古田武彦の指摘は、大変重要な指摘です。

 

そこで、中華書局版で『後漢書』を確認すると、確かに「東夷倭奴國」とあります。

二年春正月辛未,初立北郊,祀后土。

東夷倭奴國王遣使奉獻。(校)東夷倭奴國王遣使奉獻 按:「王」原作「」、逕據汲本、殿本改。    (中華書局版『後漢書』、84頁)

                                   

 

中華書局版では、(校注)があって、原文には「」とあったが「」に改めたとあります。

中華書局版には、こうした文字を改めたとの注意書きがよくあります。

 

『隋書』の「多利思志孤」も「多利思志孤」に変えられていることは、古田史学の研究家の間ではよく知られたことです。

開皇二十年、倭王姓阿每、字多利思比孤、(校)[一二]多利思比孤 「比」原作「    (中華書局版『隋書』、1826頁)

 

 

原文どおり「東夷倭奴國主」、つまり「國主」であるならば、「國王」とは随分違います。

 

たとえば、『 魏志』高句麗伝には次の記事があります。

王之宗族,其大加皆稱古雛加。涓奴部本國主、今雖不為王、適統大人、得稱古雛加、亦得立宗廟、祠靈星、社稷。(843頁)

王の宗族や大加は皆な古雛加を称す。涓奴部は、本(もと)は国主で、今日では王ではないが、嫡統大人は「古雛加」と称し得る。 また、宗廟を立て、霊星、社稷を祀り得る。

                                        (読み下しは泉城による)

 

涓奴部はもともと「國主」であり、今は王ではないとはいえ、嫡流(本家の血筋)の大人であるので古雛加(コウスカ)を称すことができ、亦た宗廟を立てて霊星・社稷を祠る事もできるということです。

つまり、「國主」というのは、たとえ王の地位でなくても本家の血筋であるという理解で間違っていないでしょう。

 

というのも、涓奴部とは、高句麗の五部の旧小国で、ここから高句麗王が選出されていましたので、「國主」というのは、部族のリーダーともいえる立場なのです。

 

ですから、中華書局版が「東夷倭奴國主」を東夷倭奴國王」のことだろうと推測したことは全く適切です。

 

以上のことを踏まえれば、古田武彦説では、朝鮮半島・日本列島の他のどの国王も金印をもらっていないので、委奴國王は朝鮮半島・日本列島を代表して、金印「漢委奴國王」をもらったと主張されるのも頷けるところです。

  

この古田説をうけて、私が考えるに、通説はまったくの誤りであり、1世紀に後漢の光武帝から「漢委奴國王」の金印をもらった志賀島の王様は、すくなくとも、北部九州から朝鮮半島南部にまたがる30カ国の委(倭)を代表していると考えます。

 

なお、佛教大学の黄 當時教授によれば、「委奴」とは後置修飾語の「奴」(大きな)であり、つまり「偉大な委(倭)」の意味です。(『悲劇の好字』)