(水森亜土さん作)

 

 

 

先週の文化学院の記事を読んでくれたアメ友のきゅうぴい子さんが、

 

2017年暮れに出版された 「人生で大切なことは月光荘おじさんから学んだ」 を紹介してくれた。

 

文化学院が創立されたのと同じ時代の文化人たちの交流やその心意気が感じられるということなので、さっそく取り寄せて、昨日、目を通してみた。

 

ひと言で感想を言えば・・・素晴らしい!の一語。

 

 

 

月光荘は銀座の画材屋さんで、店名の 「月光荘」 は与謝野晶子の命名である。

 

月光荘を舞台にして行き交った文化人は、

 

大正時代からの与謝野晶子、鉄幹、猪熊弦一郎、藤田嗣治、梅原龍三郎、西村伊作(文化学院初代校長)、永井荷風などの歴史的芸術家たちからはじまり、

 

戦後に女子高時代から月光荘に通った水野スウ、立原えりか、水森亜土など現代を生きる芸術家たちに至るまで、日本を代表する文化人を網羅している。

 

 

 

月光荘は、彼ら日本を代表する文化人、芸術家たちに大きな影響を与えてきたのだった。

 

そしておれ自身もまた人生で大切なことを月光荘おじさんから学ぶこととなった。

 

 

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ときは明治の中ごろ、兵蔵さんは北アルプスの雪解け水が日本海にそそぐ富山県に生まれた。

 

好奇心旺盛な少年は、山野の草花の素朴な色合いに心をときめかせ、虫や鳥たちと過ごしながら、時間を見つけては書籍に親しんでまだ見ぬ広い世界に思いを膨らませていた。

 

兵蔵さんは、貧しい暮らしの中で小学校を卒業するとすぐに農業を手伝うようになったが、18歳になったある日、決意して一人列車に飛び乗って、一路東京へと向かった。

 

 

 

東京では郵便配達から運転手までどんな仕事も一生懸命にやったが、数年後、さる有力者宅に書生として住み込みで働くことになった。

 

これが兵蔵さんの運命を変えることになる。

 

そのお宅の向かいの家が与謝野晶子の自宅だったのだ。

 

 

 

かねてより富山の田舎で与謝野晶子の歌集を愛読していた兵蔵さんの胸は高鳴った。

 

そしてある日、思い切って与謝野宅のドアベルを鳴らした。

 

兵蔵さん、21歳のときである。

 

 

 

はたして与謝野晶子、鉄幹の夫妻は兵蔵さんを快く迎え入れてくれた。

 

そしてそのうち自宅に集まる当代一流の文化人、芸術家たちを紹介してくれるようになった。

 

北原白秋、石川啄木、高村光太郎、藤島武二、梅原龍三郎、有島生馬、岡田三郎助、芥川龍之介、島崎藤村、藤田嗣治などである。

 

 

 

兵蔵さんは目の前にいる大人たちこそがこれからの日本を引っ張っていく人たちなのだと感じ、目を見開いて、一言一句を聞き逃すまいと食い入るように知識を吸収していった。

 

日本を代表する大人たちはそんな兵蔵さんを面白がり、可愛がるようになっていったのだった。

 

やがて兵蔵さんの心の中にはそれまで全く知らなかった芸術の世界が広がり、芸術家たちの 「ものを見る目」 「表現を追い求める姿勢」 などに心を奪われていく。

 

そして、何とかこの魅力的な人たちのために自分がお役に立てることはないか、と真剣に考えるようになった。

 

 

 

そして天職を得るときが来る。

 

当時、画家たちは、国内に上質の絵の具がなかったので、ヨーロッパからの輸入に頼っていた。しかし船便は2か月以上かかるうえ、遠い異国の事情でなかなか思い通りの画材も手に入らなかった。

 

与謝野家に集まる芸術家たちは兵蔵さんに 「色彩に関する仕事をしてみたらどうか?」 と助言する。

 

兵蔵さんの心に一筋の光が射した。

 

兵蔵さんは固い決心をする。

 

芸術というこの大きなものに心血を注いでいる先生方に少しでもお役に立つことに、自分の一生をかけよう。

 

 

 

兵蔵さんはヨーロッパから絵の具の輸入を始めた。荷が港に着くと、雨風が酷かろうと、台風であろうと、絵の具を心待ちにしている絵描きのアトリエまで自転車を漕いで届けて回った。

 

届けに行った先で、絵描きたちから画材についての不満や改善点の希望を聞くと、次に訪れるときには試作品を持っていって試してもらった。

 

この繰り返しをひたすら続けた。

 

こうして兵蔵さんは絵描きたちから絶大な信頼を得ていったのだった。

 

 

 

そして1917年、兵蔵さん23歳のとき、新宿にはじめて店を出したのである。

 

最初に与謝野家のドアベルを鳴らしてから2年後のことであった。

 

 

 

与謝野晶子が開店のはなむけに一首詠んだ。

 

 

大空の 月の中より君来しや ひるも光りぬ 夜も光りぬ

 

 

芸術家の作品が太陽だとすれば、絵の具屋はそれを支える月の光。

 

 

 

ここに 「月光荘」 が誕生したのである。

 

以来、兵蔵さんはこの恩を忘れぬようにと、まだ20代であったが、自らを 「月光荘のおやじ」 「月光荘のおじさん」 と名乗る。

 

(つづく)

 

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「人生で大切なことは月光荘おじさんから学んだ」 より

一部を要約 (フミヤス流)

 

 

 

 

 

長くなるので今日はここまでにしたいが、

 

じつはこの本はここからがすごい。

 

こうして、読み進むうちに、おれ自身もまた人生で大切なことを月光荘おじさんから学ぶこととなったのだ。

 

 

 

本当は、(財)日本総合戦略研究所の坂上理事長の継続記事が先週の東京新聞に掲載され、また水上治理事長の(財)国際健康医療研究所の新HPが週末に立ち上がったので、今日はそのいずれかを書こうと思っていたのだが、

 

人生は何よりも学びと感動が大切である。

 

次回も今日の続きで、この月光荘おじさんからおれ自身も学んだ 「すごいこと」 を書いてみたい。

 

きゅうぴい子さん、素晴らしい本を紹介してくれてありがとう!

 

 

 

(つづく)