薫の大将は宇治からの悲報を受けて、仲信を使いに弔問したのだった―。
仲信の報告を薫は「やっぱり大層あっけなくて、張り合いのない事であるよ」と聞いたが、「宇治はやはり心が塞ぐ
場所であるよ。鬼などの恐ろしい魔物が住んでいるのであろうよ。私は何だってそのような所に浮舟を据えて置いたのであろう
カ。匂宮が通うという意外な方面の間違いがかつて起こる様な具合であったのも、私が手放しで浮舟を宇治に囲っていたせいであ
る。それで匂宮も安心して彼女を言い犯してしまったものであろう」と思うにつけても、のんびりと油断していた自分の心が
残念であり、御気分が辛く感じなさる。
女三宮が御病気で御悩みなされ石山寺に参篭している際に、浮舟の事で煩悶なさるのも残念であるから、薫は京都に
留まったのでした。薫は女二宮の許にも御通いなさらない。文で、「大した程度でもござらぬが浮舟の忌々しい不吉な事を
最近に聞いておりますから、気持が悲しみ悩んでござる間であるので、忌み慎むのでそちらには参らないのですよ」などと
御書きなされて、頼りなくて悲しい浮舟との仲を果てしなく御嘆きなさるのだった。
浮舟がこの世に在って顔かたちが非常に愛嬌があり、かって可愛かった様子などが大層恋しく、また悲しく思われるので「
浮舟が存命の時には今の様にはこれほどまでには思いを深めずにいて、どうして暢気に過ごしていたのであるか。ただ今では
恋情を鎮める方法がなくて胸には残念だった事柄が数知れずに湧き出て来る。この様な大君や浮舟などの女性関係で非常に
物思いに耽る宿命なのであったよ。私は様子を別に出家しようと早くから志しながら、出家もせずに普通の人間と
同様の状態で生き永らえていることを御仏は憎らしい奴である、などと私を御覧なさるであろうか。俗人に人の道心を
起こさせようと言うので仏がなさる方便は表面には慈悲心を御隠しなされて、俗人たる私をこのように御悩ませなさる
様な次第でありましょうよ」と薫は内心で思い続けながら、仏道の行いだけを精励なさるのだ。
それはそれで、他方匂宮はまた二三日は呆然となさって物を考えることも出来ない。正気もないままで「どのような
恐ろしい物の怪なのであろうか」などと周囲の人々が騒いでいるが日を経るに従って涙を絞りなされて、悲しみの気持が
納まったのではあるが、浮舟の在りし日の思い出は大層恋しく、又可愛いと思い出されるのでありました。
周囲の者にはただ御病が重いのだとだけ見せて、「この様に理由もなく涙ぐんだ御顔の様子を知られたくはない」と
賢明に隠しなされているのだが、自然に非常に顕著に目立つので人々は、「どのような理由で宮におかれてはこれ程までに
思い惑われていらっしゃるのであろうか。御命が危ないとまで物思いに御耽りなされていらっしゃいます」と言う人も
あり、薫の殿様におかせられても匂宮のこの非常な御愁嘆を御聞きなされて、「やはり思った通りであるよ、浮舟とは
直接逢わないで消息文だけをやり取りしていたのではなかったのだよ。会ってみれば匂宮が消息の往来だけではなくて
必ず御自分の手に入れようと御考えなさる浮舟の御容姿であったよ。であるから、浮舟が存命であったならば匂宮と
私とが何の関係もない間柄であるよりも、どうも身内で親しいから馬鹿な事件もきっと出て来るであろうがなあ」と
思うと浮舟を恋焦がれる恋情が少しは覚める気分がなさるのだ。
匂宮の病気の御見舞に毎日宮邸に通わない者はなくて、世間での大騒ぎになった時分に、「大袈裟な身分でもない
浮舟の如き者の喪に籠もっていて、親しい匂宮の病気見舞に行かないでいるのは、それもひねくれていてすねている
様で変あろう」と薫は考えたので、匂宮邸に参上した。
その当時に、式部卿の宮と御申しなされたお方、源氏の弟で八宮の兄、薫には叔父に当たる蜻蛉式部卿の宮も御逝去
なされたので、薫は御叔父の喪なので薄鈍(うすにび、薄墨色)の喪服を着ているのも心の中で、浮舟の為の喪服を
着ているのではあるがしみじみと自然に準じて考えられるので、その場に相応しく感じられるのだった。
薫の大将は少し面痩せして一段とあでやかな事は以前よりも勝っている。御見舞の人々が宮邸を退出して御座所は
静かな夕暮れである。
宮は病床に沈み込んで寝込んでしまう本当の病人ではないので、疎遠な関係な人には会わないけれども、御座所の
御簾の内側に普段御入れなさる人々には対面しないわけではない。匂宮は薫に御会いなさることも気恥ずかしく、心が
疚しいので面白くないのだ。
薫の顔を見るにつけても浮舟を内心で偲んでいるので非常に涙が止め難いほどにせきあげて来るが、やっとのことで我慢して、
「大した病気の気分でないのだがねえ。しかし見舞客の誰もが注意しなければならない病気の状態である、とばかり言うので
今上にも明石中宮にも御騒ぎ為されるのが私には大層辛いので御座るよ。主上や母宮の御心配なされる通りに、成程世の中の
無常に対しても心細く思っているところなのだよ」と仰って袖で涙を押し拭い紛らわしなさる。匂宮が流しなさる涙が
そのままで袖にとどまらないで降り落ちるので、匂宮は大層極まりが悪いけれども「必ずしも浮舟故の涙であると薫が
思うであろうか。そうではなくて、只女々しくて気の弱いものであると見えるであろう」と宮が思われるのも、「そうである
なあ、ただひたすらに浮舟の事だけを思っているのであろう。二人の関係は何時頃からのことであろう。二人の関係に気づか
ない私をどれほどに滑稽であると、物笑いなさる御気持で長い間思い続けられておられたであろうか」と薫は思うの
だが、この薫の君は匂宮の腹黒さや浮舟の二心で浮舟に対する悲嘆の情は薄れなされたのに対して、「この上もなく薫は
薄情であるなあ。何かが切実に悲しいと思われる時には、この様な死別の愁傷などでない事柄に関してだけでも、空を飛ぶ
鳥が鳴き渡るのでさえ悲しみの涙が催されて悲しいものだ。自分がこの様に何の理由もなしに気が弱くて涙脆いにつけて
この涙を浮舟思慕のせいであると万が一にも薫が気づいたならば、薄情というほどに人情を解さない人間でもあるまいに。
世の中が無常であるということを身にしみじみと考えた道心の深い人であっても、薫の如くにつれないであろうか」と
匂宮は薫を羨ましいとも、憎らしいとも思われるものの浮舟の形見である薫をしみじみと懐かしいと思うのである。