※フェースブック 2014.3.31 (10年前の今日)に投稿していた。

 

昨日、タイムラインで池田誠一さんの沖縄に関する記事を読みました。

去年の本土復帰40周年で取材されて以降の沖縄だとのこと。県民所得的には低いけれども生活感覚からいって幸福度が高いという印象が書かれてあった。(写真は、池田さん。那覇空港にて)

 

【琉球処分と米軍基地】

私の沖縄観は、昭和20年の沖縄戦と圧倒的な存在である米軍基地が支配しています。沖縄線との関係で、鹿児島から飛び立った特攻隊がある。

1609年の琉球処分から400年ということで、最近、島津氏による沖縄支配の意義が論じられた。島津藩の江戸時代における近代化、そして明治維新を準備した資金源は、奄美の砂糖と沖縄を経由した中国との交易の利益によって蓄積された富であった。

 

【沖縄復帰】

1970年ごろ、私はたまたま厚生省(当時。今の厚生労働省の前身)に入って5年経って官房総務課審査係にいた。係員が4人いて、2人はいわゆるキャリアで、省内の法令審査を担当していて優秀なスタッフを集めていた。

のちに事務次官となった辻哲夫氏(6年後輩)なども係員でした。

その係が、沖縄復帰に関連して所管の法令の見直し作業をしていた。大きな問題だったのは、国民年金の保険料だ。スタートしていた国民年金に加入するに際して、沖縄県民にどの程度の特例(低い)保険料を認めるか。担当部局である年金局と財政当局(大蔵省。今の財務省)との折衝が難航していた。

復帰直前に、当時の日本法と、復帰後の扱いを1本の法令とした原案を携えて私が琉球政府に説明に出かけたのが初めての沖縄でした。

パスポートを持っての初めての旅行。当時は、沖縄は騒然としていて厚生局(当時の日本政府の厚生省所管事業と見合う所管でした)に入るのにデモ隊をくぐって入った記憶があります。厚生局長以下、10人ほどの幹部を相手に日本側は私1人です。公衆衛生局の所管事項から全部1人で説明し、了解を得る手続きです。この国民年金保険料のついては、当時の折衝中の案は沖縄側には漏らしてはならないとの緘口令がひかれていた。ですが、実際「決まっていません」では先へ進めなかった。私が折衝中の数字を漏らしたと言うので、帰国後、担当の年金課長のところへ呼びつけられた。

最近のテレビのCMではないが、上司であった総務課の課長補佐などは知らん顔だった。無視せよという。

形式的には、私が「厚生省沖縄復帰対策室次長」ということになっていたが、実際は、私が1人で切り盛りしていた。日常業務のほかに復帰準備をしていたので、このころは、審査室に布団が用意されていて、連日のように役所に泊りこんでいた。長く総務課の事務を担当していたMさん(故人。女性)が定年になった際のエッセイ(雑誌「厚生」)にこのときの私の忙しさに触れています。

 

【復帰後】

復帰後の沖縄へは、老人福祉課長として、全国の老人福祉施設の組織(「老施協」と略称された)の年次総会のようなものへ大臣挨拶の代読者として出かけた。

行きの飛行機の中で挨拶原案を読んだ。原案は随行したT係長が決済をとったもので墨で書かれています。例年大臣挨拶はあるので例文に従っている。「沖縄の高齢化」の箇所で、沖縄の高齢化率が低いという。はて?と思い返すと、沖縄戦による死者数により分母が少なくなっているのでは?と隣にいる彼に質した。当日は、用意した案を読まずに、沖縄戦のことを話した。のちに「今度の課長の挨拶は印象に残った」と書かれた記事を読んだ。

 

【牛島中将】

沖縄復帰に果たした鹿児島の政治家山中貞則の役割と、山中さんが「牛島中将の遺言を守るときが来た」という叱咤を担当者を集めた会議で飛ばした。

牛島中将も鹿児島の出身でした。