こんばんは。ふるりえです。



先日、夫が私たちに相談も報告もなく

ある試験を受けた件で


私が、その事実を知って1ヶ月あまり

いろいろ考え、悩み、ヤキモキし、


私の上の空な態度を見てか、息子から


「ママ大変そうだから。」


と言われたり、


一時期は体重も4.5kg減だったりしました。


(ようやく新年を迎えて、おかげさまで

体重がかなり戻ってきました😊)




今は

息子も金魚のふんのように

私を追いかけて

おしゃべりを続けたりすることもありウインク



私自身の心持ちも

落ち着いていると思いますハート






ここ数年

夫とは、

かなり距離を置いて生活してきました。




日常のいろんな場面で

夫の言動に振り回されることが


距離を置いて生活することで

ずいぶん軽減されると感じたから。




そして、

私と息子が夫の自分勝手な言動に困っている

ということを

夫に知ってもらいたいから。








ブログを始めてもうすぐ1年になります。




ここ数年いろいろ夫とありましたが


この距離感で生活するようになって


そして、

夫というものが

だいぶわかるようになってきて


心穏やかに生活できるようになってきて


そんな日常をあれこれつづってきました。






でも、昨年11月下旬に

夫の試験のことを知ってしまい


久しぶりに私の心は乱れました。



この件は、実家の母にも話していません。



昨年末に書いた、夫が私たちに内緒である試験を受けた話(とその後)についての私の思いはこちらです。

⬇⬇⬇






でも、この1ヶ月

私はある人に

この「切実な事情」を

ずっと聞いてもらってきました。





そのおかげで


私は、夫に対する激しい怒りを

少しずつ鎮め、


自分の偏った視点以外から

自分のことや夫のことを見つめ


少しずつ

夫との付き合い方に

折り合いをつけていけるようになってきた

気がします。





そう思ったのは

こちらの新聞記事を読んだときでした。



朝日新聞朝刊2021年12月16日⬇



⬇記事の右半分です。


⬇記事の左半分です。




蛍光ペンを入れたところを中心に

抜粋します。



社会にはヒリヒリした問題がたくさんあり、

立場の異なる者同士が、

膨大な言葉を交わしあっている。


エビデンスやファクト、ロジックや

物語が行き交う。だけど、言葉は両者を

余計にヒリヒリさせるだけで、

全然伝わらない。すると、

より強く主張せねばと互いに思うから、

声は大きくなり、言葉は硬くなる

トゲが生えるかくして切っ先鋭くなった

言葉たちは対話を深めるのではなく、

対立を深めてしまう。


(略)伝え方の問題だろうか。いや、

「聞く」が不全に陥っている方が問題だ。


(略)ああ、対話はうまくいかない。

懸命に伝えたはずの言葉が、

曲解され、歪曲され、邪推され、

見当違いな答えが返ってくる。

だから、話を聞けば聞くほど、この人は

おかしいのではないかと思ってしまう。


聞けなくなるのは

相手が悪魔的に見えるときだ。

相手の言葉の裏に

嫌悪するべき何かが垣間見えてしまうのだ。

だとすると、聞かれていないのは、

言葉の内容ではなく、

相手の切実な事情に他ならない。

(略)そういう事情が

互いに伝わっていたら、どうだったろう?

トゲのある言葉に、

悪意とは違った切実さが響いていることが

聞こえたはずだ。


しかし、

ヒリヒリした対立のさなかにいて、

言葉の背景にあるものを聞くことなんて

できるのか。ひとたび言葉がすれ違い、

攻撃的になるなら、

相手が悪魔的に見えてしまうのは

避けがたいではないか。


その通り。だから、最初に聞く役割を

担うべきは第三者だと私は思う。

対話は二人きりでするものではないのだ。

あなたの切実な事情を裏で聞いてくれる

第三者

そして相手にもまた別の第四者が必要だ。

ここに「聞く」の秘密がある。

聞くためにはまず聞かれなくてはならない


誰も自分の話を聞いてくれない

と思うとき、

社会は敵だらけの危険な場所に見える。

すると、当然のことながら、

他者は悪魔的に見えやすくなる。だけど、

もし誰かが十分に聞いてくれたならば、

世界には理解してくれる人「も」いる

と思える。その信頼感が

悪魔的に見える人にも

人間的事情があるかもしれない、

と想像させてくれる。

それが「聞く」を再起動する。


(略)第三者は善いものだとは限らない。

高みの見物を決め込み高説を垂れる人も

いるだろうし、中立に見せかけて

強者に加担する人もいるだろう。

だけど、中には

やむにやまれぬ事情で対立する

当人たちの話を

横で聞こうとする第三者もでてくるはずだ。


高みでも、中間でもなく、横に立つ第三者

そういう支えがないと、対話はできない。

対立から変革が生み出されるのは、

善き第三者がいるときなのだ。

もしかしたら、

私が対人援助職をしていることによる

理想論に聞こえるかもしれない。

だけど、本来社会とはそうやって

当事者と第三者がさまざまな関わりを

なす場所ではなかったか。

社会とは3人以上の人が集まるところに

はじめて生まれるものなのだから。









私は11月の下旬

夫の受けた試験の二次試験の2日前に

「もしかして、やっぱり?」

と、夫が私に内緒で

ある試験を受けたことを疑い、

夫に手紙でききました。



この半年、私が「もしや?」と思った

あれこれを伝えました。



「私の予想が間違っていたら、疑ってごめんなさい。」

と付け加えた上でです。





実はこの半年の間に

何度か、私は

「こういったたぐいの試験を

夫は受けようとしているのではないか?」

と思うことがあり、


私から夫に「もしかして......」と声をかければ、

夫もそのタイミングで、

私に報告はしたのではないかと思います。



でも、これまでの夫の傾向からいって、

私から声をかけ、

夫に「口頭で報告できる機会」を与えてしまうと、

夫は非常に口がうまい人なので

私はあっという間に言いくるめられてしまう😰

という強い恐れがありました。



もうこれ以上、

私だけがモヤモヤして夫だけがスッキリしてしまう

という状況を作り出したくなくて


ここまで私はまったく知らないふりをしてきました。







そして、夫は認めました。



そこから私は夫のことを責めました。

怒りをぶつけました。

すべて手紙でです。




でも、夫からの返事は


「受けることになりました。」


「二次の面接試験を受けるチャンスを

与えられました。」


と、どこまでも


”自分の強い意志”というより

”成り行きでそうなった”

というニュアンスでした。





しかも、夫は

義母にはちゃんと最初から

試験を受けることを話していました。




でも、私には


「話したら反対されると思って

言えませんでした。」


と。



こうなってしまったのは、

「夫の特性や性格・気質」

によるものだけが原因ではなく、おそらく

「私と夫のこれまでの関係性」

というのも

とても大きく影響しているのだろうと思っています。







でも、もともと夫と私と息子の間では

「そういう試験は受けない方がいいね!」

ということになっていました。



過去のあることをきっかけに

”夫には向き不向きがあって

その試験を受けることはしない方がいい”

と私も息子も思っていて、

夫もその時は「そうだよね。」と言っていて、


さらに今年9月に夫が夕飯の時体調不良を訴え、

その時私が「仕事のストレス?」

と聞いたら、夫が

「仕事、全然回ってねえ💢」

と言ったので、息子がある提案をしました。


それが、

「今回受けたような試験を受けない方がいい」

ということだったのです。


でも、このとき夫はすでに

一次試験を受けたあとだったのです!


➡だから気まずくて、

夫はすぐにその場を去っていきました。






そんなわけで


夫がもし

「そういう試験を受けようと思うんだけど

どう思う?」


と相談してきたら、


最初は私も息子も反対したでしょう。





でも、さらにいろんな事情

(夫からはハッキリ伝えられていませんが、

私の想像するところによればの夫の本音)

を夫が話してくれれば、



息子も私も

「そうかもしれないね。」

と、夫の決断に賛成した気がするのです。





でも、夫は、


「最初に反対される(怒られる)こと」


だった。



そして


「さらなるいろんな事情

(私が想像した、夫の弱音、本音の部分)

を私や息子に話すこと」


だった。






だから、黙って試験を受けた


のだと思っています。







私が、この夫のいろんな”切実な事情”

想像するまでに


硬い言葉で、トゲのある言葉

夫を責めました。



夫が悪魔的に見えました



夫の言葉(と発覚後の行動)の裏に

嫌悪するべき何かが垣間見えました





そして、

これまでの夫に対するいろんな思いも含めた

私の真っ黒い思い、切実な思いを、


私はこの1ヶ月、

ある人にたくさん聴いてもらいました。




高みでも、中間でもなくて、

横に立つ第三者。





その人は、


私の吐き出しを共感して聴いてくれました。


夫の切実な事情も

「こういうことなのではないか?」

と助言してくれました。



私は、これまでの自分のことも

いろいろ振り返れました。


また、

夫の育ってきた環境のあれこれにも

思いを馳せることとなりました。





どれもこれも

「善き第三者」となってくれた人が

私にはいたから出来たことです。





もし、私に「善き第三者」がいなかったら、


私は夫をただ責め続け


そこから何かを生み出すことも


変わっていこうという気持ちがわいて

くることも


なかったろうと思うのです。





「対立から変革が生み出される」




”変革”はまだ生み出されていませんが、




それでも

私は、これから

夫とどのように付き合っていくといいのか、



これまでよりはずっと冷静に、

少しゆったりと構えて

考えていける気がしています。



時間はかかると思いますが......








この件をきっかけに


これまで夫に数年に渡って伝えてきた

私の気持ちや思い


夫がようやく本気で受け止めようとし出した

と思います。



一瞬で終わるかもしれませんが......






それでも

この一瞬の私の爆発だけは

夫の記憶に残ったはずです。



今は、それでいいと思っています。







無理に夫をどうにかしようと思わず、


自分がどうしたいかしっかり考えて


したいようにしていこう!


と思いました。







きっと、この出来事は


私の生き方

(夫に対しても息子に対しても)

を見直すのに


いいタイミング、チャンス


なのだと思いました。






もしかしたら、”変革”というのは


「私と夫の関係」

以上に

「私自身」の変革


と考えてもいいのかもしれません。





夫が何か自分のことを

真剣に考え始めるまでは、


私は夫に対して

毅然とした態度を貫こうと思います。




そのことで

息子には不快な思いをさせることも

時にはあるかもしれないけれど


そこは息子を信じたいと思います。






「善き第三者」として

ずっと私の切実な事情を

裏で聞いてくださっているあの方に


私は感謝していますキラキラ





そして、

私のこれまでの

こうしたいろんないきさつや

今の率直な気持ちや思いを書いた

長々しいこの記事をはじめとする年末からの記事

を読んでくださる方がいらっしゃると思うと


さらに心強く思えます。





最後まで読んでくださり

ありがとうございました。