山科人
小学生のころ。いつものように隣のサトっちゃんと遊んでいた時、「あの笹の生えてるとこへ行こか?」と誘うと、「あそこはあかん。あれは北花山のやつの『すいば』や」と言われたことがあった。「北花山」とは隣の村の名である。普段はおとなしく温厚な、一つ上の学年のサトっちゃんにしては、珍しく厳しい語調の返事だった。子どもの自分に「他人のテリトリーに侵入してはいけないこと」とか「守られるべき掟」といった存在を知らされた初めての経験であった。そのあと「すいば」とはどういうものか、をそれ以上に知ろうとはせずに、60年以上経ってしまった。
去年の春、知り合いに誘われて烏丸近くの居酒屋に入ったら、店の名前がなんと「すいば」であった。店の人が、あの「すいば」を知っているかどうかは尋ねなかったが、私にとってはサトっちゃんの言った「すいば」を思い出す機会となった。この店は市内に何軒かチェーン店として繁盛しているそうだ。飲み屋だけに「酔場」を掛けているのかもしれない。
さて、この3月に疏水近くで野鳥の観察会に行った。案内はSさんいう方で、観察会の後のおしゃべりをしていた時に偶然、「すいば」の話が出て来た。私の、子どもの頃の話題になったとき、「『すいば』という言葉をご存じですか」と聞かれた。Sさんは、先に挙げた北花山で幼少時代を送られた、ある京都大学名誉教授の方と共著の出版物があるという。その中でその先生が「自分の人生は『すいば』によって育てられ、役に立った」という内容であったことを教えていただいた。さっそく読んでみた(『里山学のすすめ』(昭和堂)。以下その概略。
「すいば」とは「好き場」の転訛であるらしい。つまり子どもだけに伝えられていったテリトリー、とでもいうべきものである。それも子どもにとって特別に価値のあるもの、そして時には家族も喜ぶ獲物がいる「秘密の採集場所」である。この獲物はフナ、カニ、クワガタ(ゲンジ)、オニヤンマ、ユリ、イタドリ、マツタケ、クリ、イバナシといった動植物が挙げられる。子どもにとってはまさに宝物。そして小学校の高学年の年長者が「ほかの人に言うたらあかんで」と念を押してその「すいば」のありかを教えたのであった。しかし、教えた子どもも中学生になると、他の遊びや関心事に移ってしまい、いつしか忘れてしまう。
70歳を過ぎた近くの方に色々聞いてみたところ、山科周辺の里山を中心にこの言葉が使われていたことがわかった。詳細な地図の上に先ほどの採集物の項目と場所をプロットしていくと60年前の山科全域の生態系分布図ができるに違いないし、それを守っていこうとした(それはある意味で環境保護にも通ずる)先人の貴重なビオトープ思想に触れることにもなりそうだ。山科はすごい。