78歳2か月です。

鹿児島の若い友人は「人生は80歳から」と励ましてくれます。

でも、父は78歳で胃がんになり80歳で亡くなっていますから、私にとって「死」は近い世界です。

 

若い時、たまたま「介護」に関するテーマを担当しました(第12話)。

介護費用といった政策的な側面から考えたわけですから、「看取り」のような視点をまだもてなかった。

 

父は、千葉県に住み、近所の病院に2年近く入院したのですが、母がベッドのそばによく寝泊まりしていた。酸素吸入などもしていて、母は「父のような最後にはなりたくない」という思いで「尊厳死協会」などにも加入したりして備えていました。

その母も98歳あたりまでは元気で1人暮らしでした。近所に姉が住んでいたことは幸いでした。98歳10か月のころに自宅で倒れ、入院して2か月足らずで亡くなりました。99歳でした。その入院が(出産を除き)人生初めての入院という母でした。

 

父の時は、勤務していた大学のゼミ生との旅行中で最後には間に合いませんでした。

母の時は、鹿児島にいて、このときも最後には間に合いませんでした。

 

私が65歳で、当時東京の文京区に住んでいましたが、鹿児島に越すことになったのは、義母の認知症が進み娘である妻が鹿児島へ行き最後を見届けたいということでした。

2~3年の間ではという想定で文京区の小さいマンションの部屋を妻の親戚に貸して鹿児島に越したのでしたが、義母は、その後老人ホームや病院をいくつも替え、最後は、実家のごく近くの有料老人ホームで亡くなりました。2017年12月のことで、義母は99歳6か月でした。肝付町の葬儀屋の看板に「100歳」とありました。

義母のときも、私たちは鹿児島市内から肝付町へ急ぎましたが最後は間に合いませんでした。

 

義母は、認知症は進みましたが、人格の崩壊はなく、直前まで食欲が旺盛で、胃ろうとか点滴とかは一切しないで平安な最期でした。妻の看取りに関する強い姿勢の結果でした。

 

このように、父、母、義母と見送ると、いよいよ今度は自分たちの番だと実感させられますね。その妻は、2017年秋に、義母のケアの疲れか2週間入院しました。
(義父は、戦後すぐに戦病死しています)

私たちには子供はいませんので、人様に迷惑をかけないように静かに一生を終えたいと願っています。

この話は、機会を改める必要がありますね。

 

身の回りの「看取り」を経験すると、若いころ、自分が机上で論じていたことが恥ずかしくなります。

 

写真は,今日午後、鹿児島大学にて。吉利池を望む。