これまで白村江の戦いに関していくつかの論考や小説を読んできました。

森公章と倉本一宏の著書は、史書の記事をなぞらえながらも、ほぼそれらは共通した「推測」や「想像」でつづられています。荒山徹の小説はその推測をさらにエンターテイメントにしています。

 

前回、紹介したとおり、倉本一宏は、森公章の文章をそのまま引用して、白村江の敗因について考えを述べています。しかし、私に言わせれば、そのほとんどが史書に書かれていない内容であり「妄想」です。再度取り上げて問題の箇所に黄色でマーカーします。

 

「白村江の戦の敗因として、小出しに兵を送るという戦略の欠陥豪族軍と国造軍の寄せ集めに過ぎないという軍事編成の未熟さいたずらに突撃をくりかえすという作戦の愚かさ、そして百済復興軍の内部分裂などが指摘されている。それはたしかに、五世紀から六世紀にかけて、同様の戦略でそれなりの成功を収めてきたという過去の経験に依存し、中国王朝の直接介入という今回の状況をじゅうぶんに考慮していないことからくる認識不足の結果であった。」(『戦争の日本古代史』151頁)

 

 

今回ご紹介するのは『日本書紀研究第三十四冊』(日本書紀研究会、塙書房、2022年)に収められた、若井敏明の『白村江の戦いの再検討』についてです。

白村江の戦いに関して、これで打ち止めかな。

 

若井敏明は、関西大学、仏教大学などの非常勤講師で、その著書には『邪馬台国の滅亡』や『謎の九州王権」などがあります。

 

著書名からもわかるように、若井敏明は邪馬台国九州説を支持しており、かつ記紀を重視すべきとの立場の歴史学者です。

 

 

<通説の確認>

本書では、まず始めに白村江の戦いの通説について述べています。

池内宏の『百済滅亡後の動乱及び唐・羅・日三国の関係』(『満鮮史研究』上世第二冊、吉川弘文館、1960年)をあげ、そして坂元義種が執筆した『国史大事典』の「白村江の戦」の項目に記された「日本の百済救援軍が白村江口で唐軍に敗北した戦」の規定をあげています。

 

さらには倉本一宏の『戦争の日本古代史』(講談社現代新書、2017年)をあげ、通説は、「二十七日から二十八日にかけて、倭国の水軍が続々と白村江に到着したものと思われる。(中略)二十八日、倭国軍は唐の水軍と決戦をおこなった。」のとおりとします。この若井敏明の通説についての認識は的確であると思います。

 

ここで述べられている「倭国の水軍」とは、上毛野君稚子(かみつけののきみ わかこ)らが率いる27000人の「主力水軍」のことです。

 

つまり、続々と白村江に到着した倭国の27000人の主力水軍が唐に敗北したという認識であり、その認識は彼らの論文に共通しています。これが通説となっています。

 

通説は、白村江で待ち構えていた唐の水軍に、倭の主力水軍が到着して戦ったという認識です。これが全くおかしいのです。

 

『三国史記』新羅本紀では、倭船千艘 停在白沙」(千艘の倭船が白沙に停泊していた)とあり『旧唐書』劉仁軌伝では「仁軌遇倭兵於白江之口」(劉仁軌は白江の口で倭兵に遇する)とあって、この「遇する」とは「(偶然に)あう」という意味で「出くわす」という意味合いが強いです。

 

例えば「仁軌倭兵於白江之口」は列傳第三十四・劉仁軌(2791頁)の1つ前の列傳第三十三・薛仁貴伝には、

「仁貴遂率先行至河口,遇賊擊破之,斬獲略盡」(中華書局版、薛仁貴、2783頁)とあって、劉仁軌は先頭に立って河口に行き、盗賊に遭遇し、これを撃破したとあります。

 

この劉仁軌と倭船の戦いが、白村江の戦いです。

 

ここは私の想像ですが、なぜ「遇する」というように書かれているかと言えば、劉仁軌としては、周留城の近く、もう少し上流で倭船が城を守っていると思っていたのが、意外にも河口に倭船が停泊していたので「出くわした」と記されたのではないかと思います。

 

 

新羅本紀も劉仁軌伝も倭船が白沙・白江の口にいたところを劉仁軌の唐船が襲った形になっており、通説のように唐船がいるところへあとから次々に倭船がやってきた状況とはまるで反対なのです。防衛している方と攻撃しようとしている方が逆なのです。

 

周留城を守っているのが百済・倭軍であり、そこを攻めるのが唐・新羅軍ですから、立場からしても通説ではおかしいと思います。

 

<若井敏明の主張>

さて。先に私の考えを述べてしまいました。

これから紹介する若井敏明の考えも私と同じです。

 

通説に対して、若井は、次の点から倭の水軍を指揮していたのは、上毛野君らが率いる27000人の倭國の主力水軍ではなく、周留城の軍勢であると主張されています。

 

周留城の軍勢とは、扶余豊璋と、その豊璋を百済に衛送し、その後も周留城に籠城していた朴市田米津(えちのたくつ)狭井檳榔(さいのあじまさ)らです

 

主力水軍を詳しく記せば、天智天皇2年(663年)3月に新羅攻撃の目的で派遣された、上毛野君稚子(かみつけののきみ わかこ)、間人連大蓋(はしひとのむらじ おほふた)、巨勢神前臣訳語(こせのかむさきのおみ をさ)、三輪君根麻呂(みわのきみ ねまろ)、阿倍引田臣比羅夫(あべのひけたのおみ ひらぶ)、大宅臣鎌柄(おほやけのおみ かまつか)が率いる二万七千人の軍です。この上毛野君らが率いる主力水軍は、6月に新羅の2つの城、沙鼻(さび)と岐奴江(きぬえ)を奪取しており、新羅攻撃の目的を達成しています。その後の動向、白村江での働きについては、どこにも記されていません。

 

倉本一宏はその著書『壬申の乱』において、主力水軍(倉本は、この主力水軍を第2次百済救援軍と呼ぶ)の多くが戦死したことが考えられるとしながらも、半島を迂回して白村江に向かったと匂わせています。

通説では、この主力水軍が朝鮮半島の南の海をぐるっと回って白村江へ向かったものと推測します。

 

 

若井敏明が唐軍と戦った倭軍を周留城の軍勢とする根拠として、次の『日本書紀』天智天皇即位二年(663年)八月二十八日条をあげています。

己酉、日本諸將與百濟王不觀氣象而相謂之曰、我等爭先彼應自退。更率日本亂伍中軍之卒、進打大唐堅陣之軍、大唐便自左右夾船繞戰。須臾之際官軍敗績、赴水溺死者衆、艫舳不得𢌞旋。朴市田來津、仰天而誓・切齒而嗔、殺數十人、於焉戰死。是時、百濟王豐璋、與數人乘船逃去高麗。

日本の諸将と百済王は気象(状況)を観ずに語り合い曰く、
「我らが争いを先んずれば、彼らは自退するだろう」
更に日本の乱れた伍(つら、仲間の統率)の中の軍率を率いて、大唐の堅い陣を打つために進む。大唐は左右より船を挟み回って戦う。須臾之際(ときの間に)、官軍は破れ続けた。水に落ち溺れ死ぬ者は多く、船の舳先と船尾を回旋させられず。

朴市田米津(えちのたくつ)は天を仰ぎ誓い、歯を食いしばり、数十人を殺すが戦死す。この時、百済王扶余豊璋は数人と船に乗り高麗に逃げ去る。

 

これをしっかり読めば、

倭軍を率いて戦っている「日本の諸将と百済王」とは、斉明天皇七年(661年)九月に、五千人の兵士を率いて扶余豊璋を百済に衛送した朴市田米津(えちのたくつ)や狭井檳榔(さいのあじまさ)ら扶余豊璋です。朴市田米津らは661年から663年の白村江の戦いで戦死するまで、常に扶余豊璋と行動を共にしています。

 

ですから、若井敏明は、倭の水軍を指揮していたのは、周留城に立てこもっていた朴市田米津ら扶余豊璋であって、倭國から新羅成敗のために派遣された上毛野君(かみつけの の きみ)らが率いる2万7千の主力水軍ではありえないとします。つまり、白村江の戦いは、周留城の軍勢と唐の水軍との戦いであったとします。

 

そして、天智即位元年(663年)8月の1万余りの救援軍である廬原君臣(いおはらのきみのおみ)健児(ちからひと)の船は、『三国史記』新羅本紀に記されている白沙に停泊していた倭船とされます。

 

『三国史記』新羅本紀文武王
(龍朔三年)倭國船兵 來助百濟 倭船千艘 停在白沙 百濟精騎 岸上守船
(663年)倭國の船兵が百濟を助けにきた。倭船千艘が白沙に停泊し、百済の精鋭は岸から倭船を守った。

 

扶余豊璋は、朴市田米津(えちのたくつ)とともに、この廬原君臣(いおはらのきみのおみ)や健児(ちからひと)の救援軍を出迎えにいき合流します。

 

しかし、倭船を守っていた陸上の百済軍は新羅軍によって破られ、劉仁軌率いる唐の水軍は、4回の戦闘で、この1万余りの救援軍である廬原君臣(いおはらのきみのおみ)の倭船千艘のうち四百艘を撃滅します。

 

つまり、劉仁軌率いる唐の水軍と戦った倭の水軍とは、1万余りの廬原君臣らの救援軍ということで、その倭船が白沙に停泊していたところへ劉仁軌の水軍が出くわして火を放ったのです。そして、朴市田米津(えちのたくつ)は、ここで戦死し、扶余豊璋は、白村江から脱出します。

 

若井敏明の見方は、通説とは違う見方ですが、『旧唐書』や『日本書紀』『三国史記』それぞれの史料に書かれた史料をつぶさに読んで、わかりにくい様相を整理されており、白村江の戦いの状況をしっかり捉えた考えであると思います。

 

なお、『日本書紀』の記述は、まるで劉仁軌側に立ったようで、自虐的です。

戦ったのが倭国の政権であって、『日本書紀」を書いた日本の政権ではないからと、思われるのです。

 

私のまとめ>

通説では、『日本書紀』天智天皇即位二年(663年)三月条の記事をもとに上毛野君稚子らが率いる2万7千人の主力水軍が「白村江の戦い」で戦った当事者とします。河口を固める唐の水軍に海上から倭の主力水軍が攻撃をかけたように理解されています。

 

ところが、上毛野君稚子らの主力水軍は、新羅攻撃が目的で663年6月に新羅の2つの城、沙鼻(さび)と岐奴江(きぬえ)を奪取し目的を果たしています。その後の主力水軍の動向は記されていません。白村江の戦いには上毛野君の名は無く参戦していないようであり、白村江で負けた水軍は別の部隊と考えられます。

 

天智天皇即位2年(663年)8月の白村江の戦いでは、同8月に救援部隊として廬原君臣(いおはらのきみのおみ)健児(ちからひと)の1万の救援軍の水軍が派遣されたとあります。扶余豊璋は、朴市田米津(えちのたくつ)とともに、この水軍を出迎えにいき合流します。そこへ劉仁軌の船団が新羅本紀にあるように白沙に停泊していた千艘の倭船に出くわし、劉仁軌の水軍は倭船に火を放ち襲いかかったとするものです。

 

本書の「まとめ」には、「白村江の戦いといわれているものは、天智元年八月二十八日におこった戦いだけで、それは周留城に立てこもっていた百済と倭の軍勢と唐・新羅連合軍との戦いであって、通説のように倭国からの援軍(泉城補記:2万7千の主力水軍のこと)が壊滅したというものではなかったということである。」(268頁)と記しているように、通説とは全く異なって、主力水軍の壊滅ではないとされます。

 

若井敏明の考えが正しければ、上毛野君らの主力水軍は、壊滅的打撃など、はなから受けていないということになります。

 

『三国史記』新羅本紀の記事にあるように、倭の援軍である廬原君臣率いる救援軍1万が白沙に停泊していたところを唐の劉仁軌の水軍が出くわして倭船を燃やしたのが白村江の戦いであるとすればよく理解できます。

 

もし、通説が言うとおりだとして、水軍の戦力を比較すると、倭の主力水軍27000と救援軍の水軍10000、合計37000の倭の水軍と、これに対して唐の劉仁軌の7000の水軍の戦いとすれば、戦力的に倭が唐に負けるはずがありませんから、主力水軍が白村江の戦いの当事者となす通説は、おかしいと私は疑問に思っていました。

 

その点で若井敏明説であれば、倭の救援軍10000が白沙に停泊していたところを劉仁軌の水軍7000が襲ったのですから、倭の水軍が負けることもあると、私にはすんなり受け入れられました。

 

若井敏明説は、推測を可能な限り排除しており、通説より歴史事実を的確に把握していると思います。

 

なお、蛇足ですが、『旧唐書』劉仁軌伝の「焚其舟四百艘 煙焰漲天 海水皆赤」の記事で、海水が皆赤いのは、通説では倭人の血で海水が赤く染まったと解釈しますが、若井敏明は、紅蓮(ぐれん)の炎に海水が染まっているからとします。

 

記事にある「煙焔天漲」(えんえん天にみなぎる )は、煙と炎が空一面をおおい、盛んに燃え広がるさまですから、私は、猛火の炎の赤とする若井敏明の理解の方が通説よりも適切であると思います。

 

このように記事を仔細に読解する若井敏明の姿勢は、古代史を解明するためには、たいへん重要ですし、好感が持てます。

 

白村江の戦いに関して、それ以外の古代史の問題についても、著名な学者の推測によって自虐的に大きく歪められ、それが通説として広く伝えられているように思います。

白紙の状態で、ひとつひとつ元史料を吟味したいですね。