B & B | 気ままな暮らしDAISUKI!

B & B

B&B(ビー アンド ビー)は、広島県出身の島田洋七と岡山県出身の島田洋八の漫才コンビです。

1971年、島田洋之介・今喜多代に入門した島田洋七が1972年、桂三枝に紹介された団順一(現在の放送作家・萩原芳樹。以下萩原)と初代B&Bを結成し、洋七は島田洋一名で漫才師としてデビューしました。コンビ名はアルバイトしていたディスコの店名を拝借して「B&B」と命名したそうです。

いろいろあって初代B&Bが消滅すると、1973年5月、洋七は上方真一(後の上方よしお)と二代目B&Bを結成。真一は萩原と組めると思ったら洋七の方だったという。

スピード感溢れるしゃべりとセンスは高い評価を受け、数々の賞を受賞しました。

結構売れて、1975年1月にフジテレビ『オールスター90分』のレギュラーに、活動を休止したあのねのねに代わって抜擢された。

洋七は東京で勝負しようとよしおを誘ったが、よしおが尻込み、他にもいろいろあって二代目B&Bは解散した。 

 

洋七は漫才を諦めようかと悩んだが、花月劇場の幕引き、進行役をしていた島田洋八を口説き1975年9月、三代目B&Bを結成。

「七転び八起き」から、それぞれ洋七・洋八に師匠の島田洋之介が命名した。

当時の星セント・ルイスの人気をみて、大阪ローカルではダメ、東京発の全国ネットのTV番組に出演しなければと悟ったこと、付き合いのあったビートたけしから「東京に来いよ」と言われていたことから東京に出る。

吉本をやめ、東京の漫才協団に加入し戸崎事務所に移籍。瞬く間に高い評価を得て、1980年1月、澤田隆治プロデュースの「花王名人劇場」(関西テレビ)「激突!漫才新幹線」に抜擢され出演。ゴールデンタイム1時間枠をB&B、やすしきよし、星セント・ルイスの三組が漫才を披露した。

それまで漫才と言えば、スーツか派手なタキシードに蝶ネクタイで脚本通りの掛け合いを見せるものだったが、TシャツにGパン、長髪の若者がボケ役の一方的なしゃべり、郷土ギャグ、オーバーアクションを駆使した高速漫才をしたものだから世間には新鮮にうつり、大反響を巻き起こした。16ビートのマシンガン漫才はお茶の間には衝撃的だった。

 

長らく司会に専念していたやすしきよしが、長い漫才をやるということもあって「激突!漫才新幹線」は高視聴率を稼ぎ、これで各局が漫才番組を製作するようになる。

フジテレビプロデューサーの横沢彪がゴールデンタイムに1時間半、B&Bなど若手コンビを起用し、客席に若い人を入れるという画期的なお笑い番組「THE MANZAI」を企画すると大当たりした。

お笑いスター誕生!!」(日本テレビ)が始まると、10週を勝ち抜き初代グランプリとなり大ブレイク、漫才ブームを引き起こす。

昼に全国ネットの『笑ってる場合ですよ!』(フジテレビ)の総合MCを務めたころには、とんでもない数の番組に出演する殺人的スケジュールとなった。

所属事務所は社長が一人、タレントはB&Bだけで社長がマネージャーを兼務していたため、ギャラは3人で山分け。毎月数千万を段ボール箱に入れて持って帰ったという。

洋七は「月給が最高の月は8000万円、4年間で32億円稼いだ」と語っているが、納税や年金、健康保険料も大変だったろう。

 

この人気が原因で漫才のネタを考える時間が無くなり、同じネタを繰り返し使うようになると飽きられていった。

1982年の「笑ってる場合ですよ!」終了の頃には人気が急降下、1983年秋にB&Bは解散した。

 

洋七は休養生活に入って表舞台から姿を消した。

1999年から佐賀県に転居し、講演会中心の活動。

佐賀での極貧の少年時代を著した「佐賀のがばいばあちゃん」がベストセラーとなって漫画化・映画化された。

1996年に洋八とB&Bを再結成し、たまにテレビに出演することがある。

 

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