鹿児島県には、地図でいうと薩摩半島(西側)と大隅半島(東側)の2つの半島があります。

鎌倉時代から江戸時代まで島津氏が統治してきたことで知られる。

 

しかし、大隅半島には島津氏がおさめに入る前から肝付氏がおり、16世紀に島津氏が肝付氏を破ってから両半島を島津氏が治めてきた。

大隅半島についていえば、最初肝付氏が治め、江戸時代から島津氏の支配下になった。

 

2005年、町村合併で「肝付町」が誕生した。旧高山町と旧内之浦町が合併した。

地名としては、すでに713年に大隅国ができた当時の4つの郡のなかに「肝属郡」があった。

 

現在、県庁所在地が薩摩半島の鹿児島市にあり、鹿児島県の行政からは大隅半島は一地域にすぎない。私は、14年前に、義母の介護のため妻と鹿児島へ越してきた。彼女は、この肝付町の出身であることから、この古代から中世にかけて栄えた肝付氏のことに関心を持ってきました。

 

「鹿児島県の歴史における肝付氏」というテーマを概観するために手元の5つの文献を紹介します。

 

 

1人で「鹿児島県の歴史」を書いた通史としては、今日でもこの原口虎雄による概説以外はありません。1973年山川出版社から各県シリーズの1巻として刊行された。

索引でみると、「肝付」に関しては6か所、人物では8人に関して記載されている。

兼重、兼続、兼演の3人に関しては詳しく書いている。

 

 

本書は、1973年版の新刊で1999年原口泉によって編集された。

索引で引くと、「肝付」に関しては、1508年の反乱(兼久)に触れた1か所だけです。

 

 

鹿屋市史上巻(1966年)で

は、肝付氏の古代・中世に関して詳しく書いている。

稿を改めて各市町村史を比較しながら紹介します。

 

 

これは、1964年、鹿児島大学教育学部の先生方によって小中学生向けの副読本として書かれた。肝付兼重について1節を設けて、肝付氏の経過について述べています。

 

 

これは、肝付町が2018年に刊行した文化財に関する説明書ですが、その冒頭で肝付氏の興亡を7行にまとめています。

 

 

今回は、同じ県内なのに、島津氏に関する研究・紹介に比較して肝付氏に関する研究・著作が乏しいことを話しました。次の機会に、市町村史を中心に肝付氏の興亡を紹介します。