これは実際の人をモデルにしているので、伝記の一種としてもよいのですが、私、草加の爺を表現するには最良の御人と考えて

 

の事で、人生の達人とも考えている このお方 を出汁にして、「 幸福 長者 」を自任している 私 を出来るだけ理想化し

 

て表現しようと考えています。モデルはフジテレビの時代劇プロデューサーの故 能村庸一 氏であり、草加の爺とは古屋 克征

 

でありますが、能村氏も私も私の心眼に映じた、それ故に極めて理想化されたそれでありますので、敢えてフィクションの

 

小説と銘うって表現しようと考えたわけであります。どうぞご期待来下さい!

 

 その人との出会いは時代劇のテレビドラマ「御存知!一心助」で主演は杉良太郎でした。彼はNHKの時代劇で歌手から一躍ス

 

タ―ダムにのし上がった天才的な時代劇俳優でありましたが、冷暖房完備の近代的な豪華なステージでベテラン俳優達に次々と接

 

して演技に開眼した、それ故に強運に恵まれた人物でありました。年齢は当時二十七歳でした。

 

 その人はフジテレビに有望なアナウンサーとして入社しただけでなく、一年間その新人を通しでカメラに収めるクルーが編成さ

 

れる程の期待度の高い有能な人材だった。私は後年になってからソノシ―トでその人の舞台中継を聞かせたもらったのですが、そ

 

の名調子は聞く者を劇場の舞台に自然に誘うような素晴らしいものでした。しかし、自意識過剰と言うのでしょうか、自らをテレ

 

ビ時代のアナウンサーとしては容姿などが適してないと判断して、編成局へと転出を希望することになった。

 

 さて、私ですが、色々の経緯があって国際放映の企画部に新人プロデュ―サー候補として入社して、数年、一本立ちのプロデュ

 

―サーとなるべく修行の年月を送っていました。国際放映は映画会社の新東宝が倒産して、国産のテレビドラマなどを製作する

 

会社として再スタートを切ったものでした。当時は、テレビの草創期で十五分や三十分の昼の帯ドラマが盛んに作られ、老朽化し

 

たステージや機材、人材などが転用されて表面上は活況を呈していたのですが、所詮は武士の商法と言いますか正当に利益を計上

 

出来る様なまっとうな商売は許されず、次第にじり貧になる運命にあったわけであります。タコが自分の足を食いながら生きて行

 

くのにも似た実に哀れな生業を与儀なくされていたのですが、若かりし頃の私はその様な会社の姿を客観視できるような大人では

 

ありませんでした。ただ優秀な職人集団を束ねて物作りをするプロデュ―サーと言う職種に魅了されて、生活の糧を得る為の手段

 

である事を忘れ、毎日を時間を忘れる様な フロー 状態で過ごしていた。実に、私なりに非常に恵まれた環境に意識せずに身を

 

置く結果になっていたのでした。

 

 先ほど述べたフジテレビの時代劇「一心太助」では、その人と局プロと制作会社のプロデューサーとして私は初めてお会いして

 

運命共同体的な心の絆を結ぶことになったのですが、私達二人の仕事ぶりはある種常軌を逸する様なものでした。当時は二人とも

 

独身でしたので四六時中常に一緒に居ると言う仕事ぶりなのでした。その人が三十歳、私が二十七歳で私生活も何もがこの仕事に

 

打ち込んでの 熱狂 ぶりでした。当時は携帯などなかったので、簡単には連絡が取れなかったのですが、一旦別れても、どちら

 

からともなく連絡して、例えば河田町のフジテレビとか、行きつけのお店とか、どちらかの自宅で、と言った具合に落ちあって

 

仕事の相談をするのが常でした。それは後年にその人が「仕事を玩具にして遊ぶ」と称した仕事との対し方のスタートだったわけ

 

です。今私は常軌を逸するなどと表現しましたが、そういう自覚が当時の私達にあったわけではなく、ごく自然にそういう仕事ぶ

 

りになっていた。会社の先輩から「能村さんの様な優秀な方が、君のような若造と対等に付き合ってくれているのは、或る種奇妙

 

な現象なのだが、何かい、ケツでも貸したのか」などと皮肉混じりに揶揄されたのですが、私達の仕事ぶりは狭い業界でも奇異な

 

見物で、それ故に嫉妬や羨望の的になっていた。これはテレビ業界という特殊な世界だけでなくて、どのような社会でもあり得な

 

い特殊な結び付きであると自分が当事者であったくせに思うのです。これが現代の プラトニック・ラブ と呼ばずに何と称すれ

 

ばよいのでしょうか。理想的な仕事の同士だった。自然に、巧まずしてそうなった、青い糸で前世から結ばれていたのだと強く感

 

じている。

 

 私はその人を 人生の達人 と名付け、自分自身を 幸福長者 と考えている。その人は実に博愛衆に及ぼす如き、愛情に満ち

 

溢れた神の化身の様なお方でした。監督から小道具さんに至るまで、優秀な職人には心からの敬意を以て接し、上から見下ろす様

 

な態度は決して取らなかった。俳優に対しても、主役級の人気スターには勿論、端役の無名に等しい役者にも温かい目で接した

 

だけでなく、あたうる限りの慈愛を注いだ。私も、その中の一人なのですが、私の場合はこちらからも全身全霊を以てその深い

 

愛情に報いた。

 

 私達の仲を「局プロと出入り業者との癒着」と形容するのは当たらない。その人も私も「癒着」をこの世で一番に毛嫌いする一

 

人なので、その人は潔癖などとは生ぬるい表現で、その種の馴れ合いを蛇蝎の如くに嫌う性格でした。

 

 愛するに値するから豊かな愛情を注入するのであって、そういう立場も、資格も共に有して、悠々自適の仕事ぶりを発揮された

 

ある種無私の清潔な人格者でもあった。類は友を呼ぶ、とか、私も彼も共にこの世に「遊び戯れる」為に生を享けたので、遊びと

 

は命がけでやってこそその醍醐味が解る体のものなのですね。

 

 遊びをせんとや生まれけん、遊ぶ子供の声聞けば、我が身さえこそ ゆるがるれ、と昔の遊女が詠んでいますが、子供達は本能

 

的に遊びの大切さを知っている。私は今年で八十歳を迎えますが、精神年齢は十歳の少年であると心得ています。大人になるとは

 

遊び心を忘れる事を意味するのでしょう。現代の不幸を言うならば、この何よりも大切な 遊び をないがしろにしている文化の

 

在り様に問題があるので、遊びさえ健全であれば物質的な貧困などは重大視するに足らないと言ったら、言い過ぎでしょうか。

 

 今でも餓死する程ではないにしても、貧乏の侘しさを骨の髄まで知り尽くしている私の言葉ですので、言い過ぎは御勘弁くださ

 

い。

 

 ここでちょっと、食べ物の話を話題にしてみましょう。神田に「ぼたん」と言う有名な鳥すきの老舗がありますが、その人と付

 

き合い始めた頃に紹介されて一緒によく通ったものです。辛口の菊政宗を飲みながら食べるすき焼きは実に絶品です。私は幼少期

 

を母親の実家のあった茨城県の土浦で過ごしましたが、庭に放し飼いにした鶏を常時十数羽飼育していて、一羽ずつ潰して食する

 

本当に贅沢な体験を有していましたので、鳥料理に関しては舌が贅沢に馴れていたので出来るだけ敬遠していたのですが、「ぼた

 

ん」の鳥は文句なく気に入ってしまいましたね。

 

 ある時、仕事を離れてその人と世間話をしていた際に、「結局、バカ殿にされてしまうんだ、古屋ちゃん」と不満を吐露したの

 

でした。東映との仕事をしていての事なのです。組織的にビジネスライクに効率よく仕事をこなしていくのが制作大手のテレビド

 

ラマに対する姿勢ですから、その人の様に現場に極端に傾斜して仕事しようと考えている局プロは迷惑であり、困るのです。敬し

 

て遠ざけるのに如くはないのですね。良い悪いの問題ではなくて、ビジネスと言うものは余りに個人的な趣味嗜好を持ち込むべき

 

ものではなく、利益や効率を優先させてこなすべきものなのですから、東映側のその人に対する姿勢に瑕疵はないわけです。

 

 結局、大手でなくとも仕事はそもそもビジネスライクに効率を重んじてこなしていくものですから、私との仕事以外ではその人

 

の時代劇制作の姿勢を完全に満足させる事は許されない宿命の様なものが厳然として存在していた。

 

 私も下請けの制作会社のプロデューサーとしては異色と言うか、物作りの現場にどっぷりと浸かって自然に仕事を楽しむ事に馴

 

れ切っていたので、そしてそれが許されるような環境が後から考えた場合に上手く整っていたので、仕事を仕事とも感じずに、大

 

変さはあったけれども、それ故に徹底して仕事にのめり込む生活に大満足して、遊園地に迷い込んだ子供よろしく嬉々として毎日

 

を送っていた。私は仕事を「玩具」という感覚で認識はしていなかったけれども、制作現場を「遊園地」と遊び好きの子供の様に

 

エンジョイして、それを不思議とも幸運とも思わずに無我夢中で過ごしていた。

 

 こうした二人が生き馬の目を抜くと言う激烈な社会の中で、童心を忘れない大人として邂逅出来たのは実に神や仏の御引き合わ

 

せとしか言いようがないわけで、まさに現代の奇跡としか表現のしようがないのです。

 

 話は飛びますが、人生の最晩年になってから、一時現役からお役御免になった際に、(結局、その人は局プロとして生涯を終え

 

られたのですが)電話の向こうで男泣きに嗚咽の声を憚る事も無く「古屋ちゃん、俺、どうしていいかわからないよ」と実に悲し

 

気に仰った、その声が今でも忘れられずにいます。仕事をする人間、まして人一倍仕事に打ち込み、楽しみ切った人が定年と言う

 

約束ごとで現場を離れざるを得なくなる事はそれこそ断腸の思いがあったのだろうと、想像されます。

 

 私の場合には、出たとこ勝負というか、先の事など考えるゆとりもなくただ現在に没頭する無計画な生活習慣に慣れ切っていま

 

したので、定年と同時に次のステップへと何らのこれといった痛みも覚えずに、自然体で移行できましたよ。キャリアカウンセラ

 

ーの資格を取ったり、教員免許を所有していましたから高校教師の真似事や学習塾の講師としてなにがしかの収入を得て、悠々自

 

適と言えば言い過ぎになりますが結構ノンシャランとしながらも、望外に有意義な生活を満喫出来て、今は一介の年金生活者とし

 

て過不足なく毎日を過ごせているのですから、悪運が強いとしか自分でも形容のしようもなく、ただただ感謝しないではいられな

 

いわけであります。