キャサリン・ビグロー監督の『ハート・ロッカー』ようやくレンタル開始。みました。
町山さんと宇田丸さんの論争についていけなくて悔しい思いをしたけど、
いや、面白かった。
「こんな状況に対処できるのは、一部の限られた人だけじゃない?」
「こういう任務は物凄い運動神経と注意力がなくちゃできないと思わない?」
「絶対私は兵士にはなれない。」
「こんな戦場に送られてほんとに対応できてるのかなあ。」
緊張感に耐え切れず、隣で見てる夫にしゃべり続けてなんとか最後までみることができた。
どれだけ緊張感のない生活をしているのかという証左でありましょう。
なんてことはどうでもいい話。
宇田丸さんの『ハート・ロッカー』評にだめだしした町山さんの気持ちが物凄くわかった。
これをああいう風に語られたら
「ちょっと待てよ!」と私だって言いたくなる。
宇田丸さんにとってのいい映画っていうのは
宇田丸さんの価値観に合致していることが大事だということなのでしょう。
このシーンの表現は評価できる、このシーンはこういう演出をすべき、、、ああ、そうですか。
宇田丸さんの語りは、まるでオタクアミーゴでの暴君・唐沢俊一のよう。
映画を語っていながら、映画人への愛が感じられない。
例えば、
毎日つくっているご飯について、
「昨日のママの餃子で評価できるのは白菜に変えてキャベツを使ったこと。
しかし、ラー油は自家製にすべきだった。
それに干ししいたけの量をふやして、干し海老の量は減らすべきだった。」
なんて息子が言ったら私は殴り倒します。
作ってくれたものはおいしくいただけばいい。
で工夫したいなら自分で作ればいい。
人の作品にけちつけてれば評論だと思って、
ねちねちお門違いな文句をしゃべり続けてるしりの穴のちっちぇやつ。
あ、なんか過激になっている。
で、あの作品のなかで町山さんと宇田丸さんの解釈が分かれている部分。
つまり精神的にぼろぼろになってようやく帰還した主人公がもう一度爆弾処理に
戻るのはなぜか、ということ。
http://podcast.tbsradio.jp/utamaru/files/20100327_podcast_1.mp3
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町山さんは「自分ができることは爆弾処理だということを再度確認し、自ら選択して戻った。」
宇田丸さんは「戦争のアドレナリン中毒になっていたので戻った。」
町山さんの説得にもめげず、宇田丸さんは映画の導入部に
『戦争は中毒だ』という文章が引用されているので
自分のような解釈をしてしまうのはしょうがないとずっと言い続けていた。
けど宇田丸さんはいちゃもんをつけてるだけ。
私の読みは以下のとおり。
主人公の男が自分の価値を表明した場面が一度だけある。
それは、自分の結婚生活のことを聞かれた主人公が
「出会って、子供ができて、結婚して、離婚した。離婚したが妻はまだ出て行かないで
子供と一緒に自分のもとにいる」と同僚に説明した場面。
その主人公の言葉に対して、
同僚がこんなやつと一緒にいるなんて変人だ、とかなんとか、忘れたけど
とにかく彼女のことをけなす。すると主人公が激怒。
「そうじゃない、彼女は誠実なのだ」と怒鳴る。
人の行いについての価値を言及したのはこの部分のみ。
離婚したにもかかわらず
子供と一緒に自分のもとに居続ける妻が誠実であるというのはどういう意味か。
主人公との関係性はあきらめて、なお、
生まれてきたbabyに対して秩序ある世界を用意しようとした彼女の母としての選択に、
主人公は崇高なものを見ているのだ。
彼と同僚とのこの短いやり取りが漫然と挿入されたなんてありえない。
なぜなら、彼は彼女の作った家庭という秩序に戻り、
baby相手に一人語りをし、そして秩序を取り戻すために戦場に戻るのだから。
戦争ジャンキーの話だなんて解釈がどうしてできるのか宇田丸さん。
で、そのあと延々と映画を見続けている。
映画ジャンキーは、家庭の秩序を乱し続ける。
なんか矛盾してるね。
ま、いいか。