『ほむぅ 4』から続き。

※以下ネタバレ

まどマギは社会現象になるぐらい?流行ったそうだけど、これはマジで観るに値するし、ハマる。
『マトリックス』が流行ったのとは大違いだよ。あれは本気じゃなかったから尻すぼみになったけど、まどマギは本当に中身がある。
対立する二元論をちゃんと取り上げてるし、
「物語を神の手から『人間の手へ』と取り戻した」と言う人もいる。
「精神性をどんどん研ぎ澄ましていくと、人は完成形に至ることが出来る。しかし完成形に至ったヒトは、人間性を失って人でなくなってしまう。」と言う人もいる。
女性心理学的な角度から考察ができると言う人もいる。
世界には善だけでなく悪も必要…いいも悪いも知らないと何が良くて何が悪いかわからない。比較対象がないとわからない。だから一元的というか正解は1つという観念は危険である、という考え方もある。
『叛逆』を成長の物語として捉えると、このラストは単純に二元論の1つを選択・正解とするのではなく、対立自体が結論…いろんなスタンスや考え方があって、多元的に扱うことで表も裏もなく欺瞞を排した、それで均衡というものが実現するというような見方の人もいる。
町山はミルトンの『失楽園』になぞらえ、アダム(人間)が神の楽園を出ていく…神の幸せな家畜であるより楽園を出ていく=人間主義・自由意志→ほむら、というような論を展開している。



まどマギ関連の本やネットの文を読むと、『叛逆』の内容は実は異空間設計としてクレジットされてる劇団イヌカレーが相当噛んでいることがわかる。
『叛逆』を味わい尽くすうえで事前知識がいるのは、前作はもちろん、あとチャイコフスキーの三大バレエ『白鳥の湖』 『くるみ割り人形』 『眠れる森の美女』(←「重要なのはストーリーではなく演出」とのこと)。ドイツ語。人魚姫の話。あと描かれてる花だったりトカゲだったり…etc.もメタファーになってるらしい。旧約聖書もちょっと入ってるのか?ベルリオーズの幻想交響曲ってのとの親和性を指摘する人もいる。
…アクション映画とプロレス観て育ってきた俺にはわかんないよ(苦笑)。
前作の解釈でメフィストが挙げられてたが、メフィストを持ち込んだのもイヌカレーらしく、脚本の虚淵は「しらんがな」と言ってる。
あの壮絶かつ感動的な物語はもちろん虚淵が書いたものなんだけど、イヌカレーが持ち込んだものが作品の多層構造をもたらして、結果まどマギって作品は重層的にトンデモ作品になっている。

そこまでくると俺なんかもう100%な解釈などできない。バレエの知識なんかないっての(苦笑)。
でも『叛逆』を構成する要素を全部把握はしてなくとも本作の凄さは感じ取れるし、面白く観れるし。実際俺は上に挙げた知識がないにも関わらず、『叛逆』は前作よりも繰り返し観ている。面白いし、求引力がある。
たぶん作った側もそれを意図しているんだろう。100人観たら100人全員解かる、ハリウッドの大作や テレビの2時間ドラマをスクリーンにかけただけみたいなテレビ局主導な邦画みたいな映画になどしてない。
わかんない部分があると重層的とか奥行きが出る。場合によっては底知れなさが出る。
…特に押井守が意識的にやってたことだけど。例えば遠景・近景・手前のキャラそれぞれに別の意図を潜ませ、1つの映像の中で三重に物語が実は展開してるみたいな。
『叛逆』の意図的な情報量の多さ。知ってる人でないと知らない元ネタ。しかも多岐。

さらにアレだよ、俺もだし多くの人も「?」なエンドクレジット後の謎のラスト。あれも脚本にはなくイヌカレーによるものらしい。もはや虚淵とイヌカレーの比率が半々に近いのではないかというぐらいだ。
オープニングの歌かなんかでまどかとほむらがイスに座って頭くっつけあってる絵と、『叛逆』のラストの独りイスに真っ直ぐでなく斜めな格好で座ってるほむらの絵を並べた人がいて、あぁ半分無いんだ!(まどかがいないんだ!)ということがよくわかり、だから月も完全な円でなく半円であると解釈した人がいて、なるほどと思ったけど。ただ、それがわかったところで、それが意味するところが解からない。
そして崖から飛び降りるほむら。一般的には崖から飛び降りたら自殺だけど、これは自殺じゃないでしょうと思ったんだけど(魔法少女はなかなか死なないし、なんたって今のほむらは悪魔だし)、「ほむらは力を手に入れたまま自殺して時間を巻き戻した。次はほむらが転校してくる日にベッドで起きるシーンからはじまるはずだけどほむらはインキュベーターも超える力を持ったままやり直すことになる。」とか「ほむらが最後に笑ってから自殺したのは これでまどかを助けられると確信したから」と言ってる人がいたけど。どうなんだろうね???
ラストカットのボロボロになったキュゥべえが意味するものは、たぶんイヌカレー(あと ごく中核の人たち?)しかわからないだろう。
悪魔ほむらに散々コキ使われてこれまでやってきた無慈悲な行いが自分に返ってきたとも見えるし、キュゥべえの逆襲を示唆していると解釈してる人もいる。
『叛逆』が作られてから4年経ったけど、ゲームとかは作られてるようだけどアニメでのさらなる続編ってのはいまだ作られてない。
もしもいつかパート4が作られるなら、『叛逆』の発端が前作のラストにあったように、このキュゥべえのカットに示唆されてるか?
一番気持ちのいい取り方は、前後編&『叛逆』3部作でもうまどマギは完結したってことで、この波乱万丈なドラマの全ての元凶であるキュゥべえがズタボロな末路を迎えたカットで締められたという、どうだっていう、溜飲下げる最高の締め(笑)。
まどかによって全ての魔法少女は救われ、ほむらによってキュゥべえへの復讐も果たされ、インキュベーターは人間を恐れて(畏れて)もう手出しはしてこないっていう、これぞホントに大団円。
って解釈でいいんじゃない^^

熱力学第二法則 宇宙の熱的死は、それが自然の摂理なら仕方ないだろう。自然に逆らったインキュベーターが酷い末路を迎えたのは当然の報いか?
あと人類を自分らより下な種族と認識していた。人間には感情があって、インキュベーターには感情がない。すなわち合理性や科学より感情・精神性の勝利。
…これは実は人間をも示唆してると思うよ。文明が進歩し、科学が進み、むやみに開発したり、年寄りで寝たきりでチューブだらけになって延命処置してそこまでしてどうすんだよってぐらい死を忌避したりと、自然に対する畏れを失ってきている、摂理に逆らってきている。調子に乗ってるともいえる。動物が可哀想だからベジタリアンになりましょうなんてのもそうだよ。
科学も大事だけど、科学的にばかりなっていくと我々もインキュベーター化する。科学的になって人間が失ったものはたくさんある。得たものもたくさんあるけど。
バランスが大事なんじゃない? 生命も自然の一部であることを忘れちゃいけない。やり過ぎないこったよ。
インキュベーターは明らかにやり過ぎた。科学が何物をも凌駕できると考えてた。宇宙の法則すら捻じ曲げようとした。(実際宇宙の法則は捻じ曲げられたわけだけど、科学技術ではなかった。解明できてない精神とか意識ってものだった。)
科学的であることを突き詰めてくと、自身の首を絞めることになる。全てが科学で解明出来るのなら、人間も単なる物質に過ぎないと証明することになる。インキュベーターは生物ではあるが感情や精神性が無いから機械やコンピューターに近く、どこが超えてはならない一線か見抜けなかった。そういう意味では人間より下等生物だったわけだ。人間より進んだ科学技術を持ちながら。
でも人間もそこに至っている。クローン技術とかね。昔だったら神の領域だよ。月面に到達した時もそうなんだけど。あれで地球で初めて人間は地球外に出れる種族になったんだから。惑星出ちゃった。地球の範疇に収まらない生物になっちゃったんだからさ。

…前作のエントリで言い忘れたんだけど、他所の生命体との邂逅の危険性ってのもある。宇宙人との出会いにロマンを感じる人が結構いるようだけど、違う法則や違う常識の者が邂逅したらどんな齟齬が生じるかわかったもんじゃない。映画『E.T.』のようにはいかないだろうっていう。
前作で俺がキュゥべえを悪とは感じなかったのは、まぁ宇宙が終わるのを防ぐ もしくは遅らせる為という理由もあるけど、あっちはあっちなりにそれなりの条件を用意して人間に取引を申し出ていた。問題だったのは“聞かれてないから答えてない”みたいな、理屈が通ってるともいえるし詐欺ともいえる(苦笑)説明不足ね。でもキュゥべえ的には肉体と魂を分離して何が悪いの?という、別に悪気があったわけじゃないんじゃない?
しかし人間にとってはその説明不足の部分が致命的なことだったのが問題だった。
インキュベーターが人間の心を理解できなかったのは仕方がない。彼らは感情というものがない生命体なんだから。そういう生命体がいたって別におかしくはない。逆に人間が持つ心とか感情とか精神性とかってものこそが特異であるかもしれないし、…宇宙は人間を中心にまわってんじゃないんだからさ。環境が違えば進化の仕方も違うだろうし。
そもそも人間同士の間ですら齟齬は生じてんだから。国の違いからとか、宗教の違いからとか、先進国と後進国の意識の差とか、挙げたらキリないけど。
人間同士の間ですら齟齬があるのに、ましてや人類と他所の生命体となればもっと隔絶してるはずであってさ。そもそも体の組成からして違うだろう。意識というものを有しているかどうかもわからない。人間ですら近代以前は自意識がなかったんだから。キュゥべえみたいな感情はないがハイテクノロジーはあるって種族がいたって不思議じゃないんじゃない?
町山のトークで、人間が自意識を持ったのはルネッサンス=近代以降だという話が出てくる。近代以前と以降だと人間の意識は劇的に変化している。そして科学の発展も近代以降。
町山は例の1つとして宗教の否定を挙げてたが、俺の言い方だと心霊の否定ともいえる。霊なんていない、あの世なんてない、そんなのは科学的でない――だが意識は科学や化学などでは斬れない。少なくとも今ンとこ解明出来てないし、解明出来たなら それはより一層人間とは物質なのだと証明することに他ならない。
人間は自意識や感情や精神性があるからこそ、他の生物にはない信念や哲学や美学…etc.また映画や音楽や文学…etc.といったものを生み、まどマギのような感動的な作品も生まれた。
人間って結構悪くない生き物かもしんないよ? ほむら・杏子・さやか・まどかが体現していたように。
でも人間もインキュベーターと同じ過ちを犯す可能性がある。その兆候はとっくに出ている。
町山の話の中で世界はループしてるって話が出てくる(歴史の中でここ200年前後だけが異常に突出してたって話)。
あと近代以前の人間は自意識がなかった、人形みたいなものだったっていう。そして人間もあまりに科学的になっていけば、つまり人間が物質に過ぎないともし証明したなら、自意識という概念は崩壊し、近代以前の人間の感じに逆戻りするのではないかと思える。
俺はヒューマニズム(神主義ではなく人間主義)の人なんで、『男たちの挽歌』や『銀河鉄道999(劇場版)』や『まどマギ』は人間の最高峰を描いた作品なのではないかと思える。彼ら彼女らの精神性こそ、人間という種族の価値だと。
現在の人間は停滞してるらしい。町山の話でのポストモダンのとこ。この精神性↑ってのは、人間の進化の頂点だったのかもしれない。ここからまた緩やかに退行していくのか?
なら『まどマギ』という作品は人間の歴史の中で、もっといえば宇宙の中で、燦然と輝き続ける。


…というわけでまどマギ劇場版3作は映画史に残る作品だろう。