浮舟は望み通りに横川の僧都の手で出家出来たが、妹尼は不満である―。

 

 

 僧都は言う、「拙僧がこの世に生きてある限りは、御身のお世話は何としても仕り申そう。そうであるから、何も思い

 

煩ったりするする必要はありませんよ。普通一般の世、生滅輪廻などを考えない世界に生まれ出て、世俗に交わり世の中の

 

栄耀栄華に執着して付きまとうている限りは何としても、尼であって大袈裟に所狭くこの世を捨て兼ねるように誰も彼も、

 

思うことであるようでありまする。この様な小野の林の中に勤行なされるような方は、どのような事をまあ恨めしいとも

 

恥ずかしいとも思うことでありましょうか。誰でも持っているようなこの寿命は草木の葉の薄い物のようで、頼りない物である」

 

と浮舟に言い知らせてから、「朝方になるので、松の木が門のように立っている所に、朝の月がさまようている」と、法師では

 

あるけれども大層風情あるように吟誦して、聞いている浮舟が自分を恥ずかしいと感じるような立派さで仰ることを

 

彼女は「私が希望しているとおりに、僧都様は教訓なされることであるなあ」と黙然として聞いているのであった。

 

 この日は一日中吹いている風の音も非常に心細く感じられるので、小野にいらっしゃった僧都達一行も寂しさをひとしお

 

強く身に受け止めて、「ああ、山に住まぬ僧は別であるが、山に臥して修行をする山伏僧は、風が簫瑟と吹くこの様な日には

 

声を上げて泣いてしまうものであるよ」と言うのを聞いて、「私は今では、山伏僧と全く変わらない身の上であるから、道理

 

で涙が止まらないのです」と浮舟は思いながら部屋の端、簀子の方に出てみると遥かに見える軒端から狩衣姿の人々が色々に

 

見えるのである。

 

 比叡山に登る人と言ってもこちら小野からの道は通う人は非常に希なのであった。西塔の北の黒谷から歩き下山する法師の

 

姿などが極めて稀々に見られるのであったが、普通の俗人の狩衣姿を発見したのは言いようもなく珍しいのであったが、

 

浮舟が靡かないのを恨みに思い侘びているあの中将なのでありましたよ。

 

 「浮舟殿が出家してしまった今は、言ってみても効果のない恨み言でも言おう」と中将はやって来たのでありました。

 

小野の里の紅葉は大層美しくてよその山の紅葉の紅よりも一層美しく照り映えているので、中将は此処に入って来ると直ぐに

 

物の哀れを身にしみて感じるのであった。「この地において私が、浮舟の如くに冷たくて湿っているような人ではなくて、

 

私と相思う様な陽気な人を見つけることができたならば、所柄で調和しないので異様に思われるであろうなあ」などと

 

中将は思って、「暇があって手持ち無沙汰な気持が致すので、紅葉の眺めも非常に面白いであろうと考えてこうして参った

 

のでありまする。妻が亡くなった今でもやっぱり昔の気持に立ち返って此処に一泊もしてしまいそうな秋の紅葉の美しさでは

 

ありまするよ」と言って、草庵の中にいて紅葉を眺めるのだった。

 

 妹尼君はいつもの涙脆さで涙を流しながら泣いて、

 

 「 木枯しの 吹(ふ)きにし 山のふもとには 立ち隠(かく)るべき かげだにぞなき(― 木枯しの風が紅葉を吹き

 

散らし、又、浮舟殿も出家してしまった山の麓には木の葉がないので、御身の隠れる、お泊りになられるせめてもの木陰、

 

場所も御座いません)」と詠まれると、中将は、

 

 「 待つ人も あらじと思(おも)ふ 山里(ざと)の 梢を見(み)つつ 猶ぞ過(す)ぎ憂(う)き(― 現在は、私が

 

想いを懸けた浮舟殿も出家して、私を待っている人もいないと思う、この山里の紅葉した梢を見ながら私はやっぱり

 

通り過ぎるのが辛い)」と返歌した。そして、今更に言っても甲斐のない浮舟の事を少将尼に尽きることもなくくだくだと

 

言って、「姿が尼に変わった様子を、私に少し覗き見させてくださらぬか」と迫ったのだ。「せめてその変わった尼姿を

 

私に見せるだけで、かつて君が私に浮舟殿に会わせると約束した君の証拠にしてくれないか」と更に中将は少将尼を

 

責め立てたのだ。 

 

 少将尼が浮舟の部屋に入ってみると、浮舟は尼姿の美しい今は一層人に見せたいと思う誘惑に駆られるチャーミングさ

 

なのだ。上着として鈍(にび)色の綾を、中には萱草(くわんぞう、葉は刀身状、夏に黄や橙色のユリに似た大きな花を咲かす)

 

色などの澄んだ色の着物を着て、身体は非常に小柄であって、容姿は素敵で、当世風の華やかな容貌に、尼削ぎの毛髪は

 

五重の檜扇を広げたように厚くて房房としている。肌の具合は肌理が細やかであり、美しい面立ちに化粧を大仰に施したかの

 

ように匂いたっている。

 

 仏前で勤行しているのであるが、数珠などは持たずに近くの几帳に掛けて置いて経に心を入れて読んでいる御様子などは

 

絵に描いておきたいほどに素晴らしいのだ。

 

 その様子を眺めやるごとに少将尼は流れ出る涙を止め難い気持がするので、自分に増して彼女を心にかけている男、

 

中将にどの様な思いで浮舟を見るであろうかと、考えて、当然にそのようなことをする機会であったのでしょうか、障子の

 

掛けがねの近くに空いていた穴を中将に教えて、覗き見を偽装できる几帳などを側に押しやったのだ。 

 

 中将はのぞき見て、「全くまあ、これ程美しいとは思っていなかった。甚だ美しく理想通りであった人を尼などにして

 

しまったことであるよ」と、出家は自分自身がした過ちででもあるように中将は感じて、又悔しくて悲しいので敢えて慎み

 

憚り切れなくなって、何とはなしに気の狂いそうな程まで泣き悲しむ声は勿論のこと、身振りまでも襖越しに聞こえてし

 

まいそうになったのでその場を退いたのだ。

 

 そして中将は思ったのだ、「これほどに美しい女性を失ってしまって探し求めない男が一体この世にいるであろうか、

 

いや、いないであろうよ。又、その人の娘とかあの人の娘とかが如何にも行方がわからなくなり、或いは姿を隠してしまっ

 

ている、もしくは男の冷淡を恨んで嫉妬して世を背いて出家してしまったなどと言う噂は、自然に世の中に隠れている

 

ことはできずに居るはずだ。所が何の噂も聞こえてこないのはいくら考えても不思議であると思う。けれども尼ではあっても

 

このように非常に魅力的な女性は嫌だとは感じない、などと中将はますます内心で浮舟に魅了されてしまい、恋慕の情で

 

苦しさが勝ってしまったのである。「人目につかない状態で、内々で前からの考え通りに彼女を口説き落としてしまおう」

 

と思うので、中将は切々と自分の懸想心を語り妹尼を口説くのであった。

 

 「彼女は出家して既に尼の身でありますから、世間一般の状態では私に会う事は遠慮なさる事もありましょうが、私と

 

しては却って安心して愛を語ることが出来ると考えるのです。御身の方からそのように彼女に伝えて教え諭して頂きたい

 

のです。私はかつて此処に通って来た亡き妻が忘れがたいのです。此処に参るに際してまた一つ浮舟殿への思いが加わって

 

弾みがつくように感じます」などと中将は妹尼に熱心に語ったのでしたよ。

 

 「浮舟殿は非常に将来が心細くて、又私からしても大層心配な状態でありまするのに、御身が真面目な気持で彼女を

 

忘れずに訪問してくださるのは非常に嬉しく思います。私にとっては自分がこの世にいなくなってしまった後の事が

 

とても心配でなりません」と言ってお泣きなさるので、「この妹尼君も浮舟とは関係が切れない親戚なのであろうか。

 

浮舟殿とは一体どの様な素性の女性なのであろうか」と内心で中将は納得出来ない思いでいるのだった。

 

 「浮舟殿の遠い将来の事に関しては、私自身もいつ死ぬかは定め難くて、不安定な身でありまするが、御身に対して

 

このように懇ろに相談致したからには私の彼女に対する愛情は終生変わらないでありましょう。彼女の行くへを尋ねて

 

来る男性は本当にいないのでありましょうか。訪ねてくる男性の有無が気がかりで、やはり彼女と私との間には隔たり

 

が存在するようで心配でありまする」と中将が言うと、妹尼は、「世間の人に当然に分かるはずの姫君の姿で浮舟が

 

生活しているのであれば、仰せのごとくに探し出す人も出てくるかも知れません。現在では出家してしまい、尼として

 

暮らしているのですからその御心配は無用でございましょう。彼女の心の意向もひたすらに仏道修行に向かっていると

 

私には思われまする」とお話なさる。浮舟の方にも中将は改めて消息文を送った、

 

「 大方(かた)の 世をそむきける 君なれど 厭ふに寄(よ)せて 身こそつらけれ(― この私を嫌ったのではなくて

 

世間一般のこの世を捨てたのでありましょうが、私としましては、私を嫌ってのことのように思われて辛く悲しいので

 

ありまする)」と。そして、中将が今でも心に深く愛情を感じている事などを少将尼に語ったのでありました。

 

 「私のことを兄弟であるように思ってくださいな。御身に兄として世間話などをしてこの寂しい自分の心を慰めたいと

 

思っているのですからね」などと、少将尼の取次を介して更に伝えたのだ。浮舟は、「意味深長であるような御身の

 

御物語などを意義深く聞き分けることのできる私では無いのが、残念でございまする」とだけ答えて、和歌の方には

 

返歌を返さずにおえてしまったのだ。