2 九州王朝副都説
 
  前回にお話しした『日本書紀』の大化元年の記事では、孝徳天皇は、これまで都としていた飛鳥板葺宮②から「難波長柄豊碕に遷都した」と記されていますので、難波長柄豊碕宮③は、孝徳天皇の都です。
 

 

 

 つまり、近畿王朝の視点では、前期難波宮が都であって、前期難波宮より小さい大宰府政庁は出先機関という関係であり、近畿に王朝があれば都は近畿にあるのは当然と言うことでしょう。

 ただ、難波長柄豊碕宮の後、天武十二年(683年)に「凡そ都城宮室は一処にあらず、必ず両参を造らん。故に先ず難波を都とせんと欲す。」と天武天皇は詔しています。この難波とは、前期難波宮のことですから、天武十二年には、複都制のもとに前期難波宮は飛鳥と共に都になっています。ですから、二つの都が存在してもおかしなことではありません。
 
  これを踏まえた上で、九州王朝説の視点から、大宰府が都であって、前期難波宮は、九州王朝の副都ではないかとする仮説があります。
 
  前期難波宮が九州王朝の副都と考える発想の原点は、次の記述にあります。
  九州王朝の宮殿である太宰府政庁と比較してもはるかに大規模な朝堂院様式を持つ前期難波宮は、その当時の大和朝廷の宮殿様式や発展史と比較しても全く異質で、大規模です。この事実は大和朝廷一元史観では説明がつかず、通説でも困っているのです。
 ・・・・・・
  『日本書紀』の記述通り、「大和朝廷」が前期難波宮を造ったとするならば、九州王朝の天子の居宮と同様式の、しかも太宰府「政庁」よりもはるかに大規模な宮殿を、臣下である「大和朝廷」が造ることを九州王朝は黙認したこととなり、これは何とも不可解なことです。
                      (「古田史学会報」85号の「前期難波宮は九州王朝の副都」古賀達也、2008年)
 
 九州王朝の首都である大宰府の宮殿よりも臣下の近畿王朝の宮殿の方が大きいのではバランスが取れないことから、前期難波宮のように大きな宮殿は、近畿王朝のものであるはずがなく九州王朝のものであるという疑念から生まれた説が「九州王朝副都説」です。

 この仮説は大阪で例会を開催している「古田史学の会」の会長の提唱ですので注目されます。
 
 また、九州王朝副都説のもう一つの根拠として、九州年号の存在があります。
 九州年号とは、鎌倉時代の百科辞典である『二中歴』や李氏朝鮮宰相の申叔舟による成宗二年(1471年)刊行の『海東諸國紀』のほか『麗気記私抄』、『如是院年代記』などに記されているほか、日本各地の神社仏閣の縁起や由来、さらには地方の歴史書等に記されている一連の年号群です。

 これらの年号群について、通説では僧徒らによって創作された架空の年号であり私年号とされますが、九州王朝説では、古田武彦著の『失われた九州王朝』で再認識され九州王朝の公年号で「九州年号」と呼んでいます。

 史料によって多少の文字の違いなどがあるものの概ね同一であり、例えば『二中歴』では、「継体」から「大化」までの31の連続した年号が記されています。
 
 さて、この九州年号と前期難波宮は関連があるとされます。
 前期難波宮の完成は、『日本書紀』では白雉三年(652年)ですが、九州年号では652年は白雉元年であり、前期難波宮の完成を記念して白雉改元がされたのではないかとされています。

 また、前期難波宮の焼失については、天武十五年(686年)一月に原因不明の出火によって炎上したと記されており、同年(686年)七月には九州年号の朱鳥の改元がなされています。この朱鳥改元は難波副都炎上を理由として行われたのではないかとされています。

 つまり、前期難波宮の造営の年には、九州年号の白雉改元がなされ、前期難波宮の焼失した年には、九州年号の朱鳥改元がなされており、これは九州王朝と前期難波宮とが関係していることをうかがわせます。

 要するに前期難波宮の完成・焼失の年代と九州年号の改元の時期が一致していることが九州王朝副都説の根拠になっています。
 
 ただ、この説にはいくつか疑問点があります。
 次回にはそれらの疑問点についてお話しします。