山科と伏見をつなぐもの
生まれてから一三歳になるまでの子どもの頃住んでいた伏見・桃山と、大人になっていま住んでいる山科・西野と。
どちらも京都の中心部からはずれていることには違いないし、車で約四〇分、距離的にいってもそう遠くないふたつの場所だけれど、この二地点を結びつける何かがないか。二つの土地をつなぐ記憶の糸のようなものはないものか。あれこれ考えをめぐらせていたら、目の前にそれはあった。
「水」だった。
いま住んでいるマンションの前を流れる山科疏水の支流は、やがて山科川に合流する。そして南下して桃山南口のあたりで宇治川に合流し、観月橋からは淀川と名称を変えて、大阪湾に流れ込む。私が子どもの頃、住んでいたのはその観月橋の手前、宇治川のほとりなので、二つの地点は水の流れでつながっているのだ。一番最短コースで移動するルートは川だということになる。そして今回、書こうと思うのは、まさにその「川」と「水」にまつわる子どもの頃の話なのだった……。
ローカルことば
ところで、子どもの頃は日常的に使っていた言葉で、いまの暮らしのなかでは完全に死語になっている単語がいくつかある。
たとえば、家族が食事を囲む食卓机。いまは、生活全般が椅子式になったこともあって、台所の「テーブル」だと思うが、昭和三〇年代、それは「飯台(はんだい)」と呼ばれていた。また三人姉妹だったので二段ベットがあったが、もちろんそれはベッドではなく、「寝台(しんだい)」。
玄関のドア扉のことなのか、その周辺一帯を指していたのか、とにかく玄関のことは「門口(かどぐち)」と呼んでいた。これらの単語は普段、耳にすることがないだけに、ひとたび発音すると一気にいろいろな想い出がよみがえってくる。
もともとかまどがあった場所にガスレンジ台を置いたからそうなったのか、父にとって火を使う場所はとにかくそうなのか、ガスレンジのことは「おくどさん」。……でもこれはもしかしたら関西でも京都だけ?
もっとローカルな言葉もある。狭い地域限定の方言のような、あるいはその家にだけで使われているその家に独特の事象のような表現。
我が家では間違いなく、その言葉のナンバーワンは「水つき」だと思う。標準語に訳すと「水害」か? でも「水害」と「水つき」とはちょっとニュアンスが違う。ともかく我が家における「水つき」は、とてもよく使われていた生活用語であり、年中行事、日常茶飯事だった……。
川があふれる
さて、北では海のように広い琵琶湖も南に行くに従いだんだん狭くなり、瀬田大橋からは瀬田川となって宇治川ラインの山々の間を蛇行して流れていく。天瀬ダムへいったん貯水された水はそこからは宇治川へと名前を変える。一方、三井寺あたりを取水口に山科疏水となった流れは長等山の下を通り、山科を東西に横切り、蹴上の浄水場から京都市内に入るまでの間にいくつかの支流が南下して音羽山から発する山科川へと合流する。そして桃山南口のあたりで宇治川と合流する。この宇治川と山科川が合流する地点の景色はとても勇壮で、私は子どもの頃、この川と川が出会って一つになり、真ん中の土地が先端が船の舳先のようになって、川に乗り出して進む船のように見える景色を見るのが大好きだった。最初に見たときはびっくりした。なにか冒険心につながるような気持ちがした。特に、乗れるようになったばかりの自転車で、一人、遠出をしたあとに見た景色だったから余計にそう感じたのかもしれない。
その川の流れは、台風の大雨で琵琶湖の水位があがると、水量が増す。天瀬ダムは満杯になると、そのままではダムが決壊してしまうので、「ウーウー」という不気味な警戒のサイレンと共に放流を始める。すると放流された水は大きなうねりになって宇治川を下流へと押し流されていくが、川幅が追いつかなくて、ちょうど土地が一番低くなっている観月橋の手前で川からあふれ出して大きな水たまりをつくってしまうのだ。京阪電車宇治線の線路も、外環状線の道路も、そのあたりにゴタゴタ建て込んでいた古い民家もすべておおきな水たまりに浸かってしまう。
私が大きくなった家は、その大きな水たまりの、ちょうど真ん中あたりにあった。
一年に一回、大きな台風が何度も来た年は、二度、「水つき」は確実にやってきた。
人生最古の記憶
私の一番幼い頃の記憶、人生で一番古い記憶は二歳のときのもので、私は母の背中にねんねこ袢纏で背負われている。あたりは雨が降っている。母は傘を差し、左横にレインコートを着た三、四歳の姉の手を引いている。長靴を履いた姉のくるぶしのあたりまで、すでに水がきており、水びたしの道路をじゃばじゃばと歩いている。そのとき父はどうしていたのか、上の姉はどこにいたのだろう? とにかくその時、私を背負った母と姉が向かっていたのは高台にあるお寺だった。これからお寺に避難しに行くのだった。
この頃は、水つきがはじまったばかりの頃で、周辺の住民何人かはお寺に避難して一夜を過ごしていた。
その次に古い記憶が、たぶんその一年あと、お寺では避難してきた人たちに朝ご飯をふるまっていた。そのとき食べた、さつまいもと豆腐とネギのみそ汁が非常においしかったことと(私のなかで、いまでもそれはみそ汁の具の定番であり、長い間「寺のおつゆ」と呼んでいた)、住職が私の脇の下を両手でひょいと抱え上げて、
「ほら、見てごらん。おうちが水のなかに浮かんでいるよ」
と言われたこと。その抱え上げられた感覚、視野が急に高くなった感触をやけに覚えている。
お寺に避難したのは一年か二年のことで、何回か水つきを経験し、水は鉄砲水ではなく、ジワジワと線路を越えてゆっくりとやってくること、ある一定以上の高さ(我が家では一階の鴨居のあたりまで)以上はこない、とわかると、避難はせずに、家の二階で待機して水が引くのを待つことになった。
家のなかはてんわわんや
二、三日前から降り続く雨で、川の水が増水していることは子どもたちの目にもあきらかだった。大人たちがざわつきはじめた。その頃になると天瀬ダムが放流した何時間後に、川が氾濫して水が線路を越えて家の近くまでやってくるか、おおよそわかっていたようだった。
水つきが決定になると、両親はまず、吹き抜けの走り土間の台所にあった冷蔵庫を水が浸からない高さまで、二人がかりで滑車を使ってロープで引き上げる。それ専用の滑車が常置されており、吹き抜けの二階の高さの梁を利用して冷蔵庫を置く棚が作られていたのだ。(それにしても人手がある世帯はよいとしても、高齢世帯や女所帯はいったいどうしておられたのだろう? と今にして思う。近所にもおられたと思うのだが)
それから一階にある家具を順番に全部二階に上げていく。そもそも普段から一階にはテレビぐらいしか、大きな家具は置かれていなかった。タンスは引き出しを抜いて階段の下から一段づつバケツリレー式に上に上げていく。籠にこまごまとしたものを入れ、子どもも手伝い、階段の下まで持って行く役と階段の上で受け取る役。
経験が生んだ暮らしの智恵というか、あふれた川の水は当時、汲み取り式だった汚水を含めて溢れ出すため、大変、非衛生だった。お風呂の湯船を汚染させたくないので、両親は湯船をまず水でいっぱいに充たして、蓋をし、上に石臼などの重しを置いておく。すると中には汚い水が入らない、とか、五人家族の靴や泥で汚れた長靴などは、わざわざ二階に上げなくても、最後に、たらいに放り込んでヒモでつないでおけば水に浮かんで流れされない、とか、いろいろと「大人って、賢いなあ」と、私は感心していた。
とにかく一階にあった荷物を全部二階へ上げ、最後にぶるぶる震える犬を引きずるように二階に上げる頃、ついに裏の線路を越えて、水が家のなかまで入って来る。しかしその頃には子どもだった私はすっかり眠くなって、荷物でいっぱいになった寝台の上の荷物の谷間でいつも眠ってしまうのだった。
窓の下は川
朝、目が覚めると、窓の外はどこを見ても川になっていた。普段なら京阪電車の線路が見えているところも松林もみんな泥の川になっていた。家の前の道路も川になっていた。濁流をいろんなものが流れていく。木などにまじって古い箪笥や家具やおもちゃのようなもの、いろんなものが流れていくのを見るのはちょっとおもしろかったし怖くもあった。トイレは当然、二階の物干しの手すりから川へ向かってした。怖い場合は家の階段の上から下に向かってしてもいい、と言われた。見下ろすと、階段は二、三段目から下が水のなかに沈んでいた。同じことだけど、心理的に家の中で階段に向かってするのはなんとなく嫌なので、外の川に向かってした。
母が非常食に用意しておいたふかしたさつまいもを朝ご飯がわりに食べていると、下の、本来道路の場所に船が行き来して、各家の二階の窓に向かってカンパンを放り込んでくれたりした。正確に投げ込む技術がすごいなと思ったが、カンパンはご承知のようにあまりおいしくない。「もう少し気のきいたお菓子とかくれるといいのになあ…」など思いながら、そうして水が引くまでの間、一日か一日半、ひたすら待つのだった。
水が引いてからがまた大変だった。一階の床板は剥がされ、しばらくは土台の上に渡された長い板をつたってトイレへ行った。かなり危なかったのでは? 危険も多かったのでは? と思うが、両親はとにかく家中をゴシゴシと水で洗い流して、それが乾くまでは二階暮らしが続く。その頃になると、京都市か保健所からDDTを噴霧する大きな消毒車が回ってきて大量の白い霧を散布にやって来た。危険なこともあっただろうし、両親や大人たちは大変な思い、みじな思いもしていたのだろうが、子どもは気楽なもので、水が引いたあとには、あちこちの窪地に突然、それまでになかった池が出現し、そこにどこかで飼われていて逃げ遅れた金魚が住みついている、大きな魚がいると噂を聞けばみんなで見に行き、近所のスーパーで倉庫が水に浸かってしまった在庫品を1円で売っていると聞けば買いに行き、水が引いたあとの町をそれなりに楽しんでいた。
けっきょく、観月橋一帯に水つきがあったのは昭和三五年頃から六~七年間のことではなかったかと思う。
私が小学校三年生のとき、ようやく宇治川にりっばな堤防ができて、「これでもう水つきはなくなった。よかったなあ」、と心から安堵している両親の横で、ひんしゅくなので口に出して言わなかったが、実は心のなかで少し「なあんだ…」と私は思っていた。一家総出で家のなかでピクニックごっこをしているようだったし、大手を振って学校は休めるし……そんな非日常がけっこう楽しかったようだった。
それにしても昭和三〇年代後半、あの時、あの頃、あの観月橋の地域の一帯がなぜそんなことになっていたのか? なぜ何年も放置されていたのか? 鉄砲水ではなかったから死者は出なかったように思うが、けがをした人とかはいたと思うし、被害も大きかったと思うのだが、何か行政的な手立てはうてかったのか? 住民運動とかはなかったのか? そういう時代だったんだろうか?
いろいろと謎だし、だいいちなぜそんな不便な場所に小さな子どもが三人もいる両親はなぜ住み続けていたのか? と、いろいろとわからないことが多いのだが、両親にすれば、まさか「水つき」というオマケがついているとは知らずに引っ越してきた、一五坪の、そこは初めての「持ち家」だったことだけは確かなようだ。
終戦後、台湾から復員してきたものの、生家の大江町に帰っても食べて行く術はなく(同じ村で一人息子が招集され亡くされた家もあったのに、父の生家ではなぜか四人の息子が全員無事だった)、もともと長男以外は跡取り娘のところに養子に入るしか選択肢がない戦前の農村で、農業以外の仕事がしたくて勤めた舞鶴工廠で、軍人、軍隊だった。日本に戻って来てからも(父は名古屋港に引き揚げ)しばらくは、当時、引き揚げて来た人、出迎える人でごったがえす舞鶴港に、毎日、小麦粉と砂糖を練って焼いただけの菓子を売りに行き、それが飛ぶように売れて、小金を稼いだというが、それも一か二年のこと。やがて外地で覚えた自動車の運転技能だけを買われて、京都市水道局に入局。京都市内へ出てきて、母と見合い結婚。新婚生活はガレージの奥に敷かれた畳四畳半に戸を立てたスペースを借りし、りんご箱が飯台だった。荷物が置けないので母の嫁入り道具はミシン一台だけ。そこで長女が生まれ、アパートに引っ越し、次女が生まれ、ようやく昭和三三年、三女の私が生まれる年、大きな決意して当時二〇万円で買ったという初めての「自宅」だったため、両親があの家に深い愛着をもっていたことは容易に想像できる。私たち姉妹にとっても強烈な印象の残る子どものときの家だった。
それは日本が敗戦から高度経済成長に向かってすすんでいく時代、カンカンにいっぱい入ったグリコのオマケを一面にぶちまけたような暮らしだった。
いまも夢にみる
いまはもう取り壊されてない、この観月橋の家は、いまでも時々、夢に出てくる。世界一周旅行の途中で、インドのバラナス、ガンジス川のほとりに建つホテルで熱を出したときも、濁った黄土色のガンジス川がたぶん、増水した宇治川を思い出させたんだと思う。熱にうなされながら、子どものときのこの家のことを夢にみていた。
でも、よくよく考えたら、小学校四年生のとき、「水つき」のことを書いた作文が、伏見地区の『伏見の子』という作品集に掲載されて表彰してもらったことがその後、文章を書いたり表現したりすることが好きになるきっかけになって、今につながっていることを思うと、観月橋の「水つき」は私にとって子どものときの原体験なのかな、とも思う。