東海古代研究会の林 研心さんは、魏の明帝への卑弥呼の使い・遣使である難升米(なんしょうまい、なしめ)が『魏志』倭人伝に記されたとおり景初二年に朝貢したのか、それとも後代の史書『梁書』などに記された景初三年の朝貢であるのかという問題について考察されています。
《論考 東海の古代280号掲載 『日本書紀』における倭人伝の引用(2)》
その林さんの論考は具体的にそれぞれの原文を整理して示し、緻密に記されています。その内容を既に理解した上で、例会において議論が為されています。
今回の動画では、例会に出席できなかった林さんに代わり、ざっくりと論考の説明がされます。
景初二年説と三年説では、たった1年違いであり、難升米が魏の都に詣でたことに変わりはないので、大したことではないと思われるかもしれませんが、中国史書をどのように捉えるかという根本的な問題がここにあります。
全体で11分30秒ほどで、始めに例会の様子を短く圧縮したもの、そのあと7分20秒あたりから、議論の内容などを私なりに整理して話しています。
動画を見る前に地名の位置関係を確認しておくとわかりやすいですね。
戦乱の中心は、帯方郡から離れた遼東半島(襄平・遼隧)の方です。
また、『魏志』倭人伝の卑弥呼の使いに関する記事を時系列で示しますので、
さらっと見ていただければ理解しやすいです。
<西暦238年>『三国志』編纂者の陳寿5歳
景初二年六月
・遣使難升米が帯方郡へ行った。
・難升米は帯方太守に魏の明帝に詣でたいと申し出た。
・出発時期は不明だが、難升米は帯方郡の護衛とともに都(洛陽)へ向かう。
・魏の司馬宣王が公孫淵(こうそんえん)を遼東の遼隧(りょうすい)で撃破した。
・公孫淵はまだ殺害されていない。
景初二年八月
・司馬宣王が公孫淵の居住している遼東の襄平(じょうへい)を包囲し殺害した。
景初二年十一月
・難升米が都(洛陽)に到着する。
景初二年十二月
・魏の明帝が病気になる。
・魏の明帝は封をして帯方太守に金印紫綬を付託する。
<西暦239年>陳寿6歳
景初三年正月
・魏の明帝が亡くなる。
・8歳の曹芳が皇太子となる。
景初三年七月
・曹芳が朝会に出席して公卿の上奏を聞いた。( 忌み明け・第3代皇帝に即位?)
<西暦240年>陳寿7歳
正始元年
・帯方太守が梯儁らを倭國に遺わして倭王に詔書・印綬を授けた。
さらに動画の中で話している表は、次のとおりです。
参考にしていただければと思います。