尼姿になった浮舟のチャーミングな容貌に魅了されてしまった中将は、更に浮舟を口説こうと迫るのだったー。

 

 

 「私は意外な事にかつては匂宮様の誘惑に遭った身であるから、男性との交際は非常に疎ましく感じられてなりません、

 

何もかも万事は奥山の朽木のように人々に見捨てられて生涯を終わってしまおう」と諦めて、浮舟は応対するのだった。

 

 そのように諦めたのであるから、今まで絶えずに緩みなく鬱々とふさぎ込み、何事かを御思い込みなされて沈んでばかりで

 

この本来の望みである出家を遂げてしまった後では、すこし晴れ晴れした気持になれて妹尼君と雑談などに少し戯れたりし

 

たり、囲碁を打って楽しんだり、日々を暮らしなされている。仏道の修行も非常によく精勤して、法華経の読誦は勿論の

 

事で、それ以外の経文も大層多くお読みなされる。

 

 雪が大量に降り積もって人跡が完全に途絶えてしまう頃は、実際小野の山里というくらいで、物思いを晴らす方法はない

 

のでありましたよ。

 

 そうこうしているうちに年も改まってしまった。しかし此処小野の山里には春の兆しさえ見られないのだ。谷川の氷り

 

渡っている水が解けないで音を立てないのさえ心細いので、「御身・浮舟の故に思慮判断さえなくなってしまった」と仰った

 

匂宮のことは浮舟は「恨めしい」と諦めて捨ててしまったが、それでもなお宮に心が残っているのか、その当時のことは忘れ

 

られずに、「 かきくらす 野山の雪を 眺(なが)めても ふりにしことぞ 今日(けふ)も悲しき(ー あたりを暗くする

 

程沢山に降り積もる野山の雪を、今つくづくと眺めていても、古くなってしまった昔の事が今日も思い出されて、悲しい

 

ことである)」などと、仏道修行の合間などには浮舟は手習いをするのでしたよ。

 

 自分がこの世から姿を消して年月が隔たってしまったが、私のことを思い出して下さる人も、まだいるであろうか知らん、

 

と浮舟は昔を思い出す事も多いのだった。

 

 若菜を粗末な篭に入れて近所の人が持って来たのを、妹尼君が見て、

 

 「 山里(ざと)の 雪間(ま)の若菜(わかな) 摘(つ)みはやし 猶おひ先(さき)の 頼(たの)まるるかな(― 

 

山里の雪の消えている間の若菜を摘んで珍重し、御出家の今でもやっぱり御身の将来が長く若やぐことが自然に当てに

 

せられますなあ)」と詠まれて浮舟の所に差し上げなされたので、浮舟は、

 

 「 雪ふかき 野邉の若菜(わかな)も 今(いま)よりは 君がためにぞ 年もつむべき(― 春もまだ来なくて辛い

 

身の私は雪が深く積もっている野辺の若菜も、今からは妹尼君のためにいかにも摘み、御身のために長生きも致しましょう)」

 

と詠まれてあるのを、妹尼は「いかにも、そう思われるでありましょう」としみじみと哀れに感じたので、

 

 「自然、見ても見る甲斐のある普通の御姿であると、御身を思うのであれば嬉しいのでありましょうがなあ」と実意の

 

ある様子でお泣きなさるのだ。寝室の端近くにある紅梅が色も香もかつて見た昔に変わらないのに対して、浮舟は「春は

 

昔の…」と自然は以前と少しも変わらずにあるので、他の花よりも梅に心を寄せているのは、かつて飽きることのなかった

 

薫の袖の匂いが染み込んでいるのかと感じるのだ。

 

 浮舟は夜半から朝までに行う後夜(ごや)の勤行の際に仏に水を差し上げなさる。下働きの尼で少し若い者がいるので

 

呼び寄せて紅梅を折らせたところ、手を触れたせいか、そのせいで散るのだと言わぬばかりに散る時に良い匂いが漂って

 

来るので、「 袖觸(ふ)れし 人こそ見(み)えね 花の香(か)の それかと匂(にほ)ふ 春の明けぼの(― かつての

 

むかし袖を触れて香を移した人、薫の大将の姿は見えないのですが、紅梅の香りがその人の袖の香りであるかと疑われる

 

ように匂う春の夜明けである)」と詠んだ。

 

 大尼君の孫で紀の守である者がこの頃に紀伊から京に上って来た。紀の守は三十歳程で、容貌などは綺麗そうで得意

 

そうな様子をしていた。彼が、「私の不在だった昨年、一昨年に何か変わったことは御座いましたでしょうか」と母親の

 

尼に質問した所、母親の尼は耄碌している様子である。それで妹尼の許に来て、「この上もなく母尼は惚けねじけてしまいま

 

したよ。可哀想な事であります。寿命の残りが程なくて私がお世話申し上げる事も難しく、遠く離れた状態で紀伊において

 

年月を過ごしておりまする。私も親達がこの世にいなくなった後には如何にも母尼御一人を両親の代わりとして考えて

 

居りまする。常陸の介の北の方は此処には訪問なされるのでしょうか」と言うのは、紀伊の守の妹なのでありましょう。

 

 妹尼は答えて言った、「年月が経過するにしたがって、私も手持ち無沙汰であり、しみじみと寂しいことばかりが多くて

 

過ごしておりまする。常陸の介の北の方は非常に長い間来てはおりませんよ。彼女の来訪を待っていることが出来ない程に

 

御身の母尼は衰弱して見えていらっしゃいます」と。その声を耳にして浮舟は、自分の母親であると聞くともなく聞いた際に

 

更に紀伊の守が言ったのだ、「京に参上して私は何日かになりますけれども、朝廷での仕事が多くて、また仕事の内容も

 

面倒なことが多く、それに掛かり切りで居りました。昨日も此処にお見舞いに参ろうと存じていたのですが、薫の右大将

 

様が宇治にお行きなされる御供として参加したのです。故八宮様がお住みだった山荘に参られて、薫様は一日お暮らしな

 

されたのです。薫様は故八宮の御娘の所に御通いなされていたところが、まず御一人は先年に亡くなられた。妹君を

 

薫様は非常にお忍びで据え奉りなされていたのですが、その方も昨年の春にお亡くなりなされているので、その一周忌の

 

法要を御執行なされようとのことでした。その地の寺の律師にどうも当然にするべき用事を仰せなされておられた。拙者も

 

布施用として例の女の装束ひと揃いを新調しなければならないのですからねえ。こちらでそれを、きっと仕立てて下さい

 

ますでしょうかね。布を織らせる分に関しては急いでやらせましょうから」と。

 

 その話を聞いた浮舟は、自分の一周期忌と聞いてどうして感動しないでいられましょうか。大いに動揺したのだ。その

 

感動した顔色や態度を周囲の人が見て怪しむのではないかと浮舟は気恥ずかしいので、奥の方を向いて座っている。

 

 妹尼君は、「あの聖僧であった八宮の御娘御は姉妹御二方と聞いていますが、兵部卿の宮の北の方は姉妹のうちのどちら

 

だったでありましょうか」と仰ると、紀伊の守は、「薫の大将様の後の御方は身分の低い御方の御腹の御娘御でいらっしゃる。

 

その御方の御存命中はあまり大袈裟にも御待遇なさらなかったのですが、死後の今は大層お悲しみなされていらっしゃいます。

 

後の御方へのお悲しみはそれとして、長女の御方の死への御嘆きは大変なものでありました。その悲嘆で危うく出家もしかね

 

ないような御様子であられましたよ」などと語るのだった。

 

  それ故に紀伊の守は薫大将の近くに仕える家来筋の親しい人であったのだ、と浮舟は知って相当に恐ろしいと思うのだ。

 

紀伊の守は更に話し続けた、「不思議に、先の姫君と後の劣り腹の姫君とが同じような運命でこの世を去られてしまわれた。

 

昨日も御供をして宇治に参ったが、大層お気の毒であられたよ。宇治川の水面に近いところで、此処から入水したのかと

 

水を覗かれて大泣きなされた。屋敷の上に登りなされてから、寝殿の柱に書付けなされた、( 見し人は 影も止まらぬ 

 

水の上に 落ちそふ涙 いとどせきあへず = かつて昔逢った人は本人は勿論、現在は水の上に落ちて加わる私の涙は

 

今また一段と堰き止め切れなく零れる ) と。かの人のことを薫の殿様が口に出して申されることは殆どないのだが、

 

ただ拝見いたした御様子では非常にお労しい限りで御座いました。薫様は御美しいお方でありますから、一般に女性は

 

大層心惹かれなさるのでありましょうよ。殿がお若かった時代から私は「優美でいらっしゃる」と御見申し上げており

 

ましたから、世の中の一の所・関白家であっても私は何とも思わずに、この薫の殿様を頼りに致して今日まで過ごして

 

居りまする」と語るのだった。「特別に深い心を持っているとも思われない受領の如き者でさえ、かの御人の勝れている

 

事は見知っていたのだった」と浮舟は思うのだ。