1 倭國の領域
倭國の領域は、『後漢書』倭伝により3世紀の「およそ百余国」から、『宋書』倭國伝により5世紀にはおよそ2倍の211國に広がったものの、『隋書』俀國伝の記事から、倭國(俀國)は隋の時代に朝鮮半島から撤退していた様子がわかります。
そして、『舊唐書』では「四面小島五十餘國,皆附屬焉。」(中華書局版5339頁)とあり、九州本島の周りの小島五十余国が倭の領域になります。
5世紀の倭國の領域は、九州と朝鮮半島に跨がる海峡国家であったとする基本認識を踏まえて、倭の五王について検討しましょう。こうした認識を持たずに論ずる説は、適切ではありません。
2 讃と珍
倭の五王について、倭國近畿説では、どの天皇に該当するのか諸説ありますが、その正体は確定していません。
一方で、本居宣長や古田武彦の説に代表されるように、倭の五王に関する記事が記紀に見られないことや、大和王権では、讃、珍、済、興、武など中国風の一字名称の記録がないため、近畿天皇家の王ではないとする説があります。
通説では、讃=16代仁徳(じんとく)、珍=18代反正(はんぜい)、済=19代允恭(いんぎよう)、興=20代安康(あんこう)、武=21代雄略(ゆうりやく)の各々の天皇とされています。
仁徳天皇の第一皇子である第17代履中天皇400-405を讃とする説もあります。
天皇の系図は、次のとおりです。
出典:ウィキペディア応神天皇 天皇系図 15~26代
『宋書』では、讃と珍の関係を次のように記しています。
讚死、弟珍立、遣使貢獻。
讃が死に、弟の珍が立ち使を遣(つかわ)し貢献す。
『宋書』の記事にあるとおり讃と珍は兄弟です。讃の弟が珍です。
通説のように、もし、仁徳が讃であれば、履中も反正も仁徳の皇子ですから、親子関係です。となると、珍は、履中、反正のいずれにしても、『宋書』の讃と珍が兄弟関係とする記事と合致しません。讃を兄の履中、珍を弟の反正に比定すべきでしょう。
天皇の代数から言っても、16代仁徳の次の17代は履中ですから、通説では一代飛び越えてしまっています。讃を父親の仁徳にする通説は全く疑問です。
私は、17代履中が讃で、18代反正を珍とするのが妥当であると思います。
(あくまで倭の五王が、九州の天皇であるという前提です。)
3 珍と済
讃
|(兄弟)
珍
:
済 ----- 興
(親子) |(兄弟)
武
履中
|(兄弟)
反正
|
允恭 ---- 安康
(親子) |(兄弟)
雄略
さて、珍の次は済ですが、珍と済の関係は『宋書』に記されていません。
したがって、済を反正の弟の允恭としても問題があるとはいえませんが根拠は何もありません。ただ、反正が18代で、19代は允恭ですので、その意味では順番は良さそうです。ただ、先述のとおり通説では17代履中を飛び越してもかまわないという立場ですから、順番がよさそうという理由は通説論者には意味がないかもしれません。
済の次が興です。興は済の世子ですので親子関係です。済が允恭で興が安康であれば允恭と安康は親子ですから違和感はありません。
濟死、世子興遣使貢獻。
済が死に、世子(世嗣ぎ)の興が遣使を以て貢献す。
次に興の弟は武です。興と武は兄弟です。興が安康で武が雄略とすれば、安康と雄略は兄弟ですから、やはり違和感はありません。
興死、弟武立
興が死に弟の武が立つ。
となると、いちばん問題であるのは、讃を仁徳とする点です。讃と珍は兄弟ですが、讃を仁徳とすれば反正とは親子関係となり『宋書』の記事と合致しません。讃を履中、珍を反正とするならば兄弟ですので記事と合致し問題がなくなります。
4 血縁関係
『宋書』の「讃死して弟珍立つ」の記述が事実であるとすれば、中国側が珍を讃の「弟」と認識しているのに対して、通説のように「子」であろうと曲解するのは、まったく適切ではありません。
この5世紀に、兄弟で天皇になったのは、「履中と反正と允恭」そして「安康と雄略」の2組のみです。讃と珍が兄弟で、済を挟んで興と武が兄弟であるのですから、17代履中と18代反正そして20代安康と21代雄略がそれぞれ、讃と珍、興と武の兄弟に当てはめざるをえません。
ただし、19代允恭は「雄朝津間(おあさづま)稚子宿禰(わかこのすくね)」が本名であり、「宿禰」は天皇の臣下の身分を表す姓であり、允恭は反正とは血縁関係がないと考えられます。おそらく書紀は、万世一系の観点から允恭を反正と血縁関係にあるという建前によって、允恭を反正の弟と記したと考えられます。
書紀の記事に対して『宋書』には、「珍」と「済」の血縁関係を記していません。このことは、血縁関係が不明であったために記述しなかったとも考えられますが、血縁関係には無かった可能性が大いにあると思います。
なお、『梁書』列伝諸夷東・倭條には次のとおり記されます。
晉安帝時,有倭王賛。賛死,立弟彌。彌死,立子濟。濟死,立子興。興死,立弟武。
「讃」は「賛」とありますが、これは言偏を省略した減筆体と考えられます。また、「珍」ではなく「彌」とあります。「彌」の異体字には「珍」に似た文字で偏の「王」が「弓」になっている文字があり、文字は混乱しているものの同じ者を指すと思われます。ただし、『宋書』では珍と済の関係を記さないのに対して『梁書』では彌と済を親子としています。
允恭は天皇一族ではなく臣下ですから、彌(珍)を反正、済を允恭とするならば、『梁書』の記事「彌(珍)と済は親子」は正しくないでしょう。また、一方で反正、允恭をそれぞれ次男、三男とする書紀の記事も誤りであると考えるべきでしょう。
『宋書』では、珍と済の関係を記していません。「珍と済は血縁関係ではない」これが正しい理解と思われます。
では、『梁書』は彌(珍)と済をどんな知見で親子と記したのでしょうか。
5 『梁書』の記事
貞観3年(629年)成立の『梁書』の諸夷伝・倭条においては、新しい知見で記述されている点がいくつかあります。
たとえば、いちばん最初に「倭者自云太伯之後」とあります。
これは、貞観18年(644年)成立の『晋書』の「自謂太伯之後」に引き継がれていますので、確からしさがある記事であるように思います。
また、『魏志』倭人伝では、「其地無牛馬虎豹羊鵲」(其の地に牛馬虎豹羊鵲無し)であった認識に、『梁書』では「有獸如牛名山鼠」(牛の如くの獣ありて山鼠と名づく)の新しい情報が追加されています。
ただ、こうした新しい情報が記される一方で『梁書』には、倭に関係する部分においては、誤字や脱字が数多くあるのが気になります。
特に気になるのは、重要な卑弥呼の名が「弥呼」であったり「卑弥」であったり、まったく不用意な脱字となっています。また、行程も重要な記事ですが、「南水行十日陸行一月日」とあって、「日」の文字が紛れ込んでいます。
編纂の過程での文章のチェックが為されていないように思われます。少なくとも複数のチェックがあったとは思われません。となると、この『梁書』の文章はとても完成度が高いとはいえず、『梁書』の倭國に関する記事は、推敲が為されておらず正確な文章ではないと認識すべきでしょう。
真実はわかりませんが、『梁書』の記事を鵜呑みにするのは避けた方が賢明です。
今のところ、私は、「彌死立子濟」の記事は、新たな知見で記述されたと言うよりも、『宋書』の記事を簡潔に記そうとして「濟死世子興」や「濟死立子興」と混乱し「彌死立子濟」としたのではないかと考えています。
つまり『梁書』の「彌死して子の済立つ。」は錯綜した記事と考えます。
<宋書と梁書の記事>
『宋書』 讚死弟珍立・・( )・・濟死世子興遣使・・興死弟武立
『梁書』 賛死立弟彌 彌死立子濟 濟死立子興 興死立弟武
晋の安帝の時、倭王賛あり。賛死して弟彌立つ。彌死して子の済立つ。済死 して子の興立つ。興死して弟の武立つ。
その通りだと思います。私も倭の五王について調べていますが、大和と関係ないのか、あるのか、分かりません。今はその事実を探しています。
[ ヤマトナデシコ ]
2016/12/15(木) 午後 9:25
> おじゃるさま
コメントをありがとうございます。
倭の五王について、手がかりとなる記事が少ないので納得できる比定は難しいですね。 泉城
2016/12/15(木) 午後 10:15