濱 久年&横手伸太郎「肝付氏の拠点」(高志書院、2020.p234~)を読んでいます。

その3節は、南北朝時代の合戦と軍事拠点です。

本シリーズでは、考古学的な記述には深く触れないで、肝付氏の統治という点から主な政治の流れを追っておきたい。

 

 

建武2年〈1335年〉足利尊氏と新田義貞が対立していたころ、日向では義貞方の伊東祐広が穆佐院(宮崎市。足利殿御領)を攻め、肝付兼重は義貞方(南朝方)に与したが、北朝方に追い返されている。

 

島津荘の開発拠点であった三俣院の弁済使か院主だった兼重が内乱当初に軍事行動を開始しても不思議ではない。

 

南北朝期の城郭分布図

 

 

南朝方の兼重が北朝方(幕府・島津氏)との交戦を本格化させるのは、建武3年〈1336年〉以降である。

 

三俣院の本城が落ちたあと、兼重は合戦場を薩摩に移した。

暦応3年〈1340年〉東福寺城に立て籠もり、島津方の禰寝氏と交戦したが落城した。

 

貞和4年〈1348年〉には、日向救二院の楡井頼仲が志布志城に立て籠もり、南朝方に立った。

観応3年〈1352年〉尊氏方だった畠山義顕は、九州に下向していた足利直冬の味方となって尊氏・島津方と対立する。

兼重亡きあと、肝付一族は、これまで敵対してきた畠山勢(直冬方)に加担している。

 

肝付氏にとっての南北朝内乱は、兼重を軸に展開していた。

 

本項に記述された内容は、「高城町史」(平成元年)第8章を中心に改めて書きます。