近江聖人と讃えられた中江藤樹は江戸時代初期の陽明学者。日本における陽明学の確立と「知行合一」の道を実践した。陽明学
とは中国で明の時代に王陽明が宋の陸象山の説を継承して唱えた学説で、人は生来備えている良知(是非・善悪・正邪の判断力)
を養って知識と実践とを一体化すべきだとするもの。「致良知」の為には私欲やこだわりを除く「誠意」が大切で、常にそれを意
識することが必要であるとする。藤樹は様々な出来事は人の 五つ によるものであり、色々な人との出会いの中で「和やかな顔
、思いやりのある言葉、相手を優しく見る、本当の気持を聴き、思いやる」こと、詰まりは五事を正すことが大切であるとして
います。中江藤樹の名言としては、「人生の目的は利得ではない、正直である、正義である」が有名です。「それ学問は心の汚れ
を清め、身の行いを良くするを以て本実とする」、「姑息の愛とは、さしあたりの苦労をさせず、子供の願いのままに育てること
で、一見、慈愛のようであるが、その子供は鳥や獣と同じようになる」、と戒めている。その他には、天地の間に己一人生きてあ
ると思うべし。天を師とし、神明を友とすれば外人に頼るなし。はかなくも、悟り何処と求めけん、誠の道は我に具わる。この宝
( 真理 )は天にありては天の道となり、地にありては地の道となり、人にありては、人の道となるものなり。それ学問は心の
汚れを清め、身の行いをよくするを以て本実とする。父母の恩徳は天よりも高く、海よりも深し。君子・小人の分、専ら心上にあ
り、意必固我(勝手気まま、強引、執着)なければ即ち、君子なり。意必固我あれば、即ち、小人なり。家を起こすも子孫なり、
家を破るも子孫なり、子孫に道を教えずして子孫の繁昌を求むるは、足なくして行くことを願うに等し。悔(カイ、くいる)は凶
より吉に赴く道なり。ニセの学問は、博学の誉を専らとし、勝れる人を妬み、己が名を高くせんとのみ、高満の心を眼(まなこ)
として、孝行にも忠節にも心がけず、ただひたすらに記誦詞章(文章を記憶する)の芸ばかりを努むる故に、多くするほど心伊
達、行儀悪しくなれり。苦しみを去って、楽しみを求むる道はいかん、答えて曰く、学問なり。それ人心の病は、満(奢り昂ぶる
こと)より大なるはなし。以上、中江藤樹は人の道を説く学問の楽しみを庶民に伝えようとしたのであった。
日蓮に「立正安国論」がありますが、内容は当時の天変地異、飢饉、疫病の原因は人々が邪教を信じている為と断じて、治国
の大本を明らかにし、来世の衆生を救う正法は法華経以外にはなく、速やかに法華正法への信を立てなければ国内には反逆、他国
からは侵略の難をうけるのみならず、これを用いない為政者は早死するだろうと言う事を、主人と旅人の問答形式で書いている。
法華経(妙法蓮華経)は、大乗仏教の代表的な教典。大乗仏教の代表的な教典で、法華経絶対主義、法華経至上主義、登場人物の
開発や徹底的なフィクション、表現において独自性を持っている。カルト(カリスマ的な指導者を中心とする小規模で熱狂的な会
員の集まりを指す)的という特色を持つ一方で、誰もが平等に成仏出来ると言う仏教思想が説かれている。
キリストは人間ではなくて神でありますから、カエサルの物はカエサルにと極自然に言ってのけたのですが、神は人間を始め万
物を創造されたので、物質的な範疇では物質の世界での法則に則って支配と被支配とが組み合わされて自然に進行するのを、神は
見守っているだけですが、魂・精神・心などの領域では積極的に介入して人間により多くの幸せと平安とを齎そうと企図していま
す。精神世界こそ神の支配する世界だからです。普遍的にして豊饒な領域では、ことごとくが豊かで、無限で、滾滾として湧き出
してくる豊富な水源の如くに、汲めば汲む程に後から後から湧出するものですね。物質の世界はこれとは真逆であって、人間の目
には無尽蔵と見えても限定的であって限りがあります。人間の支配者も有限の人生の中で刹那的に奢り高ぶっても、泡のごとく
に消え去り、跡形もなくなってしまう。カエサルの物とはかくも儚く、頼りないものなのです。精神界をリードする人間の王者
達もそれぞれの特徴を前面に押し出して、支配し、コントロールしようと努力したのですが、歴史が示している様に決して長続き
していないし磐石と見えたその土台も時間の経過とともに揺らぎ、崩壊してしまっている。物質とはそういう存在であり、人間と
はその物質に支えられてかろうじて百年前後の命をキープ出来ているに過ぎない。その一つ一つは儚く脆いものでも、その土台の
上で働き、霊妙な活動を許されている精神や心、魂は断続しながらも線となり、面となり、立方体となって堅牢な建築物的な構造
を構成することが許されている。宗教心と我々が呼んでいる物は部分が己を正しく律するために必要としている全体感を受け止め
る一種の装置のようなもので、個は、部分は、常にそのままではあらぬ方向に逸脱して、驕り昂ぶる傾向が顕著なものであること
は歴史に照らしてみれば直ぐに分かることでありまする。
個人は常に支配し、支配される欲求に突き動かされている。人間は個人では存在しえず、社会的な存在であります。権力のヒエ
ラルキーの中で適当な場所に自分の居場所を確保して、自己の中にある支配と被支配の欲求を満たし安心感を得たいのでありま
す。宗教心とは個人が誰でも生まれながらに保持している磁石のような役割を果たしている。安定せずに不安に苛まれている孤独
感を全体と正しく連携することで払拭しようとする。神秘的な要素は最終的に残るのですが、それを排除して本質を述べれば部分
と全体とを結ぶ紐帯のような役割をしているのが宗教心であり、信仰心なのだ。既成宗教の信者でないからと言って無宗教者では
ないので、日本人程この真実の宗教心に篤い民族は他にいないと主張しても過言ではない。ですから、逆に言えば、既成宗教の
篤実な信者と見えても、真実の信仰心からはかけ離れている場合だって有り得る。今では私はそんな確信さえ持っている。私は
仏教徒でも神道信者でもないが、誰にも引けを取らないほどの篤実な、渇仰する如き真実の信仰心を抱いている。それは、学問す
ること、そして生きて実地に学び、学ばされた体験によって強固な確信となった。そう言う貴重なものなのです。
個人の自由とか平等などという平和憲法の理念は人類が暴力的な革命によって勝ち取ったもので、本来は人間は自由でも平等で
もないわけで、そうありたいと希求した結果でありますから、自然状態のままですと不自由になり、不公平非平等になってしま
う。資本主義経済の下では貧富の格差が野放図に拡大して、一方に大富豪がいるかと思えば他方では貧民がいたり平和状態の社会
であっても餓死者が出たり、ホームレスが大勢出たりしている。日本国憲法では最低限の生活水準が保証されているとは言
え貧困に喘ぐ人々の数は相当数にのぼると想像されるが、自己責任と言う名目のもとで放置されてしまう傾向はこれからも続くで
あろうことが推測される。理想と現実とは常に乖離しているのが人間社会の不条理でありましょう。人間は、本来不完全であり
不安定な存在であります。故に、常に完全を求め、安定を希求してやまない。しかも合理的に考えればこれは現実では実現不可能
なもの。神、仏、天などという言葉で掬い取ろうとする理想の完全はこうしたフィクションの遥か彼方に存在する 絶対者 に
しか有り得ない。我々はどうしても先人や同時代人から学び、又己の切実な体験によって探究心を十二分に働かせて北極星にも比
せられる「正義」を目指して刻苦勉励する一時期を経なければ今世での「安心立命」を獲得出来ない。知行の合一とは例えばそう
言う事実を指し示している。詰まりは、言葉は一つであっても実践は様々であり、本質さえ間違わなければ良いのですね。私の言
う 幸福長者 などもゴマメの歯軋りと言いさってしまえばそれまでなのですが、本人が言うのもなんですが、実際はごく自然に
感じられている実感なのです。精神・心・魂の世界は豊饒極まりなくて、人類全員が幸福長者であっても一向に構わないと言う
か、管見では現にそうなのですよ、本当の所では。
隣人とは、同時代を生きて同一地域に生活している人々だけではなくて、例えば小野の小町や、楊貴妃、遥か何千年も前に滅び
去った名も知れぬ人々であっても、何らかの形で現在の私になにがしかの影響を与えていることをおもんぱかれば、隣人足り得
る。その伝で言えば、嫌な人間や犯罪者でも立派ではないけれども、我々に無縁ではないのですから、隣人の一人に数えざるを得
ないわけですね。
伊藤仁斎は堀川(古義)学派の祖で、京都の町人の出。最初、朱子学(南宋の朱熹によって構築された儒学の新しい学問体系。
儒学の中でも主従関係や上下関係を重んじるので、封建制度の維持に相応しい学問として江戸幕府に奨励された)を学んだが、後
に後世の注釈を避けて直接孔子や孟子の原典に当たり、聖人の真髄を学ぶべきことを主張した。彼は日常生活の中からあるべき倫
理と人間像を探求して提示している。「論語」を「最上至極宇宙第一の書」と尊重した。その名言には「仁者は常に人の是を見る
る、不仁者は人の非を見る」、仁は畢竟愛に留まる、その愛とは他者を少しも害する事のない純粋な心で受容する事を言う。又、
忠とは、どこまでも徹底して人を思いやり、人に尽くす事とする。誠とは、自分に対しても他人に対しても偽ることのない、純粋
な心情と規定している。誠ならざれば、仁は仁にあらず、なのだ。孔子の説く仁とは仁愛と喝破してもいる。そして、誠の具体的
な実践として「忠信」を、つまり、他者への思いやりや信頼を実践せよ、と説いている。この「誠」とは、古代日本人の清明心に
通じるところがあります。また仁斎は、単に心情が誠実であっても、人間社会についての学問を修めなければ、行為についての判
断を誤る事があるとしました。