山科人
田んぼは水を必要とする。最も需要があるのは、田植え前に「代掻き(しろかき)」という作業をするときである。
田を荒く耕した(田起こし)後、水を入れよく混ぜ合わせどろどろの状態にする。現在はトラクターや耕耘(こううん)機のロータリーでミキサーのようにして田の表面を進んで行く。昔は牛に犂(すき)を引っ張らせて土をひっくり返し、大きな塊を一つずつクワで細かくした状態で水を入れた。すぐには水となじまないから時間をおいて再度耕耘する。冬の間、耕作はしていないので、土の表面はひびが入っており、水は簡単に溜まってくれない。土を撹拌して、細かい土が隙間を詰めるからこそ漏水が解消されるのである。その作業中は大量の水が必要とされる。
また田植えには人手もかかるが、日数もかかる。ひと月以上時差ができるので、田植えの予定日に合わせて苗を育てるのである。うんと遅く植えれば他の田とバッティングするリスクは減る。
田植えの後も水管理は大切である。特に田植え後すぐは、根が十分活着してないので
百姓は特にこの時期に神経を使う。日照りが続き、水が切れると苗は枯れるか、枯れないまでも、稲の根は「水中根」から「地中根」に変化してしまう。いったん地中根に変化してしまった稲は水の中で酸素を取り込むことができず、「根腐れ」を起こし枯れることになるわけだ。
現在、この山科以外に遠いところに田んぼがあるという農家は多い。亀岡、八木、栗東、野洲といったところだ。そこには山科では決して見られない大面積の田んぼが広がっている。高速道路を利用して、ふだんの軽トラから乗用車(中には高級車)に乗り換え、トランクに長靴を放り込んで出ていく姿を見かけることがある。「水を見に行く」という。一辺が100m近く区画整理された田んぼにはコックが取り付けられ、ひねると2,3時間で満水となる。「その間に、散髪したり、ホームセンターで時間つぶしをするねん」と聞いたことがある。郊外のこういった店の利用者は町の人だけではないのである。今は遠くにあっても容易に水の管理ができるわけだ。
さて、百姓さんのこんな生活をほんの少し時間を巻き戻すと、それはそれは、水をめぐっての壮絶なバトルがかつてあったのだ。
20数年程前であったか、雨の少ない年があった。よく来ている農機具屋のオッチャンが「このあいだもね、丹波のほうで水の取り合いで取っ組み合いのけんかをしとったんですわ」とその様子を聞かせてくれた。「もう江戸時代でっせ」。
最近は灌漑施設が整備されてきたので、あまりそういう話を聞くことがなくなったと思っていた自分には「江戸時代」の言葉に少々衝撃を受けたものだった。
先日、ふるさとの会で行った「社寺巡礼・小山二の講コース」で分水石(川の流れを人工的に石で調整し、それぞれの川の水量を配分した構築物)を見学した。その時、隣にいた西野山のWさんに「水争いは昔すごかったみたいですね」と話しかけると、「すごいというもんやないで」「鉄砲。鉄砲やで」
それ以上のことは聞けなかったが、昔からずっと農業をしていて、山科の百姓のことなら何でも知っているWさんである。おそらく現在考えられない「水争い」が起こっていたことが容易に想像された。
川は上流から下に流れる。「代かき」時の大量の水を必要とする時と、「養い水」と呼ばれる普段とはその重要度も違う。それぞれの田には、板などで川をせき止めて水口に流す。せき止め方加減で下流に流れる水量も変わるわけである。だから上流の百姓がそんなに急にたくさん必要でもないのに、完全にシャットアウトしてしまえば下の田の百姓は怒る。また満杯になってしまってもほったからしで、オーバーフローしている状態を見逃さない。村の大きなトラブルのもとになるわけだ。
みんなが使わない夜中、取り入れ口のそばで寝ずの見張りをする頬被りした一枚の百姓の写真を見たことがある。額に深く刻み込まれた皺が印象的なそのモノクロの一枚は忘れられない。日本のあちこちで、自分の田んぼの水をそんなふうにして確保したものだった。
(後編に続く)