NHKの朝ドラの舞台に使われている施設のひとつは、この名古屋市市政資料館ですね。

いつもより、ずいぶん人が多いです。

 

 

 

さて、本日5月18日(土)、古代史の研究会が行っている毎月の例会が、いつもと同じく、この名古屋市市政資料館でありました。

 

このときの話題は、仏教伝来以前の「古神道」(神道)と様々な宗教と混ざり合った「現神道」(神社神道)の違い、「本地垂迹」(ほんじすいじゃく)や「神仏分離」と「廃仏毀釈」など、また「山岳信仰」や「岩石信仰」、さらには「伊勢信仰」に関する論議が主体でした。

 

最後には、斎宮の造営時期はいつかという議論になり、

①7世紀以前、②7世紀末以降、③8世紀、④13世紀の大きく4つの考えに分かれました。

 

 

①に関しては、

垂仁天皇二十五年三月条に次のとおりあります。

故隨大神教 其祠立於伊勢國 因興于五十鈴川上 是謂磯宮 則天照大神始自天降之處也

そこで大神の教えに随い、その祠(ほくら)を伊勢国に立てる。よって斎宮を五十鈴川の川上に興す。これ磯宮(いそのみや)という。すなわち天照大神がはじめて天より降りた所なり。(泉城による)

 

この垂仁(すいにん)天皇25年をいつと見るかによって、①の中でも時期が変わります。垂仁天皇二十五年を皇紀656年として紀元前5年とみる考えがありますが、通常は垂仁天皇の実在を世紀から4世紀ごろと推測されます。

 

②は、天武天皇即位二年の記事に立ち、壬申の乱の翌年673年に天武天皇が天照大神を望拝した記事を持って、このときに斎宮が出来たとみます。

丙戌旦 於朝明郡迹太川邊 望拜天照大神

(天武天皇即位元年、673年)六月二十六日の朝に、朝明郡(あさけのこおり)の迹太川(とおかわ、三重県の朝明川)の川辺で、天照大神を望拝す。

夏四月丙辰朔己巳 欲遣侍大來皇女于天照太神宮 而令居泊瀬齋宮

(天武天皇即位二年、674年)夏四月十四日に大来皇女(おおくのひめみこ)を天照太神宮に遣り、侍らせすと欲し、泊瀬斎宮(はつせのいつきのみや)に居らす。
 

③は、斎宮寮は、『続日本紀』 神亀四年(727年)に「八月壬戌、補斎宮寮官人一百廿一人」とあって、斎宮寮官121名の任命記事から、8世紀とします。

このほか宝亀二年(771年)十一月十八日条、延暦四年(785年)四月二十三日条に斎宮造営の記事があります。

庚子遣鍛冶正従五位下気太王造斎宮於伊勢国

丁亥従五位上紀朝臣作良為造斎宮長官

 

④は鎌倉時代、1274年・1281年の元寇により「日本は神国」という神国思想が生まれ、伊勢神宮の参詣者の案内や宿泊を生業とする御師(おんし)の登場と共に斎宮が建立されたとの考えのようです。

 

私は、①で示したとおり『日本書紀』の垂仁天皇二十五年三月条に五十鈴川の川上に斎宮を興したとする記事が斎宮の初見で、これを否定する根拠を持たないので、書紀の記事に従いたいと思います。

 

五十鈴川の川上に興したとされる斎宮の場所は、伊勢神宮の川上にある「恵利原の水穴」ではないかと想像しています。

 

 

もともとは、このような素朴なものではないでしょうか。

恵利原の水穴