すでにお話しした夷州・亶洲を図示しておきましょう。
秦の始皇帝の命により、不老不死の仙薬を求め徐福が渡航した時代、すなわち紀元前3世紀頃の状況は次のようです。

 

 

紀元前3世紀の最初の渡航で徐福が到達したと私が結論づけたところは、済州島、つまり「耽(たん)」で、ここが『史記』の言う「亶(たん)」です。

 

そして各地の徐福伝承を信ずるならば、2回目の徐福の渡航のあと、徐福始めその子孫たちは、亶洲から日本列島の各地へ展開したようです。
前回の徐福伝承地に新たに追加・修正して再掲します。

 

 

 

いよいよ、東鯷人のまとめです。

『翰苑』(かんえん)をとりあげます。
『翰苑』は、唐の張楚金が著し660年に成立しており、男爵西高辻家伝来品として太宰府天満宮に残ったものです。三十巻のうち最後の第30巻目の蕃夷部には、馬韓・辰韓・弁辰の三韓のほか、高麗、新羅、百済、倭国などが記されており、時代を跨がって過去に存在した国々を総括的に記しています。

その『翰苑』蕃夷部三韓伝には、東鯷人について興味深い記事があります。
境連鯷壑地接鼇波 

魏略曰韓在帶方南東西以海為限地方四千里一曰馬韓二曰辰韓三曰弁韓辰韓古之辰國也馬韓在其西其人土著種植知蠶桑作綿布 鯷壑東鯷人居海中州鼇波俱在海中也 

南接倭人北鄰穢貊

(三韓の)境は鯷壑(テイガク)に連なり、地は鼇波(ゴウハ)に接す。


魏略に曰く、韓は帶方の南に在り。東西は海を以て限りとなす。地方四千里。一に曰はく馬韓、二に曰はく辰韓、三に曰はく弁辰。辰韓は古の辰国なり。馬韓は其の西に在る。其の人土著にして、稲を種え蚕桑を知り綿布を作る。

 

鯷壑(テイガク)は東鯷人の居る海中の州なり。鼇波(ゴウハ)は俱に海中に有るなり。


南は倭人に接し、北は穢貊を隣とす。

ここで重要であるのは、下線部で示したように、三韓の境は、鯷壑に連なり、その鯷壑は海中の島です。その島に東鯷人が居るとあります。

この冒頭の「境連」の言葉の使い方について確認します。
文献史学の学者でも、こうした確認は全くされていないようです。

境連鯷壑地接鼇波」と同じ「境連○○地接○○」の書き方が、『翰苑』高麗伝に「境連穢貊地接夫餘」(高句麗の境は穢貊に連なり地は夫余に接する)とあります。


次の地図のとおり、高句麗の南は、穢貊に直に接するのではなく、東沃沮に隔てられています。こうした状況の時に「境連」の言葉が使用されています。
 

 

高句麗は、北の境は夫余に接していますが、南は東沃沮に隔てられて穢貊があります。

このとき高句麗は穢貊と「境連」しているという関係です。

 

 

この事例からわかるように、「境連」は、境界が接するのではなく、別の国が間にあって離れているときに使用されます。これは重要なポイントです。

したがって、「境連鯷壑」の意味するところは、三韓の境は、倭に隔てられて鯷壑に連なっていることになります。

とすると、どうやら、東鯷人の住む鯷壑は、倭人の住むところのさらに先にあると考えるのが適切です。

 

文面を正しく把握すれば、東鯷人のいる鯷壑は、倭の南に位置しているようです。

その3で示したように、『漢書』地理志では、倭人は燕地條に記され、東鯷人については、呉地條に記されており、燕地は北方で呉地は南方ですから、これからすると倭人と東鯷人との位置関係は、倭人が北方で、東鯷人は南方に居るという関係です。


これも東鯷人の居所が倭人の南にあることを支持する重要なポイントで「境連」の用語を支持するものです。

 

また、前漢の劉向(りゅうきょう)が編纂した『戦國策』の趙策の記事に次のとおりあります。
  黑齒雕題、鯷冠秫縫、大吳之國也 
  黒い歯(お歯黒)で入れ墨をし、鯷皮を用いた冠をかぶり、粗い縫い目の服を着るのは、大吳の国なり。 

ここで注目されるのは、呉の国の人は、鯷(てい、大鯰)の皮で作った冠をしています。呉人は、まさに鯷の冠を被った鯷の人なのです。
ですから、東鯷とは、そのであるの東を意味します。


すなわち東鯷人は、呉の東の海に居る民のことです。

『翰苑』『漢書』からは、東鯷人が倭人の南方に居て、『戦國策』では呉の東に居るとされますから、それぞれの位置関係から、

東鯷人は倭の南、会稽の東に位置づけられると考えます。

さらに、「その4」などで、九州には鯰をトーテムとする地域がかなり濃密にみられることを示しました。特に、阿蘇の国造神社の鯰宮に象徴されるように、健磐龍命による阿蘇開拓の際にカルデラ湖の水を流すまいと抵抗した大鯰が居たとする伝承は、この大鯰が呉人の後裔(こうえい)を想起させます。

また、鯰を信仰したと思われる扁平な頭蓋骨が発見された種子島南部の広田遺跡の事例があることも示したところです。
鯰をトーテムとする文化は、地震に関係した比較的新しい文化のようですが、その根底には呉人の鯰信仰の思想があり、それが根強く残っていると思われます。

以上のとおり、『翰苑』の記事と『戦國策』の記事から、

九州の南西部から南西諸島に至る島々に居る人々を東鯷人と呼んでいると考えます。
なお、この東鯷人は呉人の概念であり、広くは亶洲や夷州の人々も含まれるかもしれません。


図示すると、次のようです。

 

 

(完)