倭人・倭・俀國・倭國

倭人・倭・俀國・倭國の領域

 
 中国史書により、倭人、倭、俀國、倭國についての基本認識を確認しましょう。
 
(1) 『魏志』倭人伝
  『魏志』倭人伝では、倭人は帯方郡の東南の大海の中にあって山島に依って国邑(こくゆう)と為し、三十カ国が使者を通わせているとあり、この30カ国のうち邪馬壹國である女王國より北にある国は、邪馬壹國を含めて、狗邪韓國、対馬国、一大國、末盧國、伊都國、奴國、不弥國と投馬國の9カ国と記されます。女王國の南には、斯馬國を始め奴國まで21カ国あり、合計30カ国になります。
 
 そして奴國が女王の境界が尽きる所で、女王國の南方には狗奴國があって男子を王と為し、其の官は狗古智卑狗で女王に属さないとされます。つまり、狗奴國は邪馬壹國である女王國の南方に位置します。また侏儒國は女王國の南四千余里にあると記されます。狗奴國と侏儒國の位置関係は不明です。また、女王國より東に海を渡ったところには倭種がいるとされますが国名は記されていません。

 奴國や狗奴國が九州以外にあると主張される研究者もいますが、『魏志』倭人伝によれば、東に海を渡ったところの国名は記されていないのですから、九州の東に奴國や狗奴國を比定する考えは、根本的に間違っていると思います。

 『魏志』倭人伝の記事が示すことは、倭人は朝鮮半島から北部九州の範囲に三十の国に分かれて住んでおり、そして、邪馬壹國すなわち女王國は、九州北部に位置し、その南方には、斯馬國を始め奴國があり、そして、やはり女王國の南方に狗奴國、侏儒國があることになります。

  これが『魏志』倭人伝の認識であり、そのイメージ図は次のとおりです。
 
 
 
 
(2) 『後漢書』倭伝
  『後漢書』倭伝では、倭は韓の東南、大海の中にあって山島に拠って暮らしており漢に使訳を通ずるのは三十国ほどとしており、基本的な状況は『魏志』倭人伝の内容と変わりませんから、倭は朝鮮半島南部から九州北部にあったことになります。

 また、朱儒國の位置も女王國の南四千余里にあると記述され変わりません。逆にいえば女王國の位置も北九州の位置で変わりません。しかしながら、拘奴國の位置は、『魏志』倭人伝に描かれていた位置とは全く違います。

 『魏志』倭人伝では、拘奴国は女王國の南方にあるとされていたのが、『後漢書』倭伝では、拘奴國は女王國より東に海を渡ること千余里にあり、倭種ではあるものの女王には属していないと書き換えられているのです。要するに『魏志』倭人伝の認識を改め、5世紀までに得られた新しい情報により、拘奴國の位置は海を渡った東、すなわち、拘奴國は九州以外のところ、中国地方に位置すると想像されます。
 
 これが『後漢書』倭伝の認識であり、そのイメージ図は次のとおりです。
 
 
 
 
(3) 『隋書』俀國伝
  『隋書』俀國伝では、これまで『魏志』や『後漢書』で、倭人、倭と記されていたのが俀國と記され、7世紀には、倭人は一つの国としてまとまったようです。俀國は百済や新羅の東南に在り、水陸を越えること三千里、大海中の山島に依って居すとし、方角は変わらず俀國までの距離が朝鮮半島から三千里の位置であると明確に記されます。
 
 また、俀國の境は東西五月行、南北三月行であると大きさを示し、東西南北の各々が海に至ると記述されますので、一つの大きな島、九州本島を示しています。
 
  俀國までの行程としては、百済から竹島、都斯麻國、一支國を経て、竹斯國に至るのですから、竹島、都斯麻國、一支國は、俀國に至るまでの行程であって俀國ではありません。竹斯國はその名称から筑紫ですので明らかに九州本島にあり、竹斯國は俀國です。『魏志』倭人伝や『後漢書』倭伝では、倭は朝鮮半島から九州北部までの範囲でしたが、俀國の時代には、竹島、都斯麻國、一支國は俀國の外になっているのです。

 また、竹斯國より東には秦王國や十数國があり、いずれも俀に附庸していると念押しされており、逆に言えば、竹斯國より西に位置する竹島、都斯麻國、一支國は、俀國の範囲外であることが、この記事からも分かります。
 俀國は四面を海に囲まれた九州本島です。
 なお、秦王國と十数國は俀國領内ですので九州本島にあります。また、秦王國が太宰府にあたることは別に論じています。
 
  これが『隋書』俀國伝の認識であり、そのイメージ図は次のとおりです。
 
 
 
 
(4) 『旧唐書』倭國伝
 『旧唐書』倭國伝では、俀國が安帝の時(106~125年)に朝貢した倭奴國から代々中国と相通じているとの『隋書』俀國伝の記述を受けて、倭國は古の倭奴國であと簡潔に事実関係を踏襲し、京師(長安)から一万四千里、新羅の東南の大海中に在り、山島に依って暮らすとされます。したがって、倭國は、『隋書』の俀國と基本的な位置関係は変わりません。さらに『旧唐書』倭國伝では、四面の小島、五十余國は、皆、倭國に附属しているとされます。

 つまり、倭國の勢力範囲は『隋書』の九州本島のみのときから、九州本島と四面にある小島まで拡大したということになります。

  以上のとおり、『魏志』倭人伝や『後漢書』倭伝の記事では、朝鮮半島から九州北部に倭人は、30カ国に別れて住んでいたとありますが、7世紀以降の俀國や倭國の記事では一つの国として九州本島さらには周囲の小島を含んで、勢力範囲としています。
 なお、倭國の別種として日本國があるとされます。日本國の範囲は東西南北に各数千里で、西界と南界いずれも大海に至り、東界と北界は大山があり、その外は、毛人の国とのことですから、本國はおおむね西日本になるでしょう。
 
  これが『旧唐書』倭國伝の認識であり、そのイメージ図は次のとおりです。