱篇』(1891)国立国会図書館デジタルコレクション

『回顧七十五年』(大沢善助、1929)国立国会図書館デジタルコレクション
初田製作所ホームページ