※フェースブックに、9年前〈2016〉の今日投稿した。

 

【鹿児島における学問の発達】

幕末に越前藩から熊本藩へ招かれた横井小楠を評して、大久保利通は「論の人であって行う人ではない」と言ったところ、西郷も大いにうなずいた・・という話を聞いた。

鹿児島では「議をなすな」といわれ、これは議論をせずに先輩に従え・・の意味で世間の知恵として語られることが多い。

そういう風潮が、既成の権力への批判をしない風土を生んできたと思われます。

 

その背景には、「軍事国家薩摩」があると思われます。江戸期の薩摩藩の武士数は人口比25%で全国平均の5%を大きく上回っていた。もちろん「郷士」といって半農半武士の数が多かったのですが。江戸時代を通して、薩摩藩では本格的な一揆はなかったといわれます。それは、この重い「武士比率」、現在で言えば高い「公務員比率」にあったともいえる。

 

本書「島津重豪と薩摩の学問と文化」(2015。コメント欄にリンク)は、専門的な本ですが、その中に重豪の時代に薩摩の学問的な交流について触れている。(写真1)

 

 

永山修一p89-102(冒頭部分は、写真2)

その結論部門を読むと、全国的に見て、この時代薩摩は言うべき学者を生んでおらず、優れた地域への学びも少なかったという。

重豪の関心は、あくまでも技術面だった。

これが、斉彬の科学技術への関心を生み、「論」(儒学など)を嫌う風潮となった。

 

【薩南学派】

私の関心は、15世紀から17世紀にかけた「薩南学派」といわれる巨人が薩摩にいたのに、どうして一転学問的な衰退というか実利優先の風土になったのか?ということです。

 

薩南学派の祖というべき桂庵玄樹1427-1508 については、没後500年を記念してその業績がまとめられた。

その弟子である南浦文之1555-1620 については、伝わるものは少ない。

さらに、文之の弟子であった泊如竹1570-1647についてももっと知られて良い。