太子山向原寺(2006年に飛鳥へ出かけたときの写真です。)

 

本堂

 

 『日本書紀』欽明天皇十三年(552年)10月条の仏教初伝の記事によれば、百済の聖明王から献上され金銅の釈迦仏などを蘇我稲目が向原の自宅に持ち帰り安置したことが向原寺(こうげんじ)の始まりです。
  日本最初の寺です。


 しかし、排仏派の物部尾輿と中臣鎌子は、その後に流行した疫病の原因が、仏像の安置に対する国神の祟りだとして、その仏像を「難波の堀江」に捨て、寺を焼き払いました。

『日本書紀』の記事は、次のとおりです。

(欽明天皇13年10月)大臣跪受而忻悅。安置小墾田家、懃修出世業爲因。淨捨向原家、爲寺。於後、國行疫氣、民致夭殘、久而愈多、不能治療。物部大連尾輿・中臣連鎌子同奏曰「昔日不須臣計、致斯病死。今不遠而復、必當有慶。宜早投棄、懃求後福。」天皇曰「依奏。」有司乃以佛像、流棄難波堀江。復縱火於伽藍、燒燼更無餘。

蘇我稲目大臣は跪(ひざまづ)いて(仏像や経典を)受け取り喜びました。小墾田(おわりだ)の家に安置し丁寧に出世の業(出家と同義)を納めて因(よすが=縁)とす。

 

向原(むくはら)の家を清め祓い寺とす。

後に国に疫病が起こり民が多く死に時が経つに増え治療できず。

 

物部大連尾輿(おこし)・中臣連鎌子(かまこ)は同じく申して曰く「昔のあの日(仏像等を渡した日)に臣の計り用いず。今復するは遠からず、必ず慶び有り。早く仏像などを投げ棄て、後の幸福を求めん」 


欽明天皇曰く「申すままに」 
有司(つかさ、役人)はすぐに仏像を難波の堀江に流し棄て、また、伽藍に火をつけ焼きつくし何も残らず。




 向原の寺は、その後、豊浦寺として再建されます。
  現在の向原寺は豊浦寺の後身で江戸時代に建立されたものです。


 向原寺の下には、推古天皇が即位(592年)した豊浦宮や豊浦寺の遺構が発見されています。

 『善光寺縁起』によれば、本田善光がこの仏像を「難波の堀江」から拾い上げ、信濃(長野県)の善光寺に祀られたとされます。

向原寺の一角には難波池と称される池があり、その説明書きには、ここが『日本書紀』の「難波の堀江」とされます。

 

難波池は、以外に小さいです。

「難波の堀江」のイメージとは不釣り合いな感じがします。

 

地図を見ると、難波池のそばには水路があり、飛鳥川とも近いです。これが「難波の堀江」の残りかもしれませんね。難波池はたぶん「難波の堀江」の一部分ということなのでしょう。