水争い(後編) | ふるさと会のブログ

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山科の魅力を山科の歴史を通じて記録しようと思います。

山科人

子どものころ、近くにあった田んぼには、専用の水路がなかった。上にあるよその田んぼからの落ち水をもらうか、上の田の端に水路(幅20cmほどの溝)をつくって水を通させてもらうしかなかった。取入れが終わってから、コメ袋に1斗ほどの米をその上の田の所有者に届けるのに、父に連れられて行ったことがある。夕方であったか、暗くて大きな屋敷の門をくぐって米を届ける場面が、子ども心にも何か屈辱的な思い出として残っている。年貢を払う小作人のようなものであったか。今から思えば、当たり前のことなのだが。

もちろん、山科も年中水不足の地であった。明治23年疏水が開通しその後、東山用水と洛東用水ができた。ほとんどの村はこれにより永年の水不足は解消されたのである。

しかし、この用水より山側の水不足は完全には解消できなかった。わずかに流れる谷川の水をせき止めることで用水池が作られた。上花山に今もある「舞台池」がそれである。谷の前に広がるわずかな扇状地に堤防を築き上げ、池にしたものである。村人たちが総出で工事をした、と聞いている。

100mほど西側にも池を掘った跡が残っているが、「山なっちゃのカラ池」と地元の人は呼ぶ。同じように堤を築いたものの、水は貯まらなかったようだ。でも、たくさんの労力が注ぎ込まれ、今もその高い堤防を見ることができる。

国道1号線の東山トンネルを出て道が大きくカーブし、下り坂の途中にランプウェイがある。「舞台池」はそのすぐ手前、右手の大きなマンションのすぐ北側にある。現在は勧修寺の浄水場へと向かう導水管(疏水から山の中を通っている)より引き込み、ポンプアップされて溜められている。

この舞台池はかつて新幹線の東山トンネルの掘削工事の際、地下水脈が切れたということで、旧国鉄に補償をしてもらった。現在の新大石街道が新幹線を越えるところに水揚げのポンプ小屋を建て、横を流れる東山用水の水をポンプで池まで送水していた。この間、先人たちは何度も寄合を持ち、話し合ったことは容易に推測される。

 

 

西野山にもため池が多く、それはおそらく同じように村人たちが共同して手で掘り、大切に現在までみんなで管理し続けてきたのだ。何よりもその前に、村人が話し合い労力を提供しあってきたのである。

水争いを繰り返しながらも、村人たちが協力し合い、長い年月にわたって百姓が築いてきた歴史がこの山科にはある。