いやなことはいっぱいあったが、ブログには書かない。未だに夢に見るのには驚く。

でも、もう忘れた。忘れる技術も少しできたと思う。

 

いやなこともあったが、楽しいこともあった。楽しいことを数えるほうがいい。

 

唐突だけど、落語家の笑福亭仁鶴さんが亡くなった。あんなに上方的な人はいなかった。学生時代、難波だったか梅田だったか、花月で何度か落語を聞いた。伸びやかで艶やかな声、抑制のきいた表情、品のある話しぶり。当時はラジオでも人気者だった。唐突だけど仁鶴さんはいい思い出だ。

 

また唐突に、恩師のことを話そうと思う。友達の少ない私は、でも、いい先生に巡り合ったと思う。小学校も中学校も高校も、国語の先生にやさしくしてもらった。

 

中でも、高校の国語のO先生は、仁鶴さんそっくりの彫りの深い顔立ちで、やさしい笑みを絶やさなかった。高校1年の担任で、当時、神経病の真っ最中、極端におとなしい私をそれとなく気遣ってくださった。

 

心を病んでいたからまるっきり勉強ができなかった。当然大学受験は失敗した。

 

浪人時代に大阪梅田駅地下の名店街(今も在るだろうか)で少しアルバイトをした。たまたま、O先生が店の前を通られた。とても恥ずかしかった。でも先生は、私を見つけてやさしく話しかけてくださった。

 

それから、何とか、大学に入って、4年間、また神経病を再発し、勉強せずに、ひきこもったり、あっちにふらふら放浪したりだったから就職もできなかった。

 

そのとき、O先生に就職の口を斡旋していただいた。先生は高校教師としては後になって知ったことだけれどずいぶん名前の通った人らしく、参考書の執筆をされていたようで、大阪の教育出版社の試験を受けるように勧めてもらった。ここでも大失敗で、ろくに勉強してないものだから、散々な成績で先生にご迷惑をかけた。

 

そういうわけでO先生には迷惑の掛け通しだ。その後、遅くなってから、愛知県の養護学校(特別支援学校)の教員に採用されて、幸運にも無事定年退職できた。

 

退職後、確か2年経って、高校の校友会だよりに、O先生のお元気な姿を発見して、感謝の念がふつふつと沸き、お手紙を差し上げた。私が教員生活を終え、(たぶん私が教師になっていたとはご存じないはず)、今は江戸時代の文学、ことに良寛禅師の和歌を勉強しているということをお伝えしたら、とても喜んでくださり、先生が関係している和歌の本(法楽連歌)を送ってくださった。とても難解で私には手に負えない。O先生はこの時、ある女子大学の名誉教授であった。

 

それから、10年ほどたったこのごろ、先生のご本を繙いてみたら、少し理解できるように思えた。先生のことを思いながら、数ページずつ熟読している。それが楽しい。

先生の和歌がたくさんあって、それを読むたび、先生の授業を思い出している。

 

生きていればいいことはたくさんある。いやなことを覆い隠すぐらいいいことがある。人生80年か、もう少し生きてみよう。

 

大阪に帰りたいけど、全然帰れない。仁鶴さんのいた難波、心斎橋を歩きたい。星田にある墓参りもしたい。

 

いつ帰れるだろうか。

 

真宮遺跡。

愛知岡崎にある縄文時代、弥生の遺跡。静岡まで行かなくとも

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