竹神社

 

 

三重県多気郡明和町にある竹神社は、斎宮の一角にあり、もともとは宇志葉神社(野々宮神社)が鎮座していました。明治四十四年(1911年)に旧斎宮村内の25社(23社ともいう)を合祀し、この地に移されました。

だからでしょうか。ご祭神が多いです。

 

大伯(おおく)皇女が斎王になり、そのとき麻績氏は斎宮頭に任ぜられ、この麻績氏の祖が長白羽命(ながしらはのみこと)で竹神社の主祭神として祀られています。

  • 長白羽神(ながしらはのかみ)
  • 天照大御神(あまてらすおおみかみ)
  • 建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)
  • 八柱神(やはしらのかみ)
  • 応神天皇(おうじんてんのう)
  • 地主神(とこぬしのかみ)
  • 火産霊神(ほむすびのかみ)
  • 宇迦御魂神(うかのみたまのかみ)
  • 大己貴命(おおなむちのみこと)
  • 天棚機姫命(あめたなばたひめのみこと)
  • 八千々姫命(やちぢひめのみこと)
  • 瀬織津姫神(せおりつひめのかみ)


斎宮歴史博物館がある「ふるさと芝生広場」南の森の中に、移される前の竹神社の跡があり「式内郷社竹神社御趾」の石碑が立っています平安時代(784~1198年)の大規模な塀列や掘立柱建物の跡が発掘されており、竹神社は斎王の野々宮があった場所とされます。

 

 

竹神社の「竹」は古代の郡名「多気(たけ)」によります。というより「竹」に一文字一音をあてて「多気」と記すようになっていたものを元に戻したと言った方が正しいでしょう。

案内図で見ると、斎王の宮殿跡は次に示す地図の中心あたりに「斎宮跡」として示されています。斎宮と野々宮の関係が気になって出かけてきました。

 

斎宮は、斎王の宮殿ですね。

竹神社のある野々宮は、斎王が伊勢神宮に向かう途中で心身を清めるための潔斎所のようです。各地にある「野々宮」や「野宮」の名称は、この明和町の竹神社の野々宮が発祥とされています。

 

ちなみに、京都市右京区西院日照町にある西院 野々宮神社の御祭神は、倭姫命と布勢内親王です。倭姫命は、第十一代垂仁天皇の第四皇女で天照大神の御霊が宿る鏡を伊勢神宮にもたらした皇女です。また布勢内親王(ふせないしんのう)は、第五十代桓武天皇の第五皇女で平安時代最初の斎王(797~806年)です。

また、京都市右京区嵯峨野の野宮神社の御祭神は、野宮大神(天照皇大神)となっています。

 

竹神社ご由緒

 

先に示したとおり、このご由緒では、麻績氏の祖が長白羽命と書かれています。

ところが、三重県神社庁による竹神社の由緒では、

第十一代垂仁天皇の御代、竹連(たけのむらじの祖宇加之日子の子の吉日子が、天照大神を奉じて伊勢御巡行中の倭姫命のお供をしてこの地に留まり多気郡一円を領して斎宮に住む。この竹氏の子孫が祖神宇加之日子・吉日子を祀ったのが当社である。」(三重県神社庁)とあります。

 

ですから、野々宮は、私なりに解釈すれば、斎宮頭に任ぜられ麻績氏が建立し、その麻績氏の祖である長白羽命(ながしらはのみこと)を祀る神社であり、また天照大神の鏡を携えて倭姫命に同行した竹氏の祖神も長白羽命ということになりますね。

 

麻績氏と竹氏が同一の氏なのか、もしくは2つの伝承があるのかでしょう。

 

現在の竹神社です。

まずは、境内図です。わかりやすいように色づけしました。

 

 

竹神社の手水は綺麗に飾ってありますよ」と、斎宮歴史博物館の土産店の女性に勧められ、何はともあれ花手水へ。

竹の音がいいですね。

 

 

 

 

入ってきた鳥居の方を見て、境内をぐるっと見回します。

 

 

 

謡曲「絵馬」と竹神社の説明書きがあります。

この説明では「絵馬」の具体的な事がわからないですね。

竹神社の神宝になっている「絵馬」は、馬が背追った稲束の色によって豊兇を占うものだそうです。

または、雨乞いには黒い馬の「絵馬」、長雨を止めるには白い馬の「絵馬」で願掛けするともあります。やはり2つの伝承があるのでしょうか。

 

イメージ

 

さらにぐるっと回ると本殿が見えます。

 

 

拝殿正面

 

 

 

提灯が風に吹かれてゆっくりとゆらゆらしています。

 

 

 

 

本殿

 

 

蛇足です。

寛政九年(1797年)に刊行された伊勢参宮の案内書『伊勢参宮名所図会』によれば、

伊勢神宮の内宮や外宮も伊勢神宮の屋根は、茅葺きですね。

 

斎宮の建物の屋根は、檜皮(ひわだ)葺きの屋根とされます。

竹神社の本殿も、檜皮葺きの屋根です。

瓦葺きは仏教的な影響があるので神社には使われなかったようです。