(左から富弘さん、渡邊さお里さん、フミヤス。 渡邊さお里さんは文化団体「日本の文化伝統そして日本人のこころ」の編集委員)

 

 

 

群馬県の渡良瀬川渓谷にある富弘美術館で、昨日、以前から楽しみにしていた星野富弘さんと詩人の大橋政人さんの対談が催された。

 

 

 

富弘さんは大学を卒業して地元の中学校の教諭となったが、わずか2年後、24歳のとき、クラブ活動の指導演技をしていて頭から落下し、頸髄を損傷して手足の自由を完全に失った。

 

富弘さんは、生涯、手足の動かない車いすの生活となった。

 

 

 

当然ながら、24歳の富弘さんは絶望した。

 

悔やんでも悔やみきれない。

 

富弘さんは来る日も来る日も病室の天井を見ながら、

 

もう死んだほうがよいと思った。

 

富弘さんはお母さんにも辛く当たり、「なんでおれを生んだんだ!」と言って泣かせた。

 

お母さんは、そんな富弘さんを必死に看病しながら、せめて心が通じるようにと、手足の動かない富弘さんの口にペンを咥えさせて文字を書く練習をさせた。

 

富弘さんは最初はやっと点を描くだけで力尽き、何度も癇癪を起こした。

 

富弘さんを支えたのは、お母さんの「自分のいのちに代えても」の必死の愛であった。

 

やがて富弘さんは口にくわえた筆で詩と絵を描き出していく。

 

 

 

それから50年、じつに半世紀、富弘さんは手足が動かないまま、ついに、われわれに大きな感動を与えてくれる詩人・画家となったのだ。

 

富弘さんの詩から伝わってくるのは、おれなどには想像もできないような、断崖絶壁のような絶望と苦悩を何度も何度も乗り超えて来きた人生と、その人生を支えてきたお母さんや奥さんとの偉大な愛である。

 

 

 

おれがはじめて富弘美術館を訪れたのは去年の11月、今回は2回目だが、今回、富弘さん自身が公の場に出るのは数年ぶりのことで、今後はもう公の場に出ることはないかもしれないという話も聞いていた。

 

それで早めに美術館に着いて、対談がはじまる前に、半年ぶりの館内で新たな展示作品を鑑賞していると、まだ対談がはじまる前だというのに、最初から大きな感動の波に襲われた。

 

富弘さんの冒頭の展示作品が語りかけてくる。

 


 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

動ける人が動かないでいるのには忍耐が必要だ

 

私のように動けないものが動けないでいるのに、忍耐など必要だろうか

 

そう気づいた時

 

私の体をぎりぎりに縛りつけていた忍耐という棘(とげ)のはえた縄が

 

フッと解けたような気がした

 

(星野富弘)

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

わたしは傷を持っている

 

でも その傷のところから

 

あなたのやさしさがしみてくる

 

(星野富弘)

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

感動の波に打たれながら4つの展示室をひと通り鑑賞したところで、美術館のロビーホールでいよいよ対談がはじまる。

 

席について間もなく、詩人の大橋政人さんが登場し、そして大勢の関係者に伴われて車いすの富弘さんが登場した。

 

富弘さんは手足は動かないものの、驚くほど表情が豊かで、目も生き生きとしておられ、視線に目力があった。

 

 

 

まず美術館の情熱に満ちた女性学芸員の挨拶があり、次に主催者朝日新聞社の責任者の少しぼーっとした挨拶、そしていよいよ詩人の大橋さんの主導で回答者の立場の富弘さんとの対談がはじまった。

 

しかし対談そのものの内容は、じつに残念なことに、朝日新聞社の責任者がボーッとしていたのが原因なのか、詩人の大橋さんのツッコミの未熟さが原因なのか、いまいち浅い表面的なものとなってしまった。

 

 

 

余談だが、何が浅く表面的だったかというと、

 

たとえば、大橋さんが「いのちより大事なもの」というテーマを富弘さんに投げたとき、富弘さんはまず前振りとして「以前はいのちが何よりも大事という話が多かったように思いますが、東日本大震災くらいから違ってきたように思います」と答えている。これは富弘さんの前振りだ。

 

そこでもし大橋さんが「それは富弘さんご自身はどんなご経験から実感なさいましたか?」とツッコんで聞いていれば、富弘さんは間違いなく 「お母さんとの葛藤からお母さんの神の愛に気づいていく道のり」 について語ったはずだ。それが富弘さんの詩の主題なのだ。そうなれば会場は感動の嵐となったに違いない。

 

しかし大橋さんは何もツッコむことなく、さらっと次のテーマに移ってしまった。富弘さんの話は前振りだけで終わってしまったのだ。大橋さんは1時間という短い時間にユーモア話や自分の作品の話なども盛り込み、しかも多くのテーマを設定したこともあって、すべてのテーマをこの調子でさらっと流してしまったので、盛り上がる「間」がなく、観客は半分居眠りしてしまったのだった。

 

→ いのちより大切なもの ― 渡良瀬川の渓谷、富弘美術館にて ―

 

 

 

閑話休題!

 

しかし、そんな不手際な進行であっても、富弘さんの存在が輝きを失うことはなかった。

 

富弘さんが存在しているだけで、その不手際を補って余りあるほどにその偉大な愛が館内に満ちている。富弘さんの姿を見ているだけで胸が詰まり、思わず涙がこぼれそうになる。

 

だから対談中は居眠りしていた観客が、対談終了後の質問受付けではみんな目を覚まし、質問しながらマイクの声が弾み、あるいは感動で質問の声が震え、あるいは涙声になってしまう。

 

そして質問時間が終了した後も、観客の多くは帰ることなく、富弘さんの前に列をなして順にひとりひとり富弘さんに挨拶し、お礼を述べ、語りかけていた。

 

おれもすすめられて富弘さんに挨拶しようと歩を進めたが、4~5人分の距離をおいたところで感動で胸が詰まってしまい、それ以上近づいたら涙があふれてしまいそうで、おれはその場で人々の後ろから富弘さんに頭を下げてお礼をし、その場を離れた。

 

 

 

ところが、そのあと美術館のロビーラウンジのカフェでコーヒーを飲みながら余韻に浸っていると、車いすの富弘さんも大勢の関係者に囲まれながらカフェに入ってきて、おれのすぐ隣のテーブルに着かれた。

 

 

(ラウンジのカフェの隣のテーブルで、左から車いすの富弘さん、後姿の奥さん、関係者のみなさん。 他の関係者のみなさんは別のテーブルに着いた。景観は渡良瀬川の渓谷。)

 

 

 

期せずして、数十分、すぐ近くであたたかな時間と空間を共有し、何度かあたたかい視線もいただいた。

 

 

おれがそろそろ引き上げようと席を立って富弘さんの車いすの脇に行って、「ありがとうございました」と礼を述べると、富弘さんは微笑みながら「こちらこそ」と応えてくれた。

 

何という謙虚さか。

 

この日、鑑賞したばかりの富弘さんの詩が思い出された。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

ブラインドのすき間からさし込む 朝の光の中で

 

二つめのつぼみが六つに割れた 静かに反り返っていく花びらの

 

神秘な光景を見ていたら

 

この花を描いてやろう などと思っていたことを高慢に感じた

 

「花に描かせてもらおう」

 

と思った

 

(星野富弘)

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

おれがカフェを出ると、富弘さんも前後してカフェを出たので、美術館のエントランスでまた富弘さんの一行と一緒になり、彼の関係者が促してくれて富弘さんとの冒頭の写真を撮ってくれた。

 

 

この日、おれは富弘さんの大きな存在に圧倒されっぱなしだった。