水俣病 1932年(昭和7年) ~ 1968年(昭和43年)
1932年 - 日本窒素肥料(現・チッソ)水俣工場で、水銀触媒によるアセトアルデヒド製造の操業開始
【アセトアルデヒド 無色で特有の臭気があり、常温で高揮発性の液体です。有機化学工業の原料、合成樹脂、合成ゴ ムなど化学製品の合成原料として用いられる中間原料】
1946年 - 日本窒素肥料がアセトアルデヒド、酢酸工場の排水を無処理で水俣湾へ排出。
1949年頃 - 水俣湾でタイ、エビ、イワシ、タコなどが獲れなくなる
1952年 - 熊本県水俣で最も早期の認定胎児性患者が出生。ただし認定は20年後
1953年 - 熊本県水俣湾で魚が浮上し、ネコの狂死が相次ぐ。以後、急増。
1954年8月『熊本日日新聞』が「ネコ100余匹が次々と狂い死にした」と報道。
これが水俣病の初報とされる。水俣病と認定された患者が12人発生。ほかに5人死亡。
1956年 5歳11か月の女児が新日窒水俣工場付属病院小児科に入院。この年、50人が発病し11人が死亡。水俣保健所が「原因不明の奇病発生」として水俣病を公表。のちに水俣病の「公式確認」となる
1957年 - 水俣保健所の実験で、水俣湾内で獲れた魚介類を与えたネコに奇病発生。
1958年9月 新日窒水俣工場は、アセトアルデヒド酢酸製造設備の排水経路を、水俣湾百間港から八代海に面した水俣川河口の八幡プールへ変更
元々の排水路の位置
変更後、赤の四角の部分
これによって水俣市の北、芦北地方や八代市まで被害が拡大したと思われる
1959年7月月熊本大学水俣病研究班が「水俣病の原因は有機水銀
であることがほぼ確定的になった」と発表
- 7月、不知火海沿岸漁民総決起大会と水俣市内デモ行進。それに続く工場への乱入と警官隊との衝突により、100余名の負傷者が出る
- 12月、水俣病患者と家族でつくる「水俣病患者家庭互助会」と新日本窒素肥料は「見舞金契約」を結んだ。この契約はのちに水俣病第1次訴訟判決(1973年3月20日)で「公序良俗に反する」として無効とされた
1960年 経済企画庁、通商産業省、厚生省、水産庁からなる「水俣病総合調査研究連絡協議会」を設置
- 1月、泥・廃水プールでの廃水処理(排泥にメチル水銀を吸着させて除去)が開始
- 8月、精留塔ドレーン(廃液)のリサイクル(循環方式)の実施
※精留塔ドレーン(廃液)のリサイクル(循環方式)⇒
【チッソが水銀浄化をうたって設置した排水浄化装置「サイクレーター」
完成は1959年12月19日。同年末、チッソは患者側と低額の見舞金契約を締結。世間では水俣病問題が終結したかのように扱われたが、そもそもこの装置に水銀除去機能などなかった】
⇒つまり住民側、被害者をだましたダミーの排水浄化装置
この後もチッソは排水を垂れ流し続ける
- 1961年
- 3月、水俣市で女児(3歳)死亡。病理解剖で胎児性水俣病と確認。
- 1962年
- 8月、熊本大学教授入鹿山が「新日窒水俣工場のアセトアルデヒド工程の反応管から採取した水銀スラッジから、塩化メチル水銀を抽出した」と論文で発表
- 11月 水俣病審査会が脳性小児マヒ患者16人を胎児性水俣病と認定
- 1963年
- 2月 入鹿山は、熊本大学研究班の第2回班会議で「新日窒水俣工場アセトアルデヒド酢酸設備内の水銀スラッジから有機水銀塩を検出した」と発表
- (※スラッジ 下水処理や工場等の排水処理により、水中の浮遊物質が液体から分離したもの)
- 1964年 - 1月、東京大学医学部教授の白木が、入鹿山らの研究結果を論拠に、水俣病の原因がメチル水銀であることを確定する論文を発表。これが1968年9月の厚生省による水俣病とメチル水銀化合物との因果関係の公式認定につながることとなった
- 1965年
- 1月 新日本窒素肥料は社名を「チッソ株式会社」に改称。
- 1968年
- 5月 チッソ水俣工場はアセトアルデヒドの製造を停止
【★チッソによる有機水銀垂れ流し停止と、国による公害病認定まで36年。あまりにも遅く、被害は甚大なものとなった】
水俣湾の一部の埋め立て 1983年開始
90年水俣湾埋立地(現:エコパーク水俣)が完成