7世紀に完成した『隋書』俀國伝には、「無文字,唯刻木結繩。敬佛法,於百濟求得佛經,始有文字」(文字は無くただ刻木結縄があるのみ、仏法を敬い百済に仏経典を求め得て文字が始まった)とあります。 
 俀國は倭國のことで、文字が無かったと記されています。


 では、なぜ『隋書』は、俀國が「無文字」であると記したのでしょうか。
 それを解明しなければなりません。
 しかし、これまでのところ、明快に答えた学者はおられないようです。
  それは、裏付ける史料が不足しているからですが、それでも現状で納得できる説明は欲しいものです。


 まず、明確にしておかなければならないことがあります。
 俀國は隋代(581~618年)には、漢字を利用していたということです。
  『隋書』俀國伝の大業三年(607年)の記事に次のとおりあります。
  其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。
 (その俀の国書に曰く「日いずるところの天子、書を致す。日没するところの天子恙なきや」等々。)


 この記事では俀國の「国書」が漢字を使用して書かれていたとわかります。つまり、7世紀初めには間違いなく漢字は十分に理解され使われていました。


 また、次のとおり官に十二等があり、その位は「大徳・小徳・大仁・小仁・大義・小義・大礼・小礼・大智・小智・大信・小信」と具体的に記しています。
  内官有十二等:一曰大德,次小德,次大仁,次小仁,次大義,次小義,次大禮,次小禮,次大智,次小智,次大信,次小信,員無定數。


 俀國は、漢字の意味を知らずしてこのように具体的に冠位十二階を設けることはできませんから、それを記述している『隋書』編者は、当時の俀國には文字が無いという認識でなかったことは明らかです。


  とすると、問題は「百済から佛経(仏教の経典)を得て文字が始まった」という『隋書』の編者の認識について、いったい、いつ仏教の経典が俀國に渡ったと理解していたのかという点に絞られ、それまでが「無文字」であったという認識であったと考えられます。


 仏経典が俀國に渡った時期については、通説では、次の書紀の記事から、第29代の欽明天皇の時代、欽明十三年(552年)とされます。仏教公伝です。
  欽明十三年(552年) 百濟聖明王<更名聖王>、遣西部姫氏達率怒唎斯致契等、獻釋迦佛金銅像一軀・幡蓋若干・經論若干卷。

 

 したがって、俀國で文字が始まったとする『隋書』の編者の認識は、6世紀半ばであろうと思います。

 

  ところが、第15代の応神十五年に次の記事があります。
 応神十五年  阿直岐、亦能讀經典、卽太子菟道稚郎子師焉。
  (阿直岐はまた経典をよく読み太子の菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)は阿直岐を師とした。)

 

  この第15代の応神十五年の時期は、諸説ありますが、記事内容から404年前後とみて間違いないでしょう。というのも、百済の阿花王の死去について、書紀では応神十六年とあり『三国史記』百済本紀では阿莘王十四年(405年)とあります。404年前後に経典があって普及されはじめたということでしょう。


  阿直岐(あちき)は、百済から日本に派遣された人物であり、『古事記』にもこの書紀の阿直岐に対応した阿知吉師の記事があります。
 この記事の中で
百済國の照古王は、賢人とともに儒教の経典である『論語』や、書の手本として用いられた『千字文』を貢いだとあります。
  百濟國主照古王、以牡馬壹疋・牝馬壹疋、付阿知吉師以貢上。此阿知吉師者、阿直史等之祖。亦貢上横刀及大鏡。又科賜百濟國「若有賢人者、貢上。」故受命以貢上人・名和邇吉師、卽論語十卷・千字文一卷幷十一卷、付是人卽貢進。

 

『論語』や『千字文』は漢字で書かれています。しかも『千字文』は、書の手本ですから、このとき倭に漢字が伝わっています。

 

  したがって、記紀の記事を重視すれば、『隋書』の編者が認識した「佛経(仏教の経典)」の6世紀半ばの時期より遙か前の5世紀初めに漢字は伝わっているのです。

 

 しかし、倭には、もっと遙か昔に文字があった可能性があります。
 次回にお話したいと思います。