ねこまねき
中学生から高校生ぐらいの頃、「好きな花は?」と問われると、間違いなく「あじさい。」と答えていた。
なによりも、濃い赤、ピンク、紫、青紫、ブルー、白、という色のグラデーションの美しさ。実は額だという花びらの縁の可憐なかわいらしさ。細かな花が寄り添うように集まって一つの花を構成する造形。
雨に打たれてひっそりと色を変えてゆくその不思議さに惹かれて、スケッチブックに水彩絵の具で描いてみたり、あじさい柄のハンカチや扇子などを探し求めたりした。
あじさいは十代の私にとって、最も美しい花、大好きな花だった。
しかしその後、大人になるにつれて、私の「あじさい」は受難の時期を迎える。
あるとき「好きな花は、あじさい」と答えると、からかうように「まあ、あじさいは、野の花、野草系の花だけどね……」と言われたことがあった。「どこにでも咲いている、あまり値打ちのない花だ」、ということのようだった。
また花言葉では、花の色が変わることから「移り気」「浮気なこころ」などと言われていることなども知った。
それに対して、バラがヨーロッパの王宮でも古くから深く愛でられた歴史をもつ高貴な花であること、純愛の象徴であること、ある種の蘭は栽培が難しく、その値段がべらぼうに高いこと。新築のお祝いごとなどには、なかでも真っ白な胡蝶蘭が競い合うようにして並ぶことなど。花にまつわるさまざまな事情、文化の背景などを知っていくことになる。
そんななかで私のなかで「あじさい」への評価はいつしか下がっていった。
大人になると、自分自身の素直で純粋な気持ち、「美しい」といういう審美眼や、「好きだ」という価値観に、希少性や金銭に置き換えたときの対価、人がどう思っているか、社会がどう見ているかなどの評価の基準が入ってくるようになるようだ。私にとっての「あじさい」はその典型だった。
ある意味、それは社会のなかで人が生きていくうえで必要な価値観だといえる時期があるのかもしれない。人生という激流を、人はみなたった一人、笹の小舟に乗って越えていく。ガラス玉は光に透かしたときいくらきれいでも何の値打ちもないが、ダイヤモンドは一粒何十万円……。同じもらうのなら、売るときに高く売れるほう。場面場面で、賢明な判断や賢い選択に迫られたときがあったような気がする。
でも最近、私は60歳を過ぎた。
これからもやりたいことがいっぱいあって、新しいことにも挑戦したいと思っている。バラもスイトピーも桜もかすみ草も、それぞれに大好きだ。
でもそろそろ、「いちばん好きな花は」、って聞かれたら、もう一度「あじさい」って言ってもいいのではないかな? と思っている。
なんのために生きていくのか、なにが自分にとって大事か。それを大切に生きていくことができたらな、と思っている。