浮舟が投身自殺に失敗して横川の僧都一行に助けられた、その続きー。
母尼は苦悩が普通の容体に戻りなされた。中神の方塞がりも消滅したので、「変化の物が現れた様な宇治院に長い間
滞在しているのは不都合でありましょう」と言うので、小野の里に帰ったのだ。
女房は言う、「この人はまだ非常に弱々しく見えまする。小野までの道中も長いのです」、「どの様におありなされようか、
途中で死んでしまいはしないだろうか」などと各自で言い合っている。牛車二台に老齢の母尼が乗られているのには母尼に
奉仕する女房の二人が、続く車には妹尼と例の女性が横になっていて、その横には女房がもうひとり乗り添って道中は
さっさと行ってしまうことも出来ずに、車を時折止めて女性に湯などを飲ませる事などを妹尼はしたのだ。
比叡山下の坂本と言う場所に小野の里があり、其処に尼達は住んでいる。この小野に到着するまでの距離は非常に遠い
のでした。「宇治と小野の中間で一度宿泊致しましょう」等と女房が言って、夜が更けてから小野に到着した。
僧都の方は母君のお世話を、妹尼は見知らぬ女性の方を看病して、全員が車から降りた。「老いの病気が何時あるとも
なく、始終あるのではないかと考えるのが辛いことです」と、母尼が思いなさった病勢は遠道をした後こそ暫くは患い
なされたが、その後は次第によくなられたので、僧都は比叡に登られたのでした。
「このように美しい女性を如何にも途中から連れてきたのであった」などと、法師達の間では女性の同伴は宜しくないので
女性を見なかった僧には教えずに、尼君は初瀬観音の御利生故に自分の娘にしようと言うので全員に口止めさせながら、
「もしかしてこの人を探しに来る人もいるかも知れない」と考えると心も休まらないのだ。「どの様な理由で、あのような
田舎の辺鄙な場所でこんなに上品で美しい人が落ちぶれさすらっていたのであろうか。初瀬などに参詣した人で道中で
病気になったのを、継母などのような人が騙して供の者に置かせたのであろうか知らん」などと妹尼は想像するのだ。
あの宇治院で私を川に流して下さいと言った一言以外には、この女性は更に仰らないので、素性を大層知りたいものと
思って、「いつの日にか健康な状態に戻して差し上げよう」と考えるのだが、この人は何をするともなくぼんやりとして、
起き上がる気力も見えないのだ。非常に怪しい状態でばかりいるので、「結局は助かりそうもないない人なのであろうか」
と妹尼は心中では思いながらもそのまま打ち捨ててしまうのもさすがに気の毒である。
初瀬の観音の霊験、亡き娘の身代わりに授かった話も宇治院でこの人を最初から祈願や祈祷をさせた阿闍梨に打ち明けて、
内々で芥子を燃し護摩を焚くことなどをさせたのだ。
引き続きこの人を看病し、御世話しているうちに四五月も過ぎてしまった。看病のし甲斐のないことを妹君は大層思い
煩って兄の僧都の所に手紙を出したのでした。その文に言う、「やはり山を降りなされて、この人を御助けください。
悩み弱りながらも、今日までまあ存命しているのは、死ぬはずがないと思うこの人に憑き自分の物にしてしまった物の怪が
やはり去らないでいるのでありましょう。私が信頼致す仏の様な御兄様、京にお出でなさるのであれば山篭りの本位を
破ることになるでしょうが、此処であるならばきっと我慢が出来るでありましょう」などと真剣な切ない事情を長々と
書いて僧都に差し上げたので、「全く不思議なことであるなあ。ここまで死なずに生きながらえた命であるのを、あのまま
宇治院に打ち捨ててしまっていたならば、今頃は死んでしまっていたであろう。当然にそうであるような前世からの約束が
あったので、私もあの人を発見したのでありましょう。魔性の物の怪の実情を知るためにも、最後まで命を助けるように
私としても見届けてやろう。助けるように加持しても命が留まらないのであれば遂に業が尽きてしまったのだと思おう」と
僧都はそう仰って山を降りられたのでした。
妹君は大層喜ばれて、兄僧都を伏し拝んでこの一月程の様子を語ったのだ。「このように長患いした人は衰弱して容貌など
の上に汚げな様子が出てくるものなのですが、この人にはそうした事が少しも出て来ておりません。非常に綺麗であり、
ひねくれた見苦しい点などは見られずにおられます。寿命の終わりと見えながら、そんな状態で此処におられるのです」と
妹尼はこの人が今にも死んでしまうのではないかと危ぶみながら、泣く泣く僧都に仰ると、「見つけた時から、思えば
世にも珍しい人のご様子あったよ。さあ、修法を施してみようか」と僧都はこの人を差し覗いてご覧なさると、「かつて
宇治院で見たとおりなる程、大層優秀なのであった御顔であるよ。前世で積んだ善根の報いでこの様な美しい容貌に生まれ
たのでありましょう。それがどの様な不運で一身はこの様な状態に損傷せられ病気に罹ったのでしょうか。この不運は
万が一にも、こう言う理由なのであろうかと聞き合わせた事は御身にあったのであろうか」と妹尼に御訊きなされた。妹
尼が、「私に聞こえてくる噂などは一切御座いません。なんでまあ噂などがございましょうか。この人は初瀬の観音様が
私に賜ったお方なのです」と仰ると、僧都は、「何事にも因果応報がありましょう。人を賜るのも因縁に従って観音も手引き
なさるのでありましょう。きっとしかるべき原因があるに相違ないでしょう」と仰る。そしてこの人の縁を不思議がられて
修法をなされた。「朝廷からのお召に対してさえ従わないで、山奥深くに籠っていたのに、その山を出て、こんな素性も
知れない人の為に修法をなさっていらっしゃるよと、世間に噂が広がるのは非常に外聞が悪いであろうよ」と僧都は御考えで
僧都の弟子達もそう言い「人には聞かせまいよ」と共に隠したのだ。僧都は、「さてさてまあ喧ましい、大徳達よ、私は
戒律を破って慚(は)じることのない法師で、法師として謹み避ける戒律が多くある中で、女の関係でこれまでにまだ世間から
非難されるようなことはなかったし、又過誤はなかった。然るに齢六十歳過ぎた今になって世間からの謗りをもし受けるならば
そう言う因縁があったのであろうよ」と仰り、弟子は、「物のわからない人がこの修法について、物事を不都合に敢えて
言い触らすならば」、「仏法の恥となるでありましょうよ」などと、師の僧都が非難も因果であろうなどと言うのを不快に
感じて一理があったにしても困ると思うのだった。そして僧都は言った、「この祈祷の期間中に効験がもし見えなければ
命までも賭けよう」と。命を賭すなどと大変な事まで仏に約束されて、一晩中かけて加持なさった早朝に、この人に
憑いている物の怪を憑坐(よりまし)の童に駆り出して移して、「いかようの者がこれほどまでに人を惑わしているのであるか」
と惑わし苦しめる事情だけでも物の怪に言わせたくて、弟子の阿闍梨達が色々と加持した。その為に数ヶ月間少しも
姿を現さなかった物の怪が調伏されて姿を現したのだ。物の怪は言う、「自分はこの小野まで参って僧都達によって調伏
されるような身ではない。存命の昔には仏道を修行した法師であって、死後に少しばかりこの世に執念を残して中有の空に
さまよい歩いている間に美しい女がたくさんいるところに住み着いて、一方の大君は死んでしまい、もうひとりのこの人は
御自分から世を恨んで、自分はどうにかして死のうということを夜となく昼となく呟いていたので、己は取り付く便宜を
得て、非常に暗い夜にたった一人でいたところを狙って、川に投げ入れてやろうと図ったのだ。所が初瀬観音が様々に
この人・浮舟を御世話なされるのであったから、我はこの法師に負けてしまったのだ。浮舟から今後は退散してしまおうよ」
と物の怪が大声で罵った。
僧都が、「こう騒いでいる者はいったい誰であるのか」と問い詰めたのだが物の怪の取り付いた童は物の怪の力が大して
強くはなかったためか、明確にもその名前を言わないのだ。又、本人自身の気分は物の怪が退散してしまったせいか爽やか
になり、少し物を考えることが出来るようになって、周囲を見渡した所が誰ひとりとして見知った人はいなくて、皆が皆
老法師ばかりで歪み衰えたる顔ばかりなので、浮舟は見知らぬ異国にでも来たような気持になる。そして異様に悲しくなった。
「かつて生存していた当時のことを辛うじて思い出すのだが、住んでいた自分は誰であるのかさえはっきりとは確認出来ない
有様なのだ。ただ自分は川に身を投げたはずなのだ、どこに来てしまったのだろうか」と思い、無理をしてまた思い出すと、
「非常に悲しさは激しいと私は思い嘆き、人が寝静まった隙に妻戸を開け放って外に出たのだが、風が激しくて、宇治の河浪も
荒く聞こえていた。一人で物恐ろしかったので過去も未来も分からずに濡れ縁の端に足をさし下ろしたのだが、この先どの様に
行動したらよいのやら判断がつかず、しかし家の中に戻るのも中途半端なので心を強く持って身をこの世にないものにして
しまおうと、決心したのであった。馬鹿らしく死に損なうような醜い状態で人に見つけられるよりは、鬼か何かが私を
食い殺してくれないだろうか、と心に唱えながらその時つくずくと物を考えていた際に、非常に高貴そうな男性が私の側に
寄ってきて、さあ私の所にいらっしゃいな、と言いながら私を抱き取った様に感じられたのを、匂宮様がそうなさって
いらっしゃると感じつつ心が惑乱して意識を失ってしまったのだ。私の知らない所にこの男は私を据え置いて姿を消して
しまったと思ったけれども、本意だった入水も実行せずじまいになってしまったと思いながらも、大層泣いているなとかって
思った時に、そのあとの事は全くどうにもこうにも記憶には残っていない。看病人の人の話を聞けばその後も多くの日数を
経過している。その間にどんなにか正気のなかった時の情けない状態を周囲に見られ、介抱を受けたのであろうか」と浮舟は
恥ずかしく、「この様な状態で結局生き返ってしまったのか」と思うと残念であり、悲哀も甚だしくて浮舟は失神して患って
いた長い間は正気もない状態で却って食べ物を少し召し上がる状態であったのだが、正気の今はほんの少しばかりの煎じ
薬をさえ飲もうとはしないのだった。