死の枕辺
「晩飯やまだか、早う早う。」とまるで腹のへった子供のようにせき立てられ、「ハイハイハイ」と御飯の済んだ直后お父さんは昏睡状態に入られたのです。
貧に育ったお父さんは晩年御馳走が好きになり、それでも生涯麦飯は続けて居られましたが、その最后の食事は貧しい病人食でした。あわただしい最後の晩餐でした
。
「ごりんじゅうです。」と比元先生は一礼して帰へって行かれました。
始終親切に診とって下さった比元先生でした。
枕元に坐り、ガーゼに水を含ませて口を湿して上げていた母は暫くすると私に代わるようにと申しました。
疲れがひどくて、到底起きてはいられなかったのです。
納戸に入って眠ってしまった母。
すやすやと寝息を立てて安らかに眠っているような父。
口を湿している私。
ふとかすかに痰がのどにからむ音が始まりました。
痰がからむと人は死ぬものと聞いて居りましたので、母を起こそうとのぞいて見ると、死んでいるのではないかと見える程深い睡りにおちているのです。
午前零時過ぎ。
この土地の人人は云う。
真の夫婦が死別する時、その片方も死のように昏睡すると。私は母を起こすのを止めました。
南国とは云え、ここ北薩の地は零下三度、座敷には火鉢が一つある切り、二十帖もあるこの坐敷に隙間風あり、骨までしみ入る寒気、死んだように眠る父と母。
もの音なし。
この深夜、広い世間に親子三人取り残されている心もとない感じ。
この時刻、外地にいる兄は、近歩に入隊している弟は、姉たち二人は、皆一体どうしていることでしょう。
「子孫の為に美田を残さず。」などと西郷どんの真似をしていたお父さん。
山のような負債を残して、今死に赴く父、数日前ジャカルタからの兄の便りに、「負債のことは一切この陸映が引き受けました。ご安心下さるように。」と
外地にいる兄は武田製薬の外地勤務のサラリーマン、これまで数年間サラリーマンには桁違いの大金である負債のための利息としてせっせと送金を続けているのです。
その金は焼石に水を承知の上で。
三十才まだ独身の兄、一体兄はこの負債をどう処理するつもりなのか、私は只もう呆然としてしまうのでした。
近く大陸へ出征するだあろう弟陸寿。
酒呑みでさえ甘党に変はるという軍隊に居て、酒は呑まず、元元甘党である弟は面会の時私の持ってゆく竹皮包みに山盛りの大福を一気にペロリと食べてしまう。
私の帰る前の日まで子連れで看病に来ていたと云うミサオ姉、シノブ姉。、子連れの看病とはこれ又大変なことである。
坐っていても膝が凛えて来ました。でもお父さんにはアンカが二つ入れてあります。
足の感覚を失ったお父さんは、炭火のアンカに直かに足を突込んでも熱くないのです。
からまっていた痰の音が消えるともなく消えました。
耳をつけて聞くと呼吸の音がない。額に手を当てて見ました。
まだ温もりがありました。
しかしそれは急激に冷えてゆくのです。
そして石よりも冷たいものに変はってしまったのです。
昭和一六年一月二八日午前三時。
数へ年六十九才。
遥かに大陸には濛濛たる戦いの図。
対アメリカ戦始まろうとしているこの年。