文化団体「日本の文化伝統そして日本人のこころ」に、

 

「特集NO3 縄文の万葉集」がスタートした。

 

 

 

縄文日本人は、この日本の地で2万人にわたって愛と和の精神を育んできた。

 

岡山大学や山口大学の研究によると、世界の民族は暴力による死亡率がいずれも10%以上であるが、縄文日本人の暴力による死亡率はわずか1%台である。子どもを含めればわずか0.9%である。

 

縄文日本人は世界に類を見ない平和な、愛と和の民族であった。

 

 

 

しかし2300年前、中国などから弥生人が来襲して縄文日本人を支配し、混成または混血して弥生日本人になると、暴力による死亡率は世界の民族同様に10%を超えた。

 

だから、弥生以降、古代の倭国の大乱~現代に至るまで戦乱や内紛や陰謀が絶えなくなった。

 

 

 

ご存知の通り、万葉集は1200年前に編集されたが、

 

そこにはこの縄文人の精神を守り伝える庶民の歌と、征服者である弥生系の人々の歌の両方が掲載されている。

 

いわば万葉集は縄文と弥生のコラボレーションと言えるかもしれない。

 

 

 

「日本の文化伝統そして日本人のこころ」の編集委員の渡邊さお里は語る。

 

・・・・・・・・・

 

日本最古の歌集、万葉集には、古代の人の心が映し出されています。

 

万葉集に書き記された数々の言葉は1200年前に書き留められたものですが、その中には数千年に及ぶ縄文の人々の愛と和を守り伝えている言葉も少なくないと思われます。

 

だからこそ今も変わらず、美しく愛にあふれ、心を熱くさせる作品が心に飛び込んでくるのです。

 

今も昔も、人々は純粋に人を愛し、ひたむきに生きてきました。

 

 

 

古代の人は、厳しくも美しい自然環境と共存するなかで、目に見えないものへの畏怖を抱き、また、信じてきたのではないでしょうか。

 

想いや祈りなどは言葉にすることにより、「言霊」として言葉に力が授かると信じられ、

 

「結ぶ」ということは、自分の魂を結び込め、愛する人を守るという、祈りの行為だったといわれています。

 

・・・・・・・・・

 

 

 

魂の言葉、祈りで結ぶ恋、縄文の万葉集、おれもドキドキしながら読んでみて、縄文から続く日本女性の愛と和の新鮮な恋心に心を打たれ魂を揺さぶられた。

 

 

 

 

                                                                      →日本の文化伝統そして日本人のこころ

 

 

 

 

 

 

 

(ジェイソン・ステイサム このおやじも道路工事が似合うと思う)

 

 

 

昨日の日中、炎天下だったが、けっこう風がさわやかで、

 

涼やかな木陰の歩道を歩いていると、通り道の正面で道路工事をやっていた。

 

 

 

近づくと、警備員のおやじが直射日光にさらされながら、

 

元気な笑顔で頭を下げて、迂回路を指して、

 

 

警備「こっちにどうぞ!」

 

フミ「どうも。」

 

さっと通り過ぎようとしたら、

 

警備「すみません。ご迷惑をおかけします(^^)」

 

 

警備員はおやじだが、何の屈託もなく、元気な笑顔がさわやかだ。

 

この炎天下の重労働なのに、たいしたもんだ。

 

 

通り過ぎながら、

 

フミ「暑くてたいへんですね。」

 

真っ黒に日焼けしたおやじは真っ白い歯の笑顔を見せながら、

 

警備「ほんと暑いっすね!(^^)」

 

フミ「頑張ってください!(^^)」

 

警備「ありがとうございます!(^^)」

 

 

背中でその声を聴きながら、たったそれだけのことだが、

 

おれはこの警備員のおやじに頭が下がる思いがした。

 

道を歩いているだけで暑がっているおれなんかよりはるかに立派だ。

 

 

おかげで、

 

おやじよ、日本人よ、人類よ、幸いあれ!

 

と、心の底から思いが湧いた。

 

 

 

 

 

 (待機する4基の山車)

 

 

ーー 祇園祭りの興奮に見るイスラエル建国の祭典と縄文日本人の情熱 ーー

 

 

先週、滞在先の熊谷で「熊谷祇園祭り」を見学した。通称「熊谷うちわ祭り」という。

 

 

 

熊谷祇園祭りは、東日本最大の祇園祭りと言われる。何しろスタッフだけで2000名、観客は3日間で延べ75万人にも上る。

 

京都の八坂神社(祇園神社)の分社である熊谷の愛宕八坂神社(愛宕祇園神社)の祭典である。

 

祭りは足かけ5日間続くが、おれが見学したのはメインの夜の興奮のクライマックス。75万人の半数以上はこのクライマックスの夜に集中するので、お祭り広場を中心とする道路はみな人、人、人の洪水で埋まっていた。

 

 

 

祭りはすでに3日前の夜に始まっていて、愛宕八坂神社で大総代(一番偉いおやじ)と役員と宮司によって神社の御霊が神輿(みこし)に遷されている。

 

そして翌早朝、御霊の入った神輿は各町の若頭総勢100名によって担がれ、木遣りと関係者の歓声の中、本宮(愛宕八坂神社)を出発して町々の迎え太鼓に出迎えられながら巡行し、渡御して(いまは川は渡らないが、渡御という名称だけ残っている)、お祭り広場の御仮屋に入る。

 

さらに翌日、10ヶ町の山車(だし)が宮司や役員に率いられて近くの広場に集結し、西へ西へと巡行を開始する。途中、待機していた2ヶ町の山車が合流し、計12ヶ町12基の山車で巡行を続け、お祭り広場に到着すると御仮屋の神輿に礼拝する。

 

夕暮れ、全町の山車がそれぞれに行列を組んで動き始め、街中を巡行しながら各所で「叩き合い」を繰り広げる。

 

叩き合いとは、各町の山車同士が遭遇した際、各々の山車のおやじや若衆たちが鉦(かね)や太鼓を打ち叩いてエールを交わすのだ。その勢いが双方のおやじも若衆も全身の筋肉が激しく躍動するほどに全力で打ち叩くので、まさに「叩き合い」という言葉がぴったりなのだ。

 

それら各所で山車同士の叩き合いのたびに山車が合流し、やがて東西南北から合流してきた山車が再びお祭り広場を目指していく。

 

 

 

そしておれが見学した祭りのメインイベント当日、

 

神輿の安置される御仮屋に宮司、関係役員が集まり、神官の浄衣をまとった大総代が御霊の移された神輿を前に、自ら祝詞を奏上し、玉串を捧げると、

 

徐々に12基の山車が「最後の叩き合い」の地であるお祭り広場周辺に集結し、4軍に分かれて、広場に通じる東西南北の大通りで待機する。

 

 

 

そして、夜、祭りの盛り上がりはクライマックスを迎える。

 

お祭り広場中央北側の御仮屋に鎮座する神輿の正面、大舞台に、歓声とともに大総代が登場して挨拶する。挨拶の中身は意味がないが、盛り上がりはすごい。

 

それから市長のやはり中身はないが盛り上がる挨拶(この市長はこの前も香取神道流の奉納演舞で中身のない挨拶をしていた)、それから締めとして埼玉県知事の上田さんが締まりのない挨拶をしたが、これもまた不思議と盛り上がる。

 

ようするに挨拶の中身はどうでもいいのだ。数千人の関係者と数十万人の観客の熱気と吹き出す汗とエネルギーが歓声となり拍手となってこだまする。おれの浴衣も熱気で浴衣か風呂釜かわからない。この熱気と興奮こそがすべてなのだ。

 

 

 

一連の挨拶が済むと、待機していた4軍12基の山車が鉦と太鼓を全力で打ち叩きながら、四方から、ひしめく群衆を押し分けるようにゆっくり広場中央へと進軍してくる。

 

これは壮観だ。まさに鉦と太鼓を打ち叩きながらの「進軍」なのだ。

 

四方から広場中央の大舞台に向かって4軍12基の山車が勢ぞろいすると、渾身の最後の叩き合いが繰り広げられる。

 

広場は興奮のるつぼとなった。

 

 

 (睨みの効く木遣りのじーさん)

 

 

みんな熱中症で倒れるほど盛り上がったところで、大きな拍子木を持った木遣りのじーさんが大舞台に登壇し、四方に睨みを利かしながらゆっくり拍子木を打ち鳴らし、山車の一基一基に指令を出して、鉦と太鼓を鎮めていく。

 

すべての山車が鎮まって、じーさんが舞台を降りようとすると、ハプニングで後ろの山車の一基が太鼓と鉦を鳴らしてしまった。すると舞台を降りかけたじーさんがぴたりと足を止めて振り向いて睨みつけた。これでその山車もぴたりと鎮まって、広場一面を気迫に満ちた静寂が支配した。

 

たいしたもんだ。

 

こういう腹に力の入った、睨みの効くじーさんが健在でいるうちは、若者たちも健全に育つ。この熊谷の街も安泰だ。

 

 

(響き渡るみごとな木遣りを演じるじーさんたち)

 

 

そして数十万人の気迫が支配するなか、露払いの祭り法被の女子衆が先導して木遣りのじーさんたちが登壇する。

 

広場一面に響き渡る大音声の木遣り。これは見事だ。

 

 

(年番送りの式次第で大総代の登場)

 

 

それから年番送り(大総代の交代)の式次第。

 

司会のおやじのマイクの声が熱気と興奮と、圧倒的な感激に感極まって、ついに涙声になってしまった。

 

 

 

そしていよいよ最後の最後、12基が一斉に、腕の筋肉も破裂しろとばかりの全身全霊の最後の叩き合いとなった。

 

この暑さで倒れた者も相当いたのではないか。

 

 

 

この興奮のるつぼで、おれは熱気と吹き出す汗にまみれながら、この祭りのストーリーがはるか遠い昔に自ら体験したような、懐かしさが駆け巡るような思いに駆られた。

 

観衆の多くはそういう思いに駆られていたのではないか。

 

 

 

ユダヤのラビ・トケイヤーは、「京都の祇園神社では、毎年、祇園祭のときに男たちがお神輿をかついで川に入り、川を渡る。こうした光景は私には、かつてイスラエル民族の祭司たちが契約の箱(神輿)を担いでヨルダン川を渡ったという出来事の再現に見えてならない。」と述べている。

 

3300年前、イスラエル12部族は、大総代ヨシュアに率いられ、神輿(神の契約の箱)を担いでヨルダン川を西岸へと渡った。

 

そして神輿は仮屋に安置され、イスラエル12部族は4軍団に分かれて西へ西へと進軍し、ヨルダン川の西側に居住していたカナン人を大量虐殺し、征服し、そしてイスラエル王国を建国する。現在のイスラエル共和国と同じ土地である。

 

ラビ・トケイヤーの言うとおり、祇園祭りのストーリーは、3300年前のイスラエル王国建国の歴史的事実とまったく同じなのだ。

 

 

 

なぜ、2万年に亘ってこの日本の地で愛と和の精神を培ってきた日本人が、今から3300年前のイスラエルの殺戮と征服の建国の歴史を「祭り」として再現し、しかも懐かしくさえ感じるのか。

 

そうして建国されたイスラエル王国は、ダビデ王、ソロモン王のとき隆盛を極めるが、その後分裂し、イスラエル12部族のうち10部族は北王国に、2部族(主にユダヤ部族)は南王国へと別れた。

 

そして今から2700年前、北王国は東の強大なアッシリヤ帝国によって滅ぼされ、10部族は東方へ連れ去られ、その後、行方不明となる。いわゆる「イスラエルの失われた十部族」である。

 

ちなみにイスラエルの地には南王国の主にユダヤ部族だけが残り、後にユダヤ人として世界の経済を牛耳っていくことになる。

 

 

 

失われたイスラエル10部族はどうなったのか?

 

これは長らく行方不明のままであったが、20世紀に入ってイスラエル共和国が建国されると各地に調査員が派遣され、その足跡が徐々に解明されるようになった。

 

すなわち今から2600年前に支配者アッシリア帝国が滅ぶと、イスラエル10部族は世界各地に分散していったのだ。

 

たとえば一部はエチオピアへ移住した。このエチオピアのイスラエル人は、20世紀にイスラエル共和国政府の援助によって2700年ぶりにイスラエルの地に帰還している。

 

また一部はアフガニスタンに居住した。現在もアフガニスタンには、失われたイスラエル10部族の一つであるヨセフ部族の末裔だという民族がいる。

 

そして一部は中国に移住した。宋代まで、開封にはイスラエル人の街が存在したのである。また現在の中国の少数民族である回族の多くは古代イスラエル人の末裔がイスラム教に改宗したものだという説も有力である。

 

さらに一部は、今から2300年前、弥生人の一派として日本に侵攻し、侵略して、移住したとする説があるが、それは真実味がある。

 

 

 

日本ではいまだに天皇や支配階級は神聖にして犯すべからずという不文律があって、またそれを死守しようとする右翼主義者も多かったため、研究者たちは天皇たちの出自を解明しようとしない。

 

 

 

しかし、古代イスラエル人が大事に担いできた神輿が現存し、その神輿を古代イスラエル人と同じやり方で担ぎ、しかも古代イスラエル建国という歴史的事実をモチーフとする祭りを毎年津々浦々で執り行っている民族は、世界で日本だけである。

 

その他にも日本人とイスラエル人との共通性は驚くほど多い。これら物証から類推すれば、2300年前に神輿を担いで日本に渡来し、縄文日本人を虐殺し征服した弥生人の一部はじつは失われたイスラエル十部族の一部であったと考えるのが自然である。

 

いや、弥生人の一部がイスラエル人であったと言うより、これらイスラエルの神輿の祭りがその後の日本の祭りの中核をなしているのを見れば、天皇一族や秦氏など弥生人の中核メンバーこそがイスラエル人であったと考えるほうが理に適っている。

 

 

 

ただし、おれは天皇の神聖を犯そうと言っているのではない。

 

もしこれらの推論が正しいなら(おそらく正しいのだが)、愛と和の精神を2万年に渡って培ってきた縄文日本人がわれわれ現代日本人の祖先であるのと同時に、2300年前にその平和な社会を暴力でもって侵略し征服して支配したイスラエル弥生人もまたわれわれ現代日本人の祖先だということである。

 

先々週、おれの仮説として、剣道とは、弥生人が持ち込んできた殺人のための剣術に、愛と和を貴ぶ縄文日本人の克己心が融合し、単なる殺人の剣術から「愛と和のために己に勝つ克己心を磨く剣道」へとアウフヘーベンした(高い境地に上った)ものではないか、と書いたが、この祇園祭りも同じではないのか。

 

イスラエルが持ち込んできた「侵略と殺戮の建国の祭り」を、征服されて抑圧された縄文日本人の熱い血が「愛と和と情熱を発露する祭り」に作り変えてきたのではないか。

 

だからわれわれ日本人にとって、祭りの元々の意味なんてどうでもいいのだ。支配者となったイスラエル弥生人のお題目が何であってもいいし、だからその延長でいまの県知事や市長の話に中身がなくてもいいのである。

 

いまや、この祭りは、愛と和を貴ぶ縄文日本人の熱い血が噴出し発露する、愛と和と情熱の祭りとなったのだ。

 

 

 

おれは東日本最大の祇園祭りの熱気と興奮を肌に感じながら、吹き出す汗とともに、同時に東日本大震災で家族も家も仕事も失いながらも互いに争うことなく助け合い、励まし合った縄文日本人の熱い血を思い起こした。

 

そして日本人として己自身も引き継ぐ縄文日本人の愛と和の精神を再確認して感動し、感謝の思いが沸き起こるとともに、また己自身の中に共存する弥生人の征服・侵略の精神も自覚し、それゆえ克己心もまた奮い立たせなければならないと感じて、興奮と熱気と噴き出す汗にもかかわらず、身が引き締まる思いがした。

 

 

 

 

 

 

 

 

追伸) 本文が文化団体「日本の文化伝統そして日本人のこころ」のHP の「おすすめの読み物」欄に掲載されました。


 

 

 

 

(財)日本総合戦略研究所は、坂上芳洋理事長(日米軍の合同演習のときの日本側総司令官)を中心として政府関係者への提言を行ってきたが、今まで一般の国民同胞とはほとんど接点がなかった。

 

そこで、先月末、このブログでもご紹介したとおり、一般の日本国民同胞のみなさまとも情報交換し、互いに学び合いながら、大和魂を蘇生し合える情報を発信していこうということになり、そのための新ホームページも開設された。

 

 

 

すると、さっそく40代の主婦の方からご質問が寄せられた。

 

ご質問 「北朝鮮のミサイルが心配ですが、私たちが安心して暮らせるようにするためには、どんな防衛の方策がありますか?」

 

 

 

それで、坂上理事長がその方策について丁寧に回答した。

 

その冒頭だけご紹介すると、

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

回答者 : 理事長 坂上芳洋

 

心配されているミサイルは弾道ミサイルの事で、最大の特徴は、大気圏の上まで飛び上がって目標まで飛んでいきます。

 

これが弾道ミサイルという呼び方の由来でもあり、宇宙まで飛んでいってから弧を描いて目標へ飛んでいく様子が、砲弾の飛び方と似ている事から弾道ミサイルと呼ばれます。

 

北朝鮮のニュースを見ていると、「ノドン」や「テポドン」という変わった名前を聞きますよね。簡単に言うと飛ぶ距離が違うのです。

 

参考として、北朝鮮が持っている代表的な弾道ミサイルの射程を見てみましょう。

 

(以下、本文へ)

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

こののち坂上理事長は、日本人同胞のみなさまの安全と平和を守るための方策について述べ、現在の防衛体制を簡潔に解説し、有事の際のみなさまの行動指針を述べ、


最後に「みなさまの安全と平和は私たちがお守りします。」と結んでいる。

 

いざ有事の時のためにも、ぜひご一読ください。

 

 

          → ㈶日本総合戦略研究所 新サイト

 

 

 

 

 

 

 

 

 

連休の滞在先の熊谷で、上川原・神道香取流棒術の奉納演舞を見学した。

 

 

棒術と呼称されているが、その技法は本山成田の香取神道流と同じく軽い木刀を使用し、技法は剣術そのものだと感じた。

 

見学後、文献をひくと、やはり「この棒術は江戸時代当初は香取流剣術と言われていた」とあった。実質は剣術であるが、何かの理由で棒術と呼称したのだろう。

 

 

 

演舞は、まず将来を担う少年にベテランのおやじが相方を務める演舞で始まり、次に同じく将来を担う少女にベテランのじーさんが相方を務める演舞を披露し、この二組をもって前座とした。

 

それから本番の香取神宮分霊への奉納演舞を三組、

 

そこで市長と県議のあまり意味のない挨拶を挟んで、さらに三組の奉納演舞をもって完了した。

 

 

 

この地元の保存会のおやじたちの真剣で毅然とした古式の奉納演舞は、じつに懐かしく、故郷に帰ったような、克己心を思い起こさせてくれた。

 

 

 

人類がいまだ進化中であり、未完成である以上、人は、大いなる愛と和の喜びに感動し感謝しながらも、ときに不安に陥り、ときに恐れを抱き、ときに欲望に苛まれる。

 

してみると、人は大いなる感謝とともに、未完成の己に打ち勝つ克己心なくしては「愛」も「和」も持続できないのではないか。

 

 

 

とくに日本人の精神は、この日本の地で2万年にわたって育まれてきた愛と和の精神である。

 

岡山大学や山口大学の研究によると、世界の各民族の死因のうち、海外の民族では暴力による死亡率がいずれも10%以上であるのに対し、日本の縄文人の暴力による死亡率はわずか1%台だった。子どもを含めればわずか0.9%である。

 

縄文日本人はほとんど争わず、愛と和の精神を貫いてきたのである。

 

それは縄文日本人が大いなる感謝の念を持って生きてきたと同時に、未完成の己に打ち勝つ心、静かで内省的な克己心を貫いてきたということではないか。

 

 

 

おそらく、愛と和を貴ぶ縄文日本人には武器は必要なかったのだから、武器としての剣そのものは2300年前から日本の地に攻め込んできた弥生人が持ち込んできたものであると思う。

 

しかし、縄文日本人は弥生人に攻撃され、殺され、収奪され、犯され、征服されながらも、そして兵役を課されて慣れない戦闘に駆り出されながらも、やがて弥生人と協調し、融合しながら、愛と和の精神を伝え続けた。

 

おれの仮説にすぎないが、剣道とは、愛と和を貴ぶ縄文日本人の克己心が、弥生人の殺人武術と融合したものではないか。そして弥生人の単なる殺人のための剣術から、愛と和のために克己心を鍛錬する「剣の道」へとアウフヘーベンした(いちだん高い境地に上った)のではないだろうか、と感じたのである。

 

 

 

このじーさん(右)は80歳くらいと思われる。生涯、克己の鍛錬を続ける姿勢に頭が下がった

 

 

 

ちなみに香取流神道は室町時代中期に創始された武術流儀で、日本の三大兵法の一つ。剣神を祀る香取神宮において,飯篠家直(いいざさいえなお)によって創始された。他の二つの兵法は「念流」と「陰流」である。

 

香取神道流の流儀の特徴は、常に実戦を念頭に置き、相手の攻撃に対し一瞬早い反撃によって必ず倒すという、すべての技に一撃必殺の工夫がなされていることだという。代表的な剣豪には、松本備前守、塚原卜伝、上泉信綱がいる。

 

帰りがけに保存会会長の話を聞くと、ここ上川原の神道香取流棒術は江戸時代初期に中津川亦右衛門によってこの地に伝えられ、1958年には熊谷市の文化財に指定されている。

 

 

 

もっと強くなるために香取神宮の剣神に拝礼するのは弥生の武術だが、

縄文日本人の拝礼は、愛と和の真実の神に大いなる感謝を捧げるとともに、己の未完成をお詫びし、克己の心を誓うものだと思う。

 

 


 

 

 

追伸) 本文が㈶日本総合戦略研究所のHPに掲載されました。

 

追々伸) 本文が文化団体「日本の文化伝統そして日本人のこころ」のHPに掲載されました。