夢殿の東隣にある中宮寺は、是非訪れたいと思っていたところです。

何とも女性らしいアルカイックスマイルの菩薩半跏像と、レプリカではあるもののここでしか観られない天寿國曼荼羅繍帳が魅力です。

 

金堂の中にはじっくり観るために椅子が数脚用意されていて、じっと眺めていました。

その間、繰り返し説明が流されていましたよ。

 

 

法隆寺東院伽藍での中宮寺の位置

中宮寺は東の端にあります。

 

 

中宮寺入口

 

 

入り口の左隣に説明看板「中宮寺の歴史」

現在、建立されている中宮寺は、鎌倉時代に500m東方に創建された本堂をこちらに再現したものと説明書きにあります。

法隆寺と中宮寺は、僧寺と尼寺の関係のようです。

 

 

寺門

 

 

寺門の屋根瓦は十六菊花紋

屋根瓦は十六菊花紋ですね。

菊紋のうち、「十六弁八重表菊」が菊の御紋と言われる天皇及び皇室を表す紋です。

 

ちなみに私の小銭入れにも十六菊花紋があります。

 

パンフレット兼拝観券

 

 

金堂

四角くお堀のような池の中央にあります。

 

金堂の中に入ると、左の方に、天寿國曼荼羅繍帳の複製が飾ってあります。

本物は奈良国立博物館にありますが、通常は展示されていません。

日本最古の刺繍です。7世紀、飛鳥時代ですね。

国宝の天寿國曼荼羅繍帳(パンフレットより)

 

聖徳太子がお亡くなりになったあと、太子の最も若い妃の橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が、祖母の推古天皇に、太子が行かれた天国の様子がよくわからないので、その様子を描いてみたいと直訴します。

推古天皇は孫娘の申し出に感激して、宮中の女官達に寝台を囲む帳(とばり)に刺繍(ししゅう)を施して、天寿国を表すように詔を出しました。

 

帳とはこんな感じのものですね。


そして作られた繍帳(しゅうちょう)が、中宮寺の「天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちよう)」であると伝えられています。

 

ただ、昨今の聖徳太子の偉業を疑問視する世相から、この繍帳についても真偽説があります。

 

天寿国曼荼羅繍帳については断片しか残っていないのですが、もともと刺繍された400文字については、 『上宮聖徳法王帝説』(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)に、全文が引用されています。


全体では、100匹の亀が描かれ、1つの亀に4文字ずつ書かれていたと考えられていますが、現存する繍帳には亀が5匹しか描かれていません。

その5匹分の断片のレプリカが、この中宮寺で観られると言うことなのです。

 

本来はこの20倍の大きさですから迫力があったでしょうね。

想像を膨らませるしかありません。

このようなイメージ。図柄はいいかげんですよ。あくまでもイメージ。

 

 

国宝の木造菩薩半跏像(伝如意輪観音)

初夏の奈良・京都小旅行の目玉は、中宮寺のお本尊、この伝如意輪観音の菩薩半跏像かな。

「如意」とは意のままに智慧や財宝をもたらす如意宝珠の珠のことで、「輪」は煩悩を打ち砕く法輪を指しています。その2つを手に持った観音菩薩ということで如意輪観音といいます。

ただ中宮寺の菩薩半跏像は、手に何も持っていません。

どうして、この菩薩半跏像が中宮寺に如意輪観音と伝わっているのでしょうか。

 

無性に実物が見たくなってやってきました。

 

本堂の外から撮るとこんな感じ。

当然ですが、かすんで訳がわかりませんね。

 

 

国宝の木造菩薩半跏像

本堂内での撮影は禁じられていますので、写真は説明看板よりいただきました。

何とも気品漂う顔立ちと優しげな表情が私の心を鷲掴みします。

 

入江泰吉(たいきち)の写真でご覧になると、もっといい感じです。

入江薹吉は、奈良の写真家で奇異をてらうような写真ではなく

主に大和路や仏像を自然にありのままに撮っています。

 

 

さて、それでは東へ500mの中宮寺跡地へ行きましょう。

レンタサイクルが有効ですね。

 

 

中宮寺跡地

現地は広い野原のような感じになっています。

ぐるぐる回りを回ってみました。真ん中辺りに東屋があり休憩できます。

 

 

中宮寺跡地の説明書き

 

 

中央に土壇が見えますね。

 

 

土壇の上には礎石が並べてありました。

 

中宮寺については以上でおしまい。