3  埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣銘文について
(1)獲加多支鹵の読み方


 <推定銘文(表)>
辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比垝、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比、

(wikipediaによる訓読)
辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。

 

<推定銘文(裏)>
其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺、在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也

(wikipediaによる訓読)
其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル(クヮクカタキル)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。

 

 稲荷山古墳の鉄剣には、「獲加多支鹵大王」と刻まれています。
 「辛亥年」を471年と解釈すると、雄略天皇は5世紀後半に在位していたと考えられることから時期的には合致すると考えられています。

 

  ただ、疑問に思う点は「支」の字です。通説では、「支」を「伎」や「岐」の略字と見なして「ギ」、さらにこれが変化したものと想定して「ケ」と読んでいると思います。
  鉄剣の表面には、「供」や「侯」の文字があり、裏面には「伝」や「披」の文字がありますが、人偏や手偏は省略されていません。となれば「支」も「伎」の人偏や「岐」の山偏を省略した文字ではありません。略字でないとすれば、『万葉集事典』(中西進編、講談社文庫、1985年)にあるように、万葉集で「支」は「キ」と読まれています。なお、万葉集で「ケ」と読まれた例はありません。

 

 つまり通説では「支」を「ケ」と読みますが、本来、「支」は「キ」としか読みようがないのです。現在においても、漢音・呉音ともに「シ」ですから決して「ケ」ではありません。

 

 また、稲荷山鉄剣の「鹵」は、□の中が「九」の字と読めますが、この字は、漢音で「ロ」、呉音で「ル」です。さらに「獲」は漢音で「カク」、呉音で「ワク」です。

 

 となれば、漢音であれば、カ(ク)カタシロとか、呉音であれば、ワ(ク)カタシル であり、万葉集の音を重視すれば、カ(ク)カタキロやワ(ク)カタキルと読む可能性があると思われます。通説の「ワカタケル」は、「支」を「ケ」と読み替えており恣意的と言わざるを得ません。「ワカタケル」は雄略天皇の「幼武」(ワカタケ)に関連付けようとする意図を持った読み方なのです。
                                    

(2)  ヲワケノオミについて
 鉄剣ではオオヒコから始まるヲワケまでの8代の系譜を示し、ヲワケが大王にお仕えしたことを記しています。
      オオヒコ → タカリスクネ → テヨカリワケ → タカヒシワケ →
       タサキワケ → ハテヒ → カサヒヨ → ヲワケノオミ(乎獲居臣)

 

 通説では、ヲワケの祖であるオオヒコ(意富比垝)は、崇神紀の四道将軍の一人「大彦命」であるとします。

 

 しかし、通説のようにワカタケルが第21代雄略天皇であるとすれば、第10代崇神天皇は11代前ですから、崇神の四道将軍の大彦命とヲワケの8代前の祖オオヒコとは活躍の時期がずれるように思われます。また、大彦命は、第8代孝元天皇の第一皇子で14代前になりますから、ヲワケの系譜の8代前の祖オオヒコと同一人物とするのは、やはり無理があると思います。

 

 さらに、根本的な疑問として、ヲワケは、先祖代々杖刀人首と記されています。杖刀人首とは、いわば親衛隊長です。ヲワケが雄略天皇の親衛隊長だとすれば、当然、近畿の雄略天皇の古墳そのものか、その付近に配されることになるはずですが、ヲワケは関東の古墳に葬られており通説どおりであるとすれば全く疑問です。

 

  私は、ヲワケは、関東地方の大王の親衛隊長で、稲荷山古墳に埋葬された関東の幼い大王に仕えて支えてきたので、幼い大王と一緒の古墳に埋葬されたと考えるのが自然だと思います。

 

 

(3) 稲荷山古墳出土の鉄剣銘文に関する古田武彦説

 通説では「獲加多支鹵」(原文では「鹵」の「□」の中は「九」)を「ワカタケル」と読んで雄略天皇に当てていますが、これに対し、古田武彦説では、『古代は輝いていたⅡ 日本列島の大王たち』の第6部「関東の大王」で、主に次の三点から反証しています。その趣旨を簡潔に記載します。
  第一点「左治天下」
  第二点「斯鬼宮」
  第三点「二つの墓室」

 

・第一点「左治天下」
 「左治天下」の語句は、中国の古典に用例をもつ慣用語で、名義上の中心権力者(天子または王)が幼少もしくは女性などのとき、これに代わってその叔父や男弟に当る血縁者がその統治を補佐する行為を「佐治」と言っています。

 

 通説のようにこの大王を近畿天皇家の王者としてヲワケを関東の豪族とみなすのは無理であり、雄略天皇が幼少か女性であって直接統治できず、代わって関東の豪族ヲワケが天下の統治を補佐していたことになってしまい全く空想的です。

 

 また、記紀には関東の豪族との交渉などでヲワケは一切姿をあらわさず、まして、天皇が豪族との由縁を金文字で刻印した鉄剣を作った説話はありませんので、近畿天皇家と関東の豪族の関係と見なすのは到底無理です。この鉄剣は近畿天皇家の勢力範囲内のものではないという結論を示しています。

 

・第二点「斯鬼宮」
 「斯鬼宮」はシキミヤと訓むべきことにほとんど異論はありませんが、記紀には雄略天皇が、磯城宮に居した記載がありません。崇神や垂仁は師木の水垣宮(玉垣宮)とあり「シキ」に間接的に関連はありますが、記紀ともに、雄略の宮殿は長谷(泊瀬)の朝倉宮で、しかも、雄略の場合は、長谷や泊瀬と名を称しており、この「斯鬼宮」を雄略の朝倉宮と同定するのは不可能です。


 これに対し、関東における「シキ」は、埼玉県南境に近く志木市があり、この「シキ」は和名抄にも出てくる古地名です。さらに、稲荷山古墳にもっと近いところに「シキミヤ」があり、栃木県栃木市藤岡町大前字磯城宮の大前神社の境内に、「大前神社、其の先、磯城宮と号す」いう石碑(明治12年建立)が現存しており、その字地名も「磯城宮」です。(前沢輝政氏『下野の古代史』〈上〉有峰書店刊)稲荷山古墳からわずか10kmほどの地点に「シキミヤ」があったのです。

 

 万一、この関東にあって「大和の磯城郡の宮殿だ」とするならば鉄剣に「大和の斯鬼宮」と記さなければわかりませんが、これに反し、当地の「斯鬼宮」であるならば、「~の斯鬼宮」のように頭に特定する地名が不要であることは自明の道理です。

 

・第三点「二つの墓室」 

 

 稲荷山古墳は、5世紀末の粘土槨と6世紀初頭の礫床と二つの墓室があります。つまりそこには二人の人物が埋葬されています。
  中央の位置にある粘土槨の墓室はすでに盗掘されていましたが、その側にあった礫床の墓室は盗掘を免れており、該当の金文字の鉄剣はその礫床の方から出土したものです。

 

  この稲荷山古墳の「主」は当然中央の位置にある粘土槨の被葬者であり、脇の方の礫床の被葬者(ヲワケ)はその「主」の従属者で、二つの墓の位置関係はそのような身分関係を語っています。したがって、銘文の中の大王こそ、この古墳の中央にある粘土槨に葬られた「主」であると考えられます。

 

 つまるところ、この鉄剣に刻印された大王は、関東を天下として君臨し「磯城宮」にいた大王であり、その大王に仕えた実力者がヲワケで、大王を「佐治」していたと主張しているのが古田武彦説です。

 

 近年、レーダー探査によってさらに中心にもう一つ埋葬施設の存在が指摘されており、獲加多支鹵の先代のものである可能性がありますが、古田武彦説の基本的な考え方を左右するものではありません。

 

 私は、九州にも関東にもそれぞれその地域を支配する大王がいたとする多元的史観に立つ古田武彦説が妥当であると思います。