作堅此國(このくにをつくりかためたまひき)、書紀に、夫大己貴命與少彦名命、戮力一心経営天下(あめのしたをあひならびてつ
くりたまひき)云々、出雲風土記に、飯石郡多禰郷(たねのさとは)、所造天下大神大穴持命、與須久奈比古命、巡行天下時、稲種堕
此處故云種、續後紀十九、興福寺僧の長歌に、日本乃(ひのもとの)、野馬臺能國遠(やまとのくにを)、賀美侶伎能(かみろぎの)、宿
那毘古那加(すくなびこなが)、葦菅遠(あしすげを)、殖生志津々(うえおひしつつ)、國固米(くにかため)、造介牟與理(つくりけむよ
り云々、万葉七に、大穴遅(おほなむぢ)、少御神(すくなみかみの)、作(つくらせる)、妹勢能山(いもせのやまを)、見吉(みらくしえ
しも)、六に、大汝小彦名能神社者(おほなむぢすくなびこなのかみこそは)、名着始鶏目(なづけはじめけめ、耳乎名児山跡負而(な
みみをなごやまとおひて)云々、十八に、於保奈牟知須久奈比古奈野神代欲里(おほなむぢすくなびこなのかみよより)、伊比都藝
家良志(いひつぎけらし)云々、かくさまに言い伝えたるも、皆天下を造りたまえりし功に依りてである。
万葉三に、大汝小彦名乃将座(おほなむぢすくなひこなのおはします)、志都乃石屋者幾代將經(しづのいはやはいくよへつら
む)、同巻に、皮爲酢寸久米能若子我伊座家留(はたすすきくめのわかごがいましける)、三穂乃石屋者雖見不飽鴨(みほのいはやは
みれどあかぬかも)、この二首(ふたうた)、三穂石屋と志都石屋と錯乱(まがい)たる歌で、その由は委しく下巻穴穂朝の段で言う。
久米若子が座せしは播磨の志都石屋である。
この二柱の神が座ますのは、三穂石屋であり、紀伊國である。
凡て出雲と紀伊國とは、相通える事が多い事は、上の大屋毘古神の所で言った如くであるから、この三穂も出雲の実保から移っ
た名であり、由縁があるだろう。
この下に引く、伯耆の風土記の粟嶋も、紀伊國名草郡加太神社を粟嶋と言うのと、又由が有って聞こえる。
然後者(さてのちには)とは、既に国作り竟りて後にということの如くに聞こえるが、次の語に、大國主神愁而告、吾獨何能得作
此國、とあるのを以って見れば、然にはあらず、猶作り給うほどの事であるの(むろほぎで、その始めの方は相並んで作ったのを、後の方に
至ってはと言う意味である。
常世國(とこよのくに)、凡て古に常世と言うのに三つある。一つには、常世長鳴鳥(とこよのながなきとり)常世思兼神(とこよお
もひかねの)神などとあるこれである。これは常世の義(こころ)であることは上(傳八)で言った如くである。
二には、下巻大長谷の天皇の大御歌に、麻比須流袁美那(まひするをみな)、登許余爾母加母(とこよにもかも)、書紀垂仁の巻
に、伊勢國、則常世之浪重浪歸國(なみしきなみよるくに)也、顕宗の巻の室壽(むろほぎの)御詞に、拍上賜吾常世等(うちあげたま
ふあがとこよたち)、万葉一に、我國者常世爾成牟(あがくにはとこよにならむ)、これらである。
これは字の如くに常(とこ)とはにして不変(かわらぬ)ことを言う。
三つには、常世國と言う、それである。
上の三つは言は同じであるが、その意は各々異にして、相関わらず。
三つを同意と心得るのは、字が同じなのに迷い、深く考えないものである。言が同じであるから、字は相通わし借りて、常世と
書くのだ。
さて、常世國とは、この様に名付けた国が一つあるのではない。ただ、いずかたにまれ、この皇国を遥かに隔たり離れて、たや
すく往還(ゆきかい)しがたい所を広く言う名だ。
故(かれ)、常世は借字で、名の義は、底依國(そこよりぐに)であり、ただ絶遠(はるけ)き国なる由である。
古えは曾許(そこ)を登許(とこ)と通わして言う事は、曾許(そこ)とは下だけではなくて、四方に上下の何方(いずかた)にも遠く行
き至りて極まり所を言う事、又、万葉に、天雲乃遠隔乃極遠鶏跡裳(あまくものそきへのきはみとほけども)など言う、曾伎閇(そき
へ)も同言であることなど、詳しく天之常世神の所、傳三で言った如くである。考え合わすべきだ。
凡て上代に常世國と言うのは、皆この意の外にはない。巻の末に、御毛沼(みけぬの)命者、跳波穂(なみのほをふみて)渡坐于常
世國、中巻玉垣宮の段、多遅麻毛理遣常世國、令求登伎士玖能しんにゅうの加玖能木實(ときじくのかくのこのみ)と見え、又、常
に歌に、雁が帰り行く所を言うなど、みなこれである。
さて又、後には人が死んだのを常世の国に往くということがある。
これは極めて遠い所であり、便りも無くて、行き通うことも適わぬ意で、上の意味から移したものである。